福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
四旬節第5主日 (2021/3/21 ヨハネ12章20-33節) 
教会暦と聖書の流れ
四旬節・復活節の根本的なテーマは、イエスの死と復活(=過越)にあずかることです。ヨハネ福音書はある意味で、すべての箇所がこのテーマだと言えるので、この季節によく読まれます。きょうの箇所は、第3、第4主日よりも、さらに直接的にイエスの受難と結びつく箇所です。イエスの受難の時=栄光の時が迫っています。
福音のヒント
(1) 20節の「祭りのとき」は「過越祭(すぎこしさい)の期間」で、「ギリシア人」はギリシア語を話す異邦人のことを指す言葉です。異邦人からイエスに会いたいと頼まれた弟子のフィリポは、なぜかこのことを直接イエスに伝えず、アンデレに話し、二人一緒にイエスのところに行ってそれを伝えました。この回りくどいやり方は何を意味しているのでしょうか? 実際にこの異邦人たちはイエスに会ったのでしょうか? この出来事と23節「人の子が栄光を受ける時が来た・・・」以下のイエスの言葉はどうつながるのでしょうか?
一つの考えはこうです。「弟子たちは驚き、戸惑っているが、イエスのことが異邦人にも知られ、異邦人にも救いがもたらされることが、決定的な救いの時のしるしである、とヨハネ福音書は考えている」 確かに32節にある「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」という言葉につながるかもしれません。なお、「上げられる」には「天に上げられる」と同時に「十字架の木の上に上げられる」の意味があります(先週の「福音のヒント」参照)。
別のことも考えられます。「弟子たちは異邦人までイエスのところにやってきたのを見て、イエスの地上の名声に心を奪われていた、その弟子たちに向かってイエスはご自分の道、受難の道を予告した」 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の受難予告には、いつも「弟子の無理解」というテーマがありました。イエスが受難を予告しても弟子たちはそれを理解できないのです。この共観福音書の受難予告と同様のパターンがここにも見られるのではないか、と考えることもできるのではないでしょうか。
(2) 「栄光」はギリシア語では「ドクサdoxa」です。この言葉には「輝き」という意味があります。ヘブライ語で栄光と訳される言葉は「カボード」です。カボードの元の意味は「重さ」だと言われます。カボードは「そのものの真の価値」というニュアンスがある言葉なのです。ヨハネ福音書は両方のニュアンスを掛け合わせ、「そのものの真の素晴らしさが輝き出ること」の意味で「栄光」という言葉を用いていると考えられます。ここでは「ドクサゾーdoxazo」という動詞の形が使われていて、「栄光を現す」(能動態 28節)、「栄光を受ける」(受動態 23節)と訳されていますが、「輝かす」「輝かされる」と訳すこともできるでしょう。ただし、それは表面的な輝きやこの世的な成功ではなく、十字架の中にある輝きなのです。
(3) 「一粒の麦」のイメージは大切です。現代人の見方からすれば、地に落ちた麦はもちろん死ぬわけではありません。しかし、麦粒は麦粒であることを守ろうとすれば、1つの麦粒のままです。麦粒が自分を壊し、養分や水分を受け入れ、ほかのものとつながってこそ、豊かないのちが育っていきます。イエスのいのちはまさにそのようないのちでした。自分の中に閉じこもって、自分を守ろうとするのではなく、自らを壊して、神とのつながり、人とのつながりに生きようとしたいのちだったのです。この言葉は、イエスご自身のいのちについて語りながら、もちろん、わたしたちにも同じように生きることを呼びかけています。わたしたちはどんないのちを生きようとしているでしょうか。
25節の「命を愛する」「命を憎む」は分かりにくい表現かもしれません。これも一粒の麦のイメージで捉えたらよいでしょうか。「命を愛する」は一粒の麦が自分を守り、一粒のままでいようとすること。「命を憎む」は、一粒の麦が自分を壊して、もっと大きないのちになっていくこと。すなわち、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりの中にあるいのちへとよみがえる、というイメージで受け取ってみてはどうでしょうか。
(4) この25節は、マルコで最初の受難予告の後に語られる言葉(マルコ8章35節)に似ています。26節の「従う」もマルコ8章34節でも使われている言葉です。「仕える」は、マルコ福音書では3度目の受難予告の後にあります。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章44-45節)。これはまさにイエスと弟子たちの生き方の中心を表すような言葉です。ヨハネはマルコと共通の伝承を用いているようです。
(5) 27節「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」は、マルコ14章35-36節のゲツセマネの祈りを思わせる言葉ですが、ヨハネ福音書では「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と続きます。「この時」は「栄光を受ける時」(23節)であり、「この世が裁かれる時」(31節)、「地上から上げられるとき」(32節)でもあります。イエスの十字架の時は、イエスが神とはどういう方であるかを現し、神がイエスとはどういう方であるかを現す栄光の時なのです。イエスが極限の愛(13章1節)を示すことによって、「神が愛である」ことを完全に現す時なので、悪(=愛に反するこの世の支配者)に対する決定的な勝利が現れる時でもあるのです。
ヨハネは十字架の表面的なみじめさや悲惨さには目もくれません。そうでなく、そこに現れる「愛である神」を見るのです。これもわたしたちに対する大きな招きでしょう。
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第一朗読 エレミヤ31・31-34
31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
第二朗読 ヘブライ5・7-9
7キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。8キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。9そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり〔ました。〕
福音朗読 ヨハネ12・20-33
20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
Posted on 2021/03/12 Fri. 10:08 [edit]
category: 2021年(主日B年)
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