福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第21主日 (2021/8/22 ヨハネ6章60-69節) 
教会暦と聖書の流れ
年間第17主日から始まったヨハネ福音書6章の朗読の結びです。ヨハネ6章は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えた出来事から始まって、パンをめぐるイエスと人々との対話が続いてきました。最終的に今日の箇所で、イエスの話を聞いた人々は、「実にひどい話だ」と言いますが、それは「わたしは天から降(くだ)ってきたパンである」(33-40節)、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)というようなイエスの言葉を理解できなかったからだと言えるでしょう。
福音のヒント
(1) ヨハネ福音書は1世紀末か2世紀初めに書かれたと考えられています。紀元80年にユダヤ教のラビたちは、キリスト信者をユダヤ教の会堂から追放するという決定を下しました。もはやキリスト教とユダヤ教徒の対立が決定的になってしまった時代にヨハネ福音書は書かれたのです。この箇所の背景には、このような厳しいユダヤ教との対立、そしてその結果、キリスト者の中にユダヤ教に戻ろうとした人がいたことがあるのではないかと考えられます。福音書のイエスの言葉は録音機器に記録されていたようなものではありません。ヨハネ福音書は長い年月をかけて、イエスを信じないユダヤ人たちとの論争の中で、イエスの言葉を思い起こし、拡大していったと考えたらよいのではないでしょうか。
(2) 62節「人の子がもといた所に上(のぼ)る」はもちろん「天に上る、神のもとに上る」ことを意味しています。6章では「天から降(くだ)ってきたパン」という言葉が何度も繰り返されてきましたが、この言葉と対応しています。ヨハネ福音書において、イエスは「神のもとから来て、神のもとに帰る」(ヨハネ3章13節、13章3節、20章17節参照)方なのです。またヨハネ福音書の「上る」は「天に上る」だけでなく、「十字架の木の上に上げられる」ということとも結びついています(3章14節参照)。十字架の時は、イエスが愛である神の姿を完全に現し、愛である神と一つになる時だからです(ヨハネ13章1節参照)。
(3) 63節では「霊」と「肉」が対比されています。「霊肉二元論」という言葉がありますが、これは人間の中に「霊」と「肉」があってその2つが対立する原理である、というような考えです。聖書の中で「霊」「肉」は人間を構成している2つの部分ではなく、人間の二通りのあり方を表す言葉だと言えるでしょう。「肉」は神とのつながりのない人間のあり方を指し、「霊」とは神とのつながりの原理を指すのです。根本にはいつも、創世記2章7節の「主なる神は、土の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という生命観があります。人は神によって生かされたものであって、この、人を生かす神とのつながりの原理が「霊(=命の息)」なのです。
イエスの生涯と言葉のすべては、この神とのつながりこそが人を生かすものであることをはっきりと示していました。これを見失い、人間が自分の力に頼って生きようとすること(これが「肉」です)の中に本当のいのちはないのです。
現代のわたしたちは人間の力・知恵・努力が非常に重視される世界に生きています。だから人間の弱さや限界というものをなかなか認められなくなっているのかもしれません。しかし根本的に、「人間には弱さや限界があり、それでも大きな力が自分を生かしてくださっている」というところにこそ信仰の世界は成り立っているのです。
(4) 「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである」(64節)とか「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(65節)という言葉は、信じる人と信じない人を神が前もって決めている、という意味ではないでしょう。これらの言葉は、イエスを信じることは人間の力によるのではなく、神の恵みによるということを強調しているのです。「信じるか信じないかは人間の決断の問題だ」ということと「信仰は神の恵みだ」ということは人間の頭で考えると矛盾しているように思えます。しかし、その両方が真実であることをわたしたちは体験的に知っているのではないでしょうか?
また、このような言葉は、神の計画に対する信頼の表れでもあります。すべては神の計画の中にあり、人間的に見て不条理なことや理解に苦しむことも実は神の大きな救いの計画の中にあり、人間が拒否しても裏切っても神の救いの計画は確実に実現に向かっているという信頼を表す言葉なのです。そして、イエスはこの神の計画全体に決定的な意味で参与している方なので、「最初から・・・知っておられた」ということになるのです。
(5) 「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)。ここでいう「このため」は「これまでのイエスの説教全体を聞いてつまずいたため」という意味でしょう。このように多くの弟子が離れて行ったという記録は他の福音書にはありません。ここにも(1)で述べたような、ヨハネの時代の厳しい状況が反映しているのかもしれません。ともかく、これはショッキングな言葉です。わたしたちがショックを受けるのは、この言葉が他人事ではなく、自分たちの現実にもあてはまるかもしれないと感じるからではないでしょうか。わたしたちが「イエスから離れ、イエスと共に歩まなくなる」危険を感じるとしたら、それはどんなときでしょうか?
68-69節「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。このペトロの答えは模範的です。もちろんわたしたちもそのように答えたいのです。しかし、こう答えれば○で、こう答えなければ×というふうに自分や他人を裁いても意味はありません。「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)。わたしたちはいつもこの問いの前に立たされているのです。「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」とイエスが言われるとおり、この問いにペトロのように答えることができるとすれば、それは神の恵みによる以外にないことです。
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第一朗読 ヨシュア24・1-2a、15-17、18b
1〔その日、〕ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、2ヨシュアは民全員に告げた。
15「もし主に仕えたくないというならば、〔ユーフラテス〕川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
16民は答えた。
「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。17わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。18bわたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」
第二朗読 エフェソ5・21-32
〔皆さん、〕21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。23キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。24また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。26キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、27しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。28そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。29わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。30わたしたちは、キリストの体の一部なのです。31「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」32この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。
福音朗読 ヨハネ6・60-69
60〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・・。63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
Posted on 2021/08/13 Fri. 10:00 [edit]
category: 2021年(主日B年)
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