福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第6主日 (2021/2/14 マルコ1章40-45節) 
教会暦と聖書の流れ
マルコ福音書は1章39節でイエスの活動を簡潔にまとめて、「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」と表現しています。「悪霊を追い出す」ことは「病人をいやす」ことと密接に結びついていました(先週の「福音のヒント」参照)。きょうの箇所も一人の病人とイエスとの出会いを伝えています。
福音のヒント
(1) 「重い皮膚病」は1987年発行の『聖書 新共同訳』の中では「らい(病)」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に「重い皮膚病」という訳に変わりました。差別的なニュアンスのある「らい(病)」という言葉を避けるためであり、また、聖書の中のこの病気が現代医学の「ハンセン病」と同じだとは言い切れないからです(なお、2018年発行の聖書協会共同訳では「規定の病」という訳語が用いられています)。しかし「重い皮膚病」や「規定の病」という言葉では、古代から続くハンセン病患者たちの大きな苦しみを感じることができなくなってしまうかもしれません。聖書の世界でこの病の人々が負わされていた苦しみはレビ記の規定から想像できます。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13章45-46節) 。
「伝染病」という考えはなくても、「汚れがうつる」という考えはありました。「汚れている」とは「聖である神と対極にいる、神からもっとも遠い人間だ」ということです。また、この病は「神に撃たれたもの」とも考えられました。「宿営の外」は共同体から追放されることを意味しています。神との関係も人との関係も完全に絶たれてしまうのです。肉体的な苦しみだけでない、大きな苦しみがこの人々にはありました。このような苦しみのことを考えずに、きょうの箇所を理解することはできません。
(2) 「御心(みこころ)ならば、わたしを清くすることがおできになります」「よろしい。清くなれ」(40-41節)は、直訳では「あなたが望むなら、あなたはわたしを清めることができます」「わたしは望む。清められよ」です。単純で力強いイエスの言葉です。イエスは彼に触れました。触れることは相手の苦しみを共に担おうとする動作だとも言えますし、「あなたは神からも、人からも断ち切られた人間ではない」という宣言だったとも言えるでしょう。病気や苦しみに対するイエスの態度はどのようなものだったのでしょうか。確かにイエスは人々を苦しみから解放しようとされました。しかし、最後にはご自分の身に降りかかってくる苦しみを受け入れました。病気や苦しみについて考えるとき、この両面を考えないわけにはいきません。どちらの場合も、イエスにとって大切なことは神とのつながり、人とのつながりを生き抜くことでした。
(3) 「深く憐れんで」は、元のギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai(=はらわたを揺さぶられる)」という言葉(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)ですが、ここには写本上の問題があります。現存する古代の多くの写本を比べてみると、それぞれ微妙な違いのある箇所があります。この箇所では「深く憐れんで」が「怒って」となっている写本があるのです。「深く憐れんで」のほうが分かりやすいことは確かです。しかし、書き写す際にわざわざ難しく書き換えることは考えにくいので、本来は「怒って」だった可能性もあります。もし「怒って」だとすれば、その怒りは何に対するものでしょうか。もちろん、目の前の病人に対してではないはずです。この人を苦しめている何ものかに対する怒りだと言ったらよいでしょう。いずれにせよ、イエスは目の前の苦しむ人との出会いの中で激しく心を揺さぶられ、その人を助けます。イエスは「神の国の到来」を証明しようとして「いやし」を行なったわけではないのです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)という言葉にも、このようないやしの奇跡によって自分を理解されることを望まないイエスの思いを感じ取ることができます。
(4) 「祭司に体を見せ」ることは社会復帰のための条件でした。当時、人を重い皮膚病であると判定するのも、それが清められたことを判定するのも祭司の役割でした。肉体的にいやされても、祭司によって清いと宣言されなければ、もといた村や家族のところに帰ることはできないのです。イエスはただ単に彼の肉体的な病をいやすだけでなく、彼と人々との絆(きずな)を取り戻そうとしていると言うこともできるでしょう。
(5) イエスによるいやしについて、アルバート・ノーランという南アフリカのドミニコ会司祭は次のように書いています。「イエスのいやしの活動が成功したことは、宿命論に対する信仰と希望の勝利として見られねばならない。病気を自分の定めとして諦めていた病人が、自分たちは治ることができるし、そうなると信じるよう勇気づけられたのだ。イエス自身の信仰、そのゆるぎない確信が病人のうちにこの信仰を呼び覚ました。信仰は、人々がイエスとの接触をとおして彼から獲得したある態度であった」(『キリスト教以前のイエス』篠崎榮訳。新世社)。わたしたちの時代にもある種の宿命論(=あきらめ)があります。「どうせ世界は変わりっこない」「あんな人はダメに決まっている」「自分はどうにもダメな人間だ」などなど。もちろん、イエスが受難の道を受け入れたように、人間には受け入れなければならないこともあります。しかしあきらめてはいけないこともあるはずです。イエスの信仰(確信)は、神はすべての人のアッバ(父)であり、どんな人をも決して見捨てることなく、ご自分の子として愛してくださる、ということでした。イエスのこの確信は現代のさまざまな形の宿命論(=あきらめ)にも挑戦してきます。
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※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。
第一朗読 創世記3・16-19
16神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する。」
17神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
18お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
19お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」
第二朗読 一コリント10・31〜11・1
10・31〔皆さん、〕あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。32ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。33わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。11・1わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
福音朗読 マルコ1・40-45
40〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言った。41イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、42たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。43イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、44言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」45しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
Posted on 2021/02/05 Fri. 08:30 [edit]
category: 2021年(主日B年)
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