福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第25主日 (2021/9/19 マルコ9章30-37節) 
教会暦と聖書の流れ
先週の箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の箇所(マルコ8章27-35節)でしたが、きょうの箇所は少し飛んで、2回目の受難予告と言われる場面です。マルコ福音書の3回の受難予告では、いつも同じパターンがあります。
(a) イエスはご自分の死と復活を弟子たちに予告する。
(b) 弟子たちはそれを理解できず、見当はずれなことを考えている。
(c) イエスはその弟子たちにご自分の受難の道の意味を語り、弟子たちを同じ道に招く。
この2回目の受難予告でも同じパターンが見られます。
福音のヒント
(1) 弟子たちは「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合って」いました。「何を議論していたか」と問われても彼らは「黙って」います。それがイエスの考えや生き方と合わないことを知っていたからです。情けない弟子たちの姿です。この弟子たちに向かってイエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)と言われます。これは3回目の受難予告の後の言葉とよく似ています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章43-45節)。9章35節の言葉も一般的な教えというより、イエスの受難の道に弟子たちを招く言葉なのです。
「人よりも先になりたい、上になりたい、偉くなりたい」という思いから自由になることは難しいことです。弟子たちは、実際にイエスの受難と死の姿に接することによって、そこから解放されていきました。わたしたちはどうしたら解放されるのでしょうか?
(2) ここまでの話と37節の子どもについてのイエスの言葉「子供の一人を受け入れる者は・・・」はうまくつながらないと感じられるかもしれません。マタイやルカもそんなふうに感じたようです。平行箇所(同じような話を伝える箇所)で、マタイ18章4節では「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」という言葉が加えられていますし、ルカ9章48節では「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」という言葉が加えられています。もしかしたら、マルコ福音書は「子どものようになること(=自分が小さい者であることを受け入れること)」と「子どもを受け入れること」を区別していないのかもしれません。
マルコ福音書では、再来週の年間第27主日に読まれる10章13-16節にも子どもが登場します。そこではこう言われています。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。子どもに関するイエスの言葉はいろいろな形で伝えられていったようです。マルコはたまたまその一つをきょうの箇所で伝えているという見方もできるでしょう。
(3) だとしたら、36-37節は前の部分と切り離して受け取ることもできるでしょう。「子どもを受け入れる」とは本来どういうことでしょうか? これと似ている表現は、福音書の次のような箇所にも見られます。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。・・・はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10章40,42節)。ここでは、迫害を受けているイエスの弟子に対する態度のことが問われているようです。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)。ここでは「飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、裸の人、病気の人、牢にいる人」が「最も小さい者」と呼ばれています。
イエスの時代、律法という基準で人間の価値がはかられていました。一人前の人間として評価されるためには律法を学び、律法を忠実に守ることが必要でした。子どもは、律法についての知識もなく、守る力もない「無能力者」であるから、子どもであること自体には何の価値もないとされていました。迫害されている弟子たちや助けを必要としている小さな人々と「子ども」のイメージはつながっています。この人々を大切にすることこそが、イエスと神を大切にすることだというのです。
(4) 現代の子どもたちはイエスの時代の子どもたちとは違って、律法の基準ではかられているわけではありません。しかし、「どれだけ役に立つか」という経済的基準ではかられている面はあるでしょう。「少子化」の問題が指摘され、子どもの数がもっと多いほうがよいと言われています。しかしそれは、社会の安定のため、将来の労働力確保のために子どもの数を必要としているに過ぎないのではないでしょうか? 大人の都合(役に立つか、立たないか?)で子どもを見る見方は、極端な場合には、子どもたちを犯罪や虐待の被害者にしてしまうこともあります。
子どもに対するイエスの見方は、当時の社会の一般的な見方とも、現代の産業社会の見方とも違っていました。イエスは人間を律法の基準や経済的価値で見ず、すべての人を神の子と見ました。父である神はすべての人をわが子として愛し、だからこそ、特別に小さい者にいつくしみを注がれる方です。このイエスの見方からすれば、「子どものようになること」「子どものように神の国を受け入れること」「子どもを受け入れること」は、神の前で、だれもが本来そうあるべき姿勢なのだということになります。
わたしたちはどうしたら、自分自身の小ささや無力さを受け入れることができるのでしょうか? また、わたしたちがイエスの眼差しをもって子どもを受け入れるとは本当にどういうことなのでしょうか?
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第一朗読 知恵2・12、17-20
12〔神に逆らう者は言う。〕「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。
我々のすることに反対し、
律法に背くといって我々をとがめ
教訓に反するといって非難するのだから。
17それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。
生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。
18本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。
敵の手から救い出されるはずだ。
19暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。
その寛容ぶりを知るために、
悪への忍耐ぶりを試みるために。
20彼を不名誉な死に追いやろう。
彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」
第二朗読 ヤコブ3・16-4・3
16〔愛する皆さん、〕ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあ〔ります。〕17上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。18義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
1何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。 2あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、3願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
福音朗読 マルコ9・30-37
30〔そのとき、イエスと弟子たちは〕ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
Posted on 2021/09/10 Fri. 08:29 [edit]
category: 2021年(主日B年)
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