福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
待降節第3主日 (2021/12/12 ルカ3章10-18節) 
教会暦と聖書の流れ
待降節第2、第3主日の福音では毎年、イエスの先駆者である洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。今年はルカ福音書からです。先週の箇所(3章1-6節)から少し飛んで、洗礼者ヨハネの説教が伝えられている箇所です。伝統的に待降節第3主日は「喜びの主日」と言われてきました。洗礼者ヨハネがその到来を予告した救い主がすぐ近くに来ておられる、という喜びの雰囲気の中でこの主日は祝われます。
福音のヒント
(1) この箇所の直前には、洗礼を受けに来た人々に対する洗礼者ヨハネの次のような言葉があります。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りをまぬかれると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧(おの)は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3章7-9節)。非常に厳しい裁きのメッセージです。アブラハムの子孫であるユダヤ人だから祝福を受けられるだろうというような甘い期待は打ち砕かれます。すべての人は今、回心する(=悔い改める)かどうかを問われているのです。そして10-14節で、その「悔い改めにふさわしい実」とは何かが具体的に語られていきます。
(2) 群集に向かって要求されるのは、断食や苦行を行なうことではなく、持っているものを、それを必要としている人と分かち合うことでした。それは周りの人を大切にすることと言い換えてもよいでしょう。あらゆる人に回心を呼びかけたヨハネのもとにはさまざまな人が訪れました。ここでは「徴税人」と「兵士」が登場しています。「徴税人」はユダヤ人でありながらローマ帝国のために同胞から税を取り立て、そのことによって自分の利益を得ていた人です。彼らの中には不正な取立てをする者も多く、その職業だというだけで罪びとのレッテルを貼られていました。「兵士」はローマ軍の兵士でしょうか。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスも兵士を持っていました。彼らに対してヨハネが語ったのも、ただ、人に対して悪を行なわないようにということでした。ヨハネは徴税人や兵士に向かって、その仕事を辞めることを要求しません。「悔い改めにふさわしい実」として必要なことは、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をすることでした。
(3) 15節の「メシア」はヘブライ語ですが、原文はギリシア語の「クリストスchristos=キリスト」です。どちらも「油を注がれた者」、つまり神から特別な使命を与えられた人を意味します。メシアを待望していた人々に対して、ヨハネは「わたしよりも優れた方」の到来を予告しました。「履物のひもを解く」(16節)はしもべの仕事であり、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」というのは、来られる方がいかに偉大であるかを強調する表現です。
「水による洗礼」と「聖霊と火による洗礼」の対比は分かりにくいかもしれません。まず「洗礼を授ける」と訳される言葉ですが、これはギリシア語で「バプティゾーbaptizo」という一つの動詞で「(水に)沈める、浸す」ことを表します。洗礼者ヨハネの行なっていた洗礼は、ヨルダン川の中に人の全身を沈めることでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い、罪の奴隷である自分に死んで、新しく神のしもべである人に生まれ変わる「回心」を表すものでした。これが「水による洗礼」です。
(4) では「聖霊と火による洗礼」とは何でしょうか。「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」で「風、息」を表す言葉です。この「風と火」のイメージは本来、裁きのイメージだったと考えられます。17節には「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻(から)を消えることのない火で焼き払われる」という言葉があります。「箕」は麦の殻と実をより分けるための農具です。まず麦を叩いて実から殻を外しますが、そのままでは実と殻が混ざった状態です。箕は、その混ざった状態のものを空中に放り上げるときに使う道具です。殻は軽いので「風」に飛ばされ、重い実だけが残ります。「風と火の中に沈めること」それは本来は神の裁きのイメージだったのです。つまり、洗礼者ヨハネが予告した「来られる方」は、神の裁きをもたらす人だったと言えるでしょう。ヨハネはその裁きの到来の前に、人々に回心することを呼びかけたのです。
もちろん、実際に来られた方イエスは、裁きをもたらしに来たのではありませんでした。イエスも終末の裁きを語られることがありましたが、地上で活動したイエスは、むしろ神のゆるしをもたらす方でした。キリスト教は洗礼者ヨハネの言葉を実際に来られたイエスに当てはめ、イエスの姿からこの言葉を再解釈していきました。福音書の中では、「聖霊による洗礼」は「聖霊の中に人を沈めること=人に聖霊を与えること」と理解され、それがイエスによって実現することだと語るのです。なお、ここでは「火」は非常に激しい力を持つものとして聖霊のシンボルだと理解されています(使徒言行録2章3節参照)。
(5) わたしたちは洗礼者ヨハネの言葉を信じて、ヨハネの弟子になろうとしているのではありません。本当に見つめるべき相手は、ヨハネではなくイエスです。イエスがもたらしたものは何か、ということのほうがはるかに大切です。
ところで、ルカ福音書はきょうの箇所(18節)で、ヨハネは「民に福音を告げ知らせた」と言っています。ヨハネの告げた「福音(よい知らせ)」とは何でしょうか? 第一には「決定的な方が来られるということ」でしょう。と同時に「今、回心することによって救いにあずかることができるということ」も福音だと言えるのではないでしょうか。
わたしたちは毎年この季節に、特別に「主が来られる」ということに心を向けます。それは「今が回心のチャンスだ!」という福音を受け取る時でもあります。さらに、このチャンスとは、来られるイエスに目を向けると同時に、隣人に目を向け、隣人に対して不正を行なわず、愛を行なうチャンスなのだと言ってもよいでしょう。
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※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。
第一朗読 ゼファニヤ3・14-17
14娘シオンよ、喜び叫べ。
イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
15主はお前に対する裁きを退けお前の敵を追い払われた。
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。
お前はもはや、災いを恐れることはない。
16その日、人々はエルサレムに向かって言う。
「シオンよ、恐れるな
力なく手を垂れるな。
17お前の主なる神はお前のただ中におられ
勇士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
第二朗読 フィリピ4・4-7
4〔皆さん、〕主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
福音朗読 ルカ3・10-18
10〔そのとき、群衆はヨハネに、〕「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
Posted on 2021/12/03 Fri. 08:30 [edit]
category: 2022年(主日C年)
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