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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第23主日 (2021/9/5 マルコ7章31-37節)  


教会暦と聖書の流れ


 ファリサイ派・律法学者と「汚(けが)れ」について論じ合った先週の福音(マルコ7章1節以下)の後、イエスはティルスという異邦人の地に行きます。そこで異邦人の女性と出会い、彼女の娘をいやしますが、同じ話はA年にマタイ福音書から読まれる(マタイ15章21-28節)ので、ここでは省略されているようです。イエスに対して批判的なファリサイ派・律法学者の姿と、イエスに出会い、イエスによって信頼と希望を取り戻していく異邦人・障害者・貧しい人々の姿が対比されていく中で、マルコ福音書は前半の頂点とも言えるペトロの信仰告白(8章29節)へと向かっていきます。


福音のヒント


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  (1) 「ティルス」はガリラヤ地方より北の地中海に面した町で、「シドン」はそれよりもさらに北にあります。「デカポリス地方」はガリラヤの南東に位置していますから、マルコの描くイエスの行程には少し無理があります。挙げられている地名はいずれも異邦人の土地ですから、マルコはガリラヤを中心にしたイエスの広い活動地域を示そうとしているだけかもしれません。ただし、マルコ7章24節には「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」とありますから、積極的に神の国の福音を告げるために異邦人の地に向かった、とは考えにくいでしょう。とにかく、ここでイエスは再びガリラヤ湖に戻ってきました。これはガリラヤ湖東岸のデカポリス地方(異邦人の土地)のことでしょうか。それとも北西岸のガリラヤ地方(ユダヤ人の土地)のことでしょうか。どちらとも取れますが、きょうの話は特に異邦人の間で起こった話だと考える必要もなさそうです。

  (2) この箇所でイエスは自ら病人を見つけ出していやすのではなく、人々が病人をイエスのもとに連れてきていやしを願います。これは多くのいやしの物語に共通していることです。またここで「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」(33節)とあります。さらに「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた」(36節)とも言われています。イエスは治癒の奇跡を人に見せびらかして評判を得ようとはせず、むしろこのような奇跡によって自分を理解されたくないと考えていたようです。
 34節の「深く息をつき」はイエスの心の激しい動きを表していますが、ローマ8章23,24節では「うめく」と訳されている言葉です。これは苦しみの中で救いを求めて叫ぶことです。だとすると、イエスが目の前の人の苦しみに深く共感し、その人のうめきと一つになって自分もうめくところからいやしが起こるのだと言えるかもしれません。イエスが行なった数々の「いやし」はすべてこのような共感から起こったことだと考えてもよいのではないでしょうか。

  (3) 33節「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」は民間に伝わるいやしの物語によく見られる動作だったそうです。ここで特徴的なのは「エッファタ」というイエスの言葉でしょう。イエスの言葉がアラム語のまま伝えられている箇所は他にもありました。たとえば、マルコ5章41節の「タリタ・クム(少女よ、起きなさい)」です。おそらく聞いていた人々の耳に強烈に残る声であり、響きであったので、これらの言葉はアラム語のまま伝えられたのでしょう。マルコはこれらの言葉を、現実に働きかけて現実を変える、神の子の力ある言葉として伝えています。
 イエスは聞こえない耳に向かって「エッファタ」と呼びかけました。他の人々は「この人の耳はどうせ聞こえない」と思っていたのでしょうが、イエスは、自分の語りかけが必ずこの人に届くという信頼と希望をもって語りかけるのです。このイエスの信頼と希望がこの人に伝わり、この人は変えられていったとも言えるのではないでしょうか。わたしたちは、このようなイエスの力強い呼びかけを聞くことができるでしょうか。
 
  (4) 37節「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という群集の反応は、創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」を思い出させるかもしれません。これは神の天地創造のわざの結びにある言葉です。「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」は、イザヤ35章5-6節「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」が背景にあるようです。こちらは神の救いが実現する時のありさまを語る預言者の言葉です。マルコは群集の口をとおして、神の創造と救いのわざが、神の子であるイエスの上に実現しているということを伝えようとしているのでしょう。

  (5) きょうの話と8章の盲人のいやしの話はマルコ福音書だけが伝える話です。マタイやルカはこのような素朴ないやしの物語に興味を示さなかったのかもしれませんが、マルコはこれらの話を大切に伝えようとします。マルコの文脈をよく見ると、これらの話は特別な意味があるようにも思えます。次のようなつながりを見てみましょう。
 7章31-37節 耳の聞こえない人のいやしの物語
 8章18節  「目があっても見えないのか耳があっても聞こえないのか」という言葉
 8章22-26節 目の見えない人のいやしの物語
そしてこの直後に、8章27-29節のペトロの信仰告白「あなたはメシア(キリスト)です」があります(次週の福音)。このように見ると、2つのいやしの物語は単に肉体的ないやしがテーマであるというよりも、イエスについての理解・悟りを表す象徴的な意味を持っているのではないかと考えられます。弟子たちもこの人々のようにイエスに触れて心の目と耳が開かれていかなければ、イエスのことを本当に理解することはできない、とも言えますし、これらの箇所でいやされた人の中に、イエスを知るという、弟子のあるべき姿が示されている、とも言えるでしょう。わたしたちはどうでしょうか?




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ35・4-7a


4心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
5そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
6そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
7熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。


第二朗読 ヤコブ2・1-5


 1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
 5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。


福音朗読 マルコ7・31-37


 31〔そのとき、〕イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」


Posted on 2021/08/27 Fri. 08:30 [edit]

category: 2021年(主日B年)

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