福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第30主日 (2021/10/24 マルコ10章46-52節) 
教会暦と聖書の流れ
イエスのエルサレムへの旅は、ガリラヤに始まり、ヨルダン川を下ってきて、エリコの町に到着しています。ここまでは130kmほどで、エリコからエルサレムまでは残り30km足らずです。マルコ福音書では、この話の後(11章)はもうエルサレム入りの場面ですので、エルサレムへの旅も終わりに近づいていることになります。イエスに従うことのできなかった金持ちの男(10章17-22節)やイエスの受難の道を理解していなかった弟子たち(10章35-45節)の姿と対照的に、イエスに従っていったバルティマイの姿が伝えられています。
福音のヒント
(1) 47節でバルティマイは、イエスのことを「ダビデの子」と呼びますが、これは彼自身がそう考えたというよりも、彼が聞いていた周りの人々のウワサだったのでしょう。ダビデは紀元前1000年ごろのイスラエルの王で、「ダビデの子」というメシア(救い主)の呼び名には、ダビデ王の再来である理想的な王のイメージがあります。ローマ帝国の支配下にあった当時のユダヤでは、ローマの支配を打ち破り、ユダヤ人を解放してくれる王を意味していました。イエスに対するこのような期待は、イエスがエルサレムに近づくに従って膨れ上がっていたようです(マルコ11章10節参照)。
「わたしを憐れんでください」は物乞いをするときにいつもバルティマイが使っていた言葉なのでしょうか。イエスの周りにいた人々はこのバルティマイを黙らせようとします。王・メシアかもしれないイエスは重要人物で、何の役にも立たない「盲人の物乞い」など用がないと人々は考えたのです。しかし、イエスは彼の叫びを聞きます。
(2) 49節の「安心しなさい」はむしろ「勇気を出しなさい」と訳したほうが原文のニュアンスに近いでしょう。「お呼びだ」と訳された言葉は、直訳では「彼があなたを呼んでいる」です。
50節「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」はバルティマイが「盲人の物乞い」であったことを思えば、たいへんなことでしょう。この上着はおそらく彼の唯一の財産でした。そして、彼は目が見えないのですから、ふだんはそれを肌身離さず持ち歩き、歩くときは事故のないように細心の注意を払いながら歩いていたはずです。それなのに彼は、自分の持ち物も自分の安全も手放すかのようにイエスのもとに向かいます。
それは「イエスが自分を呼んでいる」と知ったからです。この方は自分を邪魔者扱いしない。すべての人に邪魔者扱いされる中で、イエスという方だけは自分に目を留め、自分を呼んでくださる! バルティマイのこの喜びを感じとることができるでしょうか。
(3) イエスはバルティマイに「何をしてほしいのか」と問いかけます。10章36節でイエスが弟子のヤコブとヨハネに聞いたのと同じ問いです。自分たちに高い地位を約束してほしい、というヤコブとヨハネの願いにイエスは答えませんでした。しかし、バルティマイの願いには答えます。バルティマイの願いは「先生、目が見えるようになりたいのです」というものでした。これも自分の利益を求める願いではないでしょうか。二人の弟子の願いとバルティマイの願いは、どこが違うのでしょうか。確かに言えるのは、バルティマイの願いは単なる願望以上のもの、苦しみの中からの必死の叫びだったということです。イエスは受難と死に向かう旅の最後まで、このような叫びに耳を閉ざすことはないのです。
(4) 「あなたの信仰があなたを救った」は、マルコ福音書では、5章34節で出血の止まらない病気をいやされた女性に向かって言われた言葉でした。この「信仰」は、「イエスはダビデの子である」と信じるような頭の中の信仰ではありません。「この方ならなんとかしてくださる」という必死の思いでイエスに向かっていった態度そのものです。自分の希望と信頼のすべてを神とイエスにかける、と言ってもいいかもしれません。
52節の「なお道を進まれるイエスに従った」は、直訳では「その道の中でイエスに従った」です。この道はもちろんイエスのエルサレムへの道、受難と死に向かう道です。バルティマイは「行きなさい」と言われたにもかかわらず、イエスに従うことを選びました。 このバルティマイの姿は、結局のところ財産を頼りにしてイエスに従うことのできなかった金持ちの男や、自分たちの栄誉を求めていた弟子たちの姿とはっきりと対比されています。マルコ福音書はバルティマイの中に「十字架への道を歩むイエスに従う弟子」の典型的な姿を見ていると言えるでしょう。
ただし、イエスに従っていた弟子たちはイエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまっています(マルコ14章50節)からバルティマイはその時どうしたのか、と考えたくなるかもしれません。マルコ福音書はこれについて何も語っていません。ただマルコは、今日の箇所でこの人をはっきりと「バルティマイ」という名で紹介しています。マタイやルカにもこの話は伝えられていますが、いやされた人の名前はありませんし、そもそもイエスによっていやされた人の名前が伝えられていることはめずらしいことです。もしかしたら、バルティマイは、マルコのいた教会の中で知られていた人物だったのではないでしょうか。だとしたら、彼はこの出会いをきっかけに、生涯イエスに従い続けたと想像することができるでしょう。
(5) バルティマイはイエスに出会って救われた、という喜びと感謝の心からイエスに従いました。十字架への道を歩むイエスに従うということは、おそらく能力や努力の問題ではないのです。イエスの弟子たちは最後までイエスに従うことができませんでしたが、それで終わりになったのではなく、復活したイエスとの出会いによって、再び弟子として歩み始め、そして多くの弟子が殉教していくことになりました。彼らを突き動かしていたものも、復活したイエスが自分たちに姿を現し、声をかけ、再びご自分の弟子として受け入れてくださった、という喜びと感謝ではないでしょうか。
もしも、わたしたちの中にもそういう経験があったとすれば、バルティマイの物語は、今のわたしたち自身の物語になるに違いありません。
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第一朗読 エレミヤ31・7-9
7主はこう言われる。
ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。
諸国民の頭のために叫びをあげよ。
声を響かせ、賛美せよ。
そして言え。
「主よ、あなたの民をお救いください
イスラエルの残りの者を。」
8見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し
地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も
身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
9彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き
流れに沿って行かせる。
彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。
わたしはイスラエルの父となり
エフライムはわたしの長子となる。
第二朗読 ヘブライ5・1-6
1大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。2大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。3また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。4また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
5同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われた方が、それをお与えになったのです。6また、神は他の個所で、
「あなたこそ永遠に、
メルキゼデクと同じような祭司である」
と言われています。
福音朗読 マルコ10・46-52
46〔そのとき、イエスと弟子たちは〕はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
Posted on 2021/10/15 Fri. 08:30 [edit]
category: 2021年(主日B年)
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