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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

聖家族 (2021/12/26 ルカ2章41-52節)  


教会暦と聖書の流れ


 降誕祭の後の日曜日は「聖家族」の祝日です(ただし12月25日が日曜日の年は次の日曜日が1月1日になりますので、その場合は「神の母聖マリア」の祭日になります)。イエス、マリア、ヨセフの家族に思いを馳せますが、この家族は伝統的に「聖家族」と言われて、わたしたちの家族の模範と考えられてきました。3年周期の福音朗読の箇所は毎年さまざまで、A年がマタイ2章13-15,9-23節、B年がルカ2章22-40節、今年(C年)の箇所はルカ福音書が伝えるイエスの少年時代のエピソードです。


福音のヒント


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  (1) ルカ福音書だけが伝える12歳の少年イエスのエピソードです。「過越祭(すぎこしさい)」は春分の日の後に行なわれる春の祭りで、エジプト脱出という神の根本的な救いのわざを記念するものでした。ユダヤ人にとって最も大切な祭りで、この祭りのとき、多くのユダヤ人がエルサレムの神殿を訪れました。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフも家族を連れてエルサレムに巡礼していたということになります。なお、当時の成年は13歳からでしたので、イエスはまだ成人前ということになります。
 43節で「少年」と訳される言葉はギリシア語では「パイスpais」です。この言葉はまず第一に年少者を表すので「子ども、少年」と訳されますが、家の中で小さい者の意味で「僕(しもべ)」の意味にもなります。同じルカが書いた使徒言行録の3章13節、4章27,30節で「僕イエス」と訳されている箇所には、ここと同じ「パイス」が使われています。この背景にあるのはイザヤ書の「主の僕」(イザヤ42章1節など)で、神から特別な使命を受けた者を指しています。イエスは「少年」であるだけでなく「主の僕」でもある、きょうの箇所でもそのことが暗示されているのかもしれません。

  (2) 両親はイエスを見失い、探して、三日後に神殿でイエスを見つけます。「三日後」や「探す・見つける」は復活を連想させる言葉です(ルカ24章5,23,24節参照) 。ルカはこの少年イエスのエピソードの中にイエスの生涯全体が表れていると見ているようです。
 49節の「自分の父の家」は直訳では「わたしの父のところ」です。
 ルカ福音書の中で神殿は大切な場所のようです。福音書の冒頭で祭司ザカリアは神殿の聖所の中で天使のお告げを受けました。エルサレムでのイエスの活動は最後まで神殿の境内でのことでした。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(21章37-38節)。12歳のイエスが神殿で学者たちと問答している姿は、大人になったイエスが神殿で人々に教えている姿を前もって表すものだと言ってもよいでしょう。なお、ルカは福音書の終わりに、イエスの昇天後の弟子たちの姿を伝えていますが、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(24章52-53節)と結ばれています。
 ルカ福音書が書かれた時代(紀元80年ごろ)、すでにエルサレムの神殿は崩壊していました。ルカ福音書の中での神殿とは、地上の特定の場所であるというより、「父のところ」であり、そこが本来イエスのいるべきところだということになるのでしょう。

  (3) 49節には「当たり前だ」という言葉がありますが、これはギリシア語の「デイdei」という言葉の訳です。「必ず~することになっている」「どうしても~しなければならない」と訳されることもあります。典型的なのはいわゆる受難予告です。ルカ9章22節「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。これは「単なる必然」というよりも、「神が定めたことであるから、そのことは必ず実現する」あるいは「神の意思であるから、必ず人はそうすべきである」というニュアンスのある言葉です。
 復活されたイエスの言葉、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった(=デイ)のではないか」(ルカ24章26節)から考えると、イエスが「父のところにいる」ということも、死と復活をとおして本当の意味で実現することだと言えるかもしれません。

  (4) マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」(51節)とあります。イエスの誕生にまつわる話の中でも「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2章19節)とありました。51節の「これらのこと」には、12歳のイエスの神殿でのエピソードだけでなく、「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」ということも含まれるようです。「仕える」は直訳では「服従する、従う」です。イエスが両親の思いを超えた神の子でありながら、それでも両親に従って生活する。マリアはそこに神の不思議な計画を感じていたと言ってもよいのでしょう。
 
  (5) クリスマスから正月にかけて、家族と共に時を過ごすという人は多いでしょう。逆に家族と共にいられない寂しさを感じる人もいるに違いありません。いずれにせよ、誰もが自分の家族を意識する時だと言えそうです。そんな中で聖家族の祝日は祝われます。
 「聖家族」というと温かな家庭で、何の問題もないように感じられるかもしれません。「神と人とに愛された」(52節)という言葉はホッとさせられる言葉です。世界中のすべての子どもに何よりも必要なのはこのことです。子どもだけでなく、すべての人が神と人からの愛を受け取る場、これこそが家族本来のあり方だと言えるでしょう。
 一方で、きょうの福音は、少年イエスが両親の考えを超えた行動をし、両親にはそれが理解できないという話でもありました。ある意味では、どこの家庭にもある子どもの反抗期や親子の断絶に似ているかもしれません。理想的で問題のない家族などどこにもありません。イエスはわたしたち人類の一員となり、そんな家族の一員にもなってくださいました。わたしたちの家庭の中にもイエスがいてくださる、そう感じることができれば、「わが家も聖家族」と言うことができるのではないでしょうか。




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「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 サムエル上1・20-22、24-28


 ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
 乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。


第二朗読 ヨハネの手紙一3・1-2、21-24


 〔愛する皆さん、〕御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
 愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。


福音朗読 ルカ2・41-52


 〔イエスの〕両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。


Posted on 2021/12/17 Fri. 10:00 [edit]

category: 2022年(主日C年)

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