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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第22主日(2021/8/29 マルコ7章1-8,14-15,21-23節)  


教会暦と聖書の流れ


 年間第17~21主日、5週間にわたってヨハネ福音書6章が読まれてきましたが、きょうから再びマルコ福音書の朗読に戻ります。年間第16主日の箇所は、マルコ6章30-34節でしたが、その後、マルコ福音書は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与え、湖の上を歩いて舟をこぎ悩んでいた弟子たちに近づき、さらに、多くの病人をいやしたイエスの姿を伝えています。そして、きょうの箇所になります。直前に出てくる地名は「ゲネサレト」で、これはガリラヤ湖の北東岸の町の名です。


福音のヒント


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  (1) マルコ福音書では、イエスの活動はずっとガリラヤ地方を中心に行なわれていて、生涯の最後に一度だけイエスはエルサレムに行き、そこで十字架にかかって死ぬことになります。ヨハネ福音書ではイエスは活動中に何度かエルサレムとガリラヤを行き来していますし、エルサレムでの活動も伝えられています。マルコは、神の国を告げるイエスの活動の場であった「ガリラヤ」とイエスを十字架につけた町である「エルサレム」を対比させているのかもしれません。ここでも「エルサレムから来た」という言葉に、その人々がイエスに敵対的な人々であるという意味が込められているようです。

  (2) ファリサイ派は律法を熱心に学び、厳格に守ろうとしていたユダヤ教の一派でした。彼らは、律法学者たちが何世代もかけて作り上げてきた律法解釈を大切にしていました。それがこの箇所では「昔の人の言い伝え」(3節)と言われているものです。イエスの時代には文字に書かれることなく、律法学者たちが口伝えで受け継いできたので「口伝(くでん)律法」とも呼ばれています。なお、これが後の時代に「ミシュナ」や「タルムード」という膨大なユダヤ教文書になって現代まで伝えられていくことになりました。
 「ファリサイ」という言葉の本来の意味は確かではありませんが、一説によると「分離する」という言葉から来ていて、「律法を知らない汚(けが)れた民衆から分離した者」あるいは「罪や汚れから分離した者」の意味ではないかと考えられます。ファリサイ派は「清さと汚れ」に敏感でした。ここでいう「手を洗わない」は現代の衛生観念の問題ではありません。手を洗うのは、宗教的な清めのためです。なお、4節に「市場(いちば)から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」とあります。「市場」は異邦人と接触する場であり、特に汚れを移されやすい場であると考えられていました。
 「汚れた」と訳されている言葉は、ギリシア語で「コイノスkoinos」です。この言葉は本来は「共通の」という意味でした。「交わり」とか「一致」と訳される「コイノニアkoinonia」という言葉はここから来ています。ファリサイ派にとって、特別に清められていないもの=「共通のもの」は皆汚れていたのです。

  (3) ファリサイ派の人々のイエスに対する批判は、イエスご自身の行動だけでなく、むしろイエスの弟子やイエスが関わっていた人々についてのことが多かったようです。ここでの「手を洗わない」という問題もそうですが、他にも「なぜ断食しないのか?」(マルコ2章18節)、「なぜ安息日に麦の穂を摘むのか?」(2章23-24節)といったイエスの弟子たちについての非難が伝えられています。イエスの弟子たちは「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)であり、ファリサイ派的な敬虔さから程遠かったのでしょう。当時の宗教者の基準からは評価されないような弟子たちを、イエスはいつも弁護してくれました。
 しかしここには、ただ単に弟子たちへの思いやりというだけでなく、もっと根本的なイエスの生き方が表れていると言えます。イエスは「分離」ではなく「交わり(コイノニア)」を重んじました。イエスにとってすべての人は「アッバ(父)である神の子」であり、その人間を「清いか、汚れているか」「正しい人か、罪びとか」で分けることよりも、すべての人を神の子として、この神との交わりの中に招き、人と人との兄弟姉妹としての交わりの中に招くこと、これがイエスの使命であり、メッセージだったのです。

  (4) 6-7節にはイザヤ29章13節が引用されています。14-15節は、宗教的な清めにこだわっていた当時のファリサイ派に対する一般的な反論でしょう。イエスが問題にしているのは、さまざまな清めの儀式ではなく、人間の心のあり方です。21-22節では、心の中から出て人を汚すものとして、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢、無分別」が挙げられています。もちろん、どれも大きな問題ですが、特に「悪口、傲慢」というところに注目してもよいかもしれません。それはまさにきょうの箇所でのファリサイ派や律法学者の問題だからです。「自分たちは宗教的な清めのためにいつも努力している、それなのにイエスの弟子は手を洗わない!」そう言って、彼らは自分たちの優越感から他者を見くだし、非難したのです。
 わたしたちの中にも同じ問題がないとは言えないでしょう。自分は真面目で熱心だと思えば思うほど、その基準を人に押し付けて、他人を「汚れた人間」「ダメなやつ」として裁いてしまう危険があります。そのような態度はイエスの心からどれほど遠いことでしょうか?

  (5) 省略されている箇所には次のような言葉があります。18-19節「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。下線の部分は分かりにくい箇所ですが、「彼はすべての食べ物は清いと言われた」と訳すこともできます。そうだとすれば、これはイエスの言葉ではなく、福音記者マルコの解説でしょう。旧約聖書の律法には食べてよいものと食べてはいけないものについてのさまざまな規定(食物規定)がありました。しかし、初代キリスト教会はユダヤ教の食物規定を捨ててしまいます。それは異邦人をキリスト信者として受け入れるために必要なことだったからです。すべての食べ物を清いとする考えは、イエス自身の教えにさかのぼることなのだ、とマルコは言いたいのではないでしょうか。




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「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 申命記4・1-2、6-8


 1〔モーセは民に言った。〕イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。2あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。
 6あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。7いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。8またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。


第二朗読 ヤコブ1・17-18、21b-22、27


 17〔わたしの愛する兄弟たち、〕良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。18御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
 21b心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。22御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
 27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。


福音朗読 マルコ7・1-8、14-15、21-23


 1〔そのとき、〕ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3——ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。——5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6イエスは言われた。
 「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
 『この民は口先ではわたしを敬うが、
  その心はわたしから遠く離れている。
  7人間の戒めを教えとしておしえ、
  むなしくわたしをあがめている。』
 8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」


Posted on 2021/08/20 Fri. 08:30 [edit]

category: 2021年(主日B年)

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