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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

王であるキリスト(2020/11/22 マタイ25章31-46節)  


教会暦と聖書の流れ


 この福音の箇所はマタイ24章4節から始まった、終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語になっていきます)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。「王であるキリスト」という祭日の名称よりも、この福音そのものを深く受け取ることが大切だと言えるでしょう。


福音のヒント


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  (1) 31節では「人の子」が主語ですが、34節でそれが突然「王」に変わっているので、31-33節と34節以降は、本来別の話だったものをマタイが結びつけたとも考えられます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」(31節)は、申命記33章2節(のギリシア語訳)やゼカリヤ14章5節から採られた表現であり、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(32-33節)の背景にはエゼキエル34章17節があります。神の現れと裁きに関する伝統的な表現であり、この31-33節は世の終わりのあり様そのものを伝えようとしているというよりも、裁きの中身(神によって決定的に問われることは何か、ということ)を語るための舞台装置のような役割を果たしていると考えたらよいでしょう。

  (2) 神の判断(裁き)で何が決定的に問われるか、ということについて、この箇所は疑問の余地のないほど明快な基準を示しています。ただし、この箇所をめぐって以下のような考えもありますので一応、紹介しておきましょう。
 一つは「誰がここで裁かれているか」ということについてです。実はわたしたちは「主よ、いつわたしたちは、・・・したでしょうか」と言うことはできません。この箇所を読んでいるわたしたちは、このように裁かれることを知っているので、わたしたちにとってイエスの言葉は意外であるはずはないのです。だとするとこの箇所は、「聖書やキリストを知らない人々がどのような基準で裁かれるか」を語る話だと考えるべきではないか、という解釈があります。
 また、これと関連して「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは誰のことか、という問題もあります。マタイ10章40,42節にこういう言葉があります。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」確かによく似ているので、ここでも「この最も小さい者」は一般的に助けを必要としている人ではなく、イエスの弟子(特に迫害されている弟子)のことだ、という考えもあります。
 このように考えると、「キリスト信者でない人は、迫害されているキリスト信者に対してどのようにふるまったか、によって裁かれる」という話だということになります。

  (3) このような考えは確かに言葉の解釈上は成り立つかもしれませんが、根本的に何か違うと感じられないでしょうか。この箇所全体は、世の終わりの裁きのあり様やその客観的基準を教えるための話ではなく、最終的な神の判断という点から見てわたしたち自身の今の生き方を問いかけている話であるはずで、自分たちとは別の人々がどう裁かれるかということを知識として知って、頭で納得するための話ではないのです。わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われるのです。

  (4)  実はこの箇所で、イエスはそれ以上のことを言っています。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言うのです。このことは一つの疑問を生むかもしれません。「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためであり、さらに言えば、結局自分が最後の裁きで有利になるためなのではないか? それが本当の愛と言えるか?」このことを考えるとき、「主よ、いつ・・・」という言葉は大切になるでしょう。この人々は本当に目の前の人を助けることに夢中だったのです。決して、神への愛のための手段として隣人を愛したのではないのです。

  (5) それにしても、なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。イエスご自身が、生涯の終わりにこの人々と同じようになっていった、ということを考えずにそれを理解するのは難しいでしょう。エルサレムの町に入られたとき、イエスは「飢え」ていました(マルコ11章12節参照)。「渇く」はヨハネ福音書が伝える十字架のイエスの言葉です(ヨハネ19章28節)。イエスの受難はエルサレムに「旅をしていた」ときに起こりました。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「」に入れられました。十字架にかけられるとき、イエスは「」にされました。「病気」以上にイエスは十字架刑で苦しめられ、弱り果て、命まで奪われます。イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と1つになる道だったと言えます。だからこそ、イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。
 わたしたちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためなのです。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 エゼキエル34・11-12、15-17


 11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。15わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。16わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。
 17お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。


第二朗読 一コリント15・20-26、28


 20〔皆さん、〕キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、24次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。25キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。26最後の敵として、死が滅ぼされます。28すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。


福音朗読 マタイ25・31-46


 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

Posted on 2020/11/13 Fri. 09:12 [edit]

category: 2020年(主日A年)

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