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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第11主日 (2021/6/13 マルコ4章26-34節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ福音書では、この4章にイエスの語ったさまざまなたとえ話が集められています。4章1-2節にはこう始まっていました。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。…」(1-2節)。こうして「種まく人」のたとえ話が語られますが、10節には、「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。」とあり、その後、きょうの箇所まで場面や話の相手は変わっていないような印象があります。


福音のヒント


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  (1) しかし、マルコ4章の伝える状況が、イエスがこのたとえ話を語った本来の状況だったとは考えにくいものがあります。むしろ、いろいろな場面、いろいろな状況で語られたイエスのたとえ話が、その本来の状況から切り離されて、たとえ話だけで独立して伝えられてきて、それがこのマルコ4章の「たとえ話集」のように集められたのだと考えられるでしょう。ですから、マルコ4章では群衆や弟子たちに向けて語られた一般的な教えのようになっているものも、本来はそうではなかったのかもしれません。
 ヨアキム・エレミアス(1900-1979)という聖書学者は、イエスのたとえ話は本来すべて「福音の弁明」であると考えました (A年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。イエスのたとえ話は抽象的、一般的な教えを述べるためではなく、ある特定の状況の中で、イエスに対する批判や疑問に答えるために語られたというのです。イエスに対する批判に答えるためにたとえ話が語られた典型的な例としては、有名なルカ福音書15章があります。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人(つみびと)たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」(1-3節)。こうしてイエスは「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」という3つのたとえ話を語ります。これらのたとえ話は、イエスがご自分の行動の意味を解き明かし、何が神のみ旨にかなうことであるかとはっきりと示すためのものです。

  (2) 今日のたとえ話は、一般論として神の国が最初は小さいが、いつか大きくなるということを教えているのでしょうか。むしろここにもイエスに対する批判や疑問が背景としてあったと考えてはどうでしょうか。
 イエスのメッセージの核心は、「時は満ち、神の国は近づいた」というものでした(マルコ1章15節)。それは言葉を代えて言えば、「神は沈黙を破り、ご自分の民を救うために、今、決定的な何かをなさろうとしておられる」というメッセージであり、当時の人々にしてみれば、ローマ帝国の支配を打ち破り、イスラエルに自由と解放をもたらすというような、政治的・軍事的なメッセージに聞こえたことでしょう。しかし、現実にイエスの周りで起こっていたことは、病人や悪霊に取りつかれている人がいやされ、貧しく無学な人々がイエスの弟子になっていくということでした。イエスの周りには多くの人が集まってきますが、それはマタイ福音書の表現を借りるならば「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章24節)の群れでした。マルコでも「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」(3章10節)とあります。イエスのもとに集まった人々はほとんど病人とその家族のようでもあります。そして、イエスはこの人々を指して、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(3章34節)と宣言されたのです。

  (3) 周囲の人々から、この様子はどう見られたでしょうか? 神の国のために戦う戦士になろうと考えていた「熱心党のシモン」(マルコ3章18節)のような弟子たちはこの現実をどのように見たのでしょうか? 多くの人々から見ればイエスの周りで起こっていることはあまりにも小さく、弱々しい人の群れでしかなく、神の国からほど遠いものだったのではないでしょうか。そんな中でイエスが今日のたとえ話を語ったとすれば、それはどういう意味を持ったでしょうか。
 「確かに神の国と言っても今は吹けば飛ぶような小さな現実にしか見えないかもしれない。しかしそれは種なのだ。種が本物で生きていれば、いつかそれは必ず大きなものへの成長していき、大きな実りがもたらされる」イエスは神の国のメッセージに対する疑問にこのようなたとえ話を用いて答えたのではないでしょうか。
 28節「ひとりでに」はギリシア語で「アウトマトスautomatos」という形容詞で、英語の「オートマチックautomatic」の語源です。「からし種」は、種は直径1,2ミリの小さなものですが、成長すると2~3メートルにもなる植物です(表の写真参照)。もちろんこの驚くべき成長をもたらすものは神ご自身の力なのです。

  (4) 「たとえ話」は常識的には、物事を分かりやすく伝えるために語られるはずです。イエスのたとえ話も本来、それを聞いている人に分かりやすいものだったはずです。しかし34節では、たとえ話には特別な説明が必要であるかのように言われています。11-12節にもこうありました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦(ゆる)されることがない』ようになるためである。」もし福音書のたとえ話が分かにくいとするならば、上に述べたように、本来語られた状況が消えてしまい、たとえ話だけが伝えられたことによるのではないでしょうか。
 たとえ話を読むとは、イエスのたとえ話を今のわたしたちの現実の中に置き直してみることでもあります。わたしたちの現実の中で、みすぼらしく、弱々しく、こんなのでは何にもならないと思われるような現実があるとき、それでもそこに神の国の「種」を見ていくことができるならば、わたしたちの現実に対する見方は変わっていくはずです。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 エゼキエル17・22-24


 主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。


第二朗読 二コリント5・6-10


 〔皆さん、わたしたちは天に永遠の住みかが備えられていることを知っています。〕それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


福音朗読 マルコ4・26-34


 20〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。


Posted on 2021/06/04 Fri. 09:30 [edit]

category: 2021年(主日B年)

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