fc2ブログ

福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第3主日(2022/1/23 ルカ1章1-4節,4章14-21節)  


教会暦と聖書の流れ


 福音の箇所は、ルカ福音書の序文とイエスの活動開始の場面が組み合わされています。その間の箇所では、1~2章でイエスと洗礼者ヨハネの誕生・成長の物語、その後、イエスがヨルダン川で洗礼を受け、荒れ野で誘惑を受けた様子が伝えられています。今年の年間主日のミサでは、これからずっとルカ福音書を通してイエスの活動の様子を見つめていくことになります(なお、荒れ野の誘惑の話は四旬節第1主日に読まれます)。


福音のヒント


 20190127.png
  (1) 1章1-4節はルカ福音書の序文と言えます。「わたしたちの間で実現した事柄」はもちろんイエスの生涯・死・復活のことです。「最初から目撃して御(み)言葉のために働いた人々」は使徒たちを指します。「多くの人々が既に手を着けています」とありますが、少なくともマルコ福音書はすでに書かれていて、ルカはその内容を知っていたようです。「テオフィロTheophilos」という名の人物は知られていません。ルカ福音書は特定の人に献呈する形をとっていますが、この名前の意味は「神を愛する人」あるいは「神に愛された人」ですので、わたしたちすべてに向けて書かれている、と受け取ることもできます。

  (2) 「“霊”」はギリシア語で「プネウマpneuma」です。「プネウマ」は必ずしも神の霊=聖霊だけに使われる言葉ではないので、かつての口語訳聖書では「プネウマ」が明らかに「聖霊」を意味すると考えられる箇所は「御霊(みたま)」と訳されていました。その部分を新共同訳聖書は「“霊”」と表記しているのです。聖霊はこの箇所の少し前から現れています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(3章21-22節)。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(4章1-2節)。ヨルダン川での洗礼の時から、イエスの活動のすべては、聖霊に導かれているのです。きょうの箇所で引用されるイザヤ書の中にも「主のがわたしの上におられる」という言葉があります。

  (3) イエスの活動の場はガリラヤの諸会堂です。イエスの時代、ユダヤ人は安息日ごとに会堂に集まり、礼拝を行なっていました。その中心は聖書(旧約聖書)の朗読でした。巻物は今の本と違って、好きな箇所をさっと開くことはできません。イエスはたまたま開かれていた箇所をお読みになったことになりますが、この箇所が読まれたのは単なる偶然というよりも、むしろ、聖霊の働きによることと考えるべきでしょう。
 イエスが朗読したのはイザヤ書56~66章までの「第三イザヤ」と呼ばれる部分にあたりますが、この箇所は本来、第三イザヤと呼ばれる預言者自身の召命を語る箇所だったと考えられます。「油を注ぐ」ことはその人に、神からの特別な使命とその使命を果たすための神からの力(=聖霊)が与えられることを目に見える形で表すものでした。ここでは預言者としての使命が与えられることが表されていたのでしょう。しかし一方、「油を注がれる」は「メシア=キリスト」を意味する言葉でもあるので、イエスの時代にはこの箇所が「来(きた)るべきメシア」についての預言と受け取られていたようです。イスラエルの人々は、いつかメシアが来ることを待ち望んでいました。しかし、イエスはこの預言が「今日、実現した」と宣言します。これこそがイエスの福音の決定的な新しさです。

  (4) 「貧しい人」は経済的に、またその他の理由で圧迫されている人のことで、後に出てくる「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」すべてを含む言葉です。「福音」は「よい知らせ」ですが、一言で言えば、「神によるこの圧迫からの解放」だと言ったらよいでしょう。ここには「解放」「自由にし」という言葉が出てきますが、どちらも「アフェシスaphesis」というギリシア語です。「アフェシス」は、「ゆるし」という意味でも使われる言葉です(ルカ24章47節参照)。人間を縛っているあらゆるものからの解放、その根っこにある罪からの解放、これこそがイエスの使命であり、福音だと言えるでしょう。なお、新共同訳の旧約ではこの箇所は次のようになっています。
 「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して…」(イザヤ61章1-2節)
 ルカの引用は、途中にイザヤ58章6節の言葉を挿入するなど、旧約聖書本来の言葉を少し変えています。「主が恵みをお与えになる年」は元来、50年ごとに「全住民に解放の宣言」(レビ記25章10節)がなされるヨベルの年のことですが、「われわれの神が報復される日」という言葉は省かれています。これはイエスの使命に合わせるためにあえて省かれているようです。

  (5) 21節の「今日」は、ルカ福音書の中で特別に「救いが今、実現している」ということを強調する言葉のようです。ザアカイの家での言葉「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19章9節)、一緒に十字架にかけられた犯罪人への言葉「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23章43節)のような箇所にも見られます。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは宣言されました。それは今、この言葉を耳にするわたしたちにとっても「今日」のことであるはずです。わたしたちはそのような言葉として聖書の言葉を聞いているでしょうか。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 ネヘミヤ8・2-4a、5-6、8-10


 2〔その日、〕祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。3彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。4書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立〔った。〕 5エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。6エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。8〔次いで、レビ人が〕神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
 9総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。10彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」


第二朗読 一コリント12・12-30


 12〔皆さん、〕体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
 《15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。》
 27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
《28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。29皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。30皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。


福音朗読 ルカ1・1-4、4・14-21


1・1‐2わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。3そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。4お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
 4・14〔さて、〕イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
 16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
 18「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、
 19主の恵みの年を告げるためである。」
 20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

Posted on 2022/01/14 Fri. 10:30 [edit]

category: 2022年(主日C年)

tb: 0   cm: --

トラックバック

トラックバックURL
→http://fukuinhint.blog.fc2.com/tb.php/922-0cc10eac
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

最新記事

カテゴリ

福音のヒントQRコード

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク


▲Page top