福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第2主日 (2022/1/16 ヨハネ2章1-11節) 
教会暦と聖書の流れ
年間第2主日のミサの福音は、ヨハネ福音書が伝えるイエスの活動の初期の場面です。年間主日の福音では主にマタイ(A年)、マルコ(B年)、ルカ(C年)を用いてイエスの活動のあとを追っていきますが、その最初に当たる第2主日にヨハネ1~2章が組み込まれています。なお、A年にはヨハネ1章29-34節、B年にはヨハネ1章35-42節が読まれます。
福音のヒント
(1) ヨハネ1章19節~2章11節を見ると、かなり詳しく日付を追っていることに気づきます。1章29,35,43節にそれぞれ「その翌日」という言葉があり、きょうの箇所に「三日目に」とありますので、全部で6日間の出来事ということになります(2章12節以下にはこのように正確な日付を追う表現はありません)。6日間は創世記1章で神が天地万物をお造りになった日数です。ヨハネはこの6日間の出来事を新しい創造とも呼ぶべき神のみわざがここに始まるという思いで伝えようとしているのかもしれません。その頂点がきょうの出来事ということになります。
宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのは大ピンチです。イエスが水をぶどう酒に変えてそのピンチを切り抜けたという話ですが、ヨハネ福音書はこの出来事を、新しい救いの時代の始まりを象徴的に表す出来事として見ているようです。婚礼のイメージは「神と人とが一つに結ばれる救いのイメージ」でもあります。
(2) イエスの母はもちろんマリアですが、ヨハネ福音書では「イエスの母」と呼ばれるだけです。この母は十字架の場面でも登場します(19章25-27節)。3節の「ぶどう酒がなくなりました」は、直訳では「(彼らは)ぶどう酒を持っていません」ですが、これは非人称の表現で、単に「ぶどう酒がありません」という意味です。ぶどう酒を救いのシンボルと考えれば「救いがありません」とイエスに訴えているとも言えるでしょう。
これに対するイエスの言葉、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」は、冷たく聞こえる言葉です。「婦人」という言葉は、現代日本ではほとんど使われなくなった言葉だからでしょう、聖書協会共同訳(2018年)は「女よ」と訳しています。いずれにせよ、普通は自分の母に向かって言う言葉ではありません。「わたしとどんなかかわりがあるのです」は直訳では「わたしとあなた(の間)に何があるのか?」です。確かに拒絶の言葉のように聞こえます。しかし結局、イエスはこのマリアの叫びに答えて行動することになります。とはいえ、この言葉には、マリアの願いとは関係なく、イエスがこれからすることの主導権を持っていることを強調する意味があるようです。
(3) さらにここには「わたしの時はまだ来ていません」という言葉が続いています。ヨハネ福音書の中で「わたしの時=イエスの時」とは十字架の時です(ヨハネ12章23,27節、13章1節、17章1節など)。それは受難の時ですが、同時にイエスが父のもとに行く栄光の時でもあります。
ヨハネ福音書では、マリアは今日の箇所と19章の十字架の場面だけに登場します。
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(19章26-27節)
「自分の家に引き取った」という箇所は「自分のものとして受け入れた」とも訳せます。ここでマリアに弟子たちの母としての使命が与えられることになります。ですから、2章4節のイエスの言葉は、母マリアを十字架の場面に招く言葉だと言うこともできるでしょう。
なお、5節でマリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。マリアはイエスが何かしてくれるという希望を持ち続けています。これはイエスに対する深い信頼を表す言葉です。
(4) 「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」は旧い契約のシンボルです。1メトレテスは約39リットルですから、100リットル前後入る大きな水がめが6個もあったことになります(ちなみに、今回の写真はカナの町の教会に置かれていた水がめです)。これがぶどう酒に変えられたのは、旧約の時代が終わり、新しい救いの時代が始まったことを表します。
9節で突然、花婿が登場します。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)。後になって出てくる「良いぶどう酒」とは新約時代の救いを表しているのです。だとすればこの花婿の姿も神あるいはイエスを暗示していると言えるでしょう。
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。ヨハネ福音書はこの出来事の中にイエスによってもたらされる救いの全体が表されていると考えて、こう結んでいるようです。
(5) 今日の福音のマリアの姿は、イエスの母である一女性という以上に、人々の代表としての姿だと言えるかもしれません。「ぶどう酒(=救い)がありません」は救いを待ち望んでいた旧約時代の人々を代表する言葉であり、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」は救いを受けた新約の民(=教会)を代表する言葉にも聞こえます。
とにかくこのようにして、マリアはさりげなく、イエスのなさることに協力しています。
なお、ここに登場する「召し使い」はギリシア語で「ディアコノスdiakonos」です。今のカトリック教会では「助祭」と訳されますが、聖書では「仕える者、奉仕者」と訳される言葉です。彼らもイエスの言葉に従い、そのなさることに協力しました。マリアとこの召し使いたちの姿はわたしたちが見習うべき模範だ、と言うことができるでしょう。
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第一朗読 イザヤ62・1-5
1シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
彼女の正しさが光と輝き出で
彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
2諸国の民はあなたの正しさを見、王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう。
3あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり
あなたの神の御手の中で王冠となる。
4あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく
あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。
あなたは「望まれるもの」と呼ばれ
あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。
主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。
5若者がおとめをめとるように
あなたを再建される方があなたをめとり
花婿が花嫁を喜びとするように
あなたの神はあなたを喜びとされる。
第二朗読 一コリント12・4-11
4〔皆さん、〕賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。5務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。6働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。7一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。8ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、9ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、10ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。11これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
福音朗読 ヨハネ2・1-11
1〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
Posted on 2022/01/07 Fri. 08:30 [edit]
category: 2022年(主日C年)
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