福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第8主日 (2022/2/27 ルカ6章39-45節) 
教会暦と聖書の流れ
先々週、先週の箇所に続き、いわゆる「平地の説教」(ルカ6章20-49節)の中の言葉です。先週の箇所でイエスは「敵を愛しなさい」「人を裁くな」という弟子たちの生き方の中心にあるものをはっきりと示しました。その教えに続き、きょうの箇所でも弟子たちの生き方について教えています。(なお、写真はオリーブの木を彫って作られた十字架です)
福音のヒント
(1) この箇所のイエスの教えは、短い言葉がつなぎ合わされているようです。39節「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」は、マタイ福音書に似た言葉があります。「彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」(マタイ15章14節) 。マタイの箇所で言う「彼ら」とはファリサイ派の人々のことです。この言葉は本来、ファリサイ派に対する批判の言葉だったのかもしれません。それがルカ福音書では弟子たちに対する警告として用いられています。つまり、あなたがたは盲目の状態であってはならず、しっかりとした見方と生き方をもって、他の人々に対して模範を示しなさい、ということになるでしょう。
(2) 次の40節「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」は、マタイ10章24-25節に似た言葉があります。「弟子は師にまさるものではなく、僕(しもべ)は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」。これもルカとマタイではまったく違う文脈の中で伝えられています。マタイのほうは、弟子たちを遣わすにあたって、迫害を予告するという文脈の中に置かれています。人々から誹謗中傷されても、それは師であるイエスと同じことなのだから、むしろ良いことなのだ、という意味になっています。ルカでは、前の39節からのつながりを考えると、しっかりとした見方・生き方を持つためには、本当の模範である師イエスにならうべきであり、イエスのようになることを求めなさい、という意味になるでしょう。
(3) 41-42節の丸太とおが屑のたとえは、マタイ福音書の山上の説教にもあります(7章3-5節)。マタイでは「人を裁くな」という教えに続いていますから、「人を裁くな」ということの一つのたとえとして語られていると言えるでしょう。ルカでも少し前(37節=先週の箇所)に「人を裁くな」という言葉がありますから、39-42節全体を「人を裁くな」というテーマで受け取ることも可能でしょう。その場合、盲目である、というのは他人を裁く心のあり方を指し、上に述べた「しっかりした見方・生き方」とは、人を裁かずに敵をも愛するという生き方のことになります。また、「師のように」なるとは、イエスのように愛する者となる、という意味になります。
「おが屑」と「丸太」のたとえは、わたしたちは皆、罪びとなので、他人を裁いてはならない、ということでしょうか。しかし、なぜ他人の目にあるのは小さな「おが屑」で自分の目にあるのは大きな「丸太」なのでしょうか。それは「人を裁く」という心のあり方こそが、もっとも大きな罪だということなのでしょう。
(4) 43-45節の木とその実のたとえは、マタイ福音書の山上の説教、7章15-20 節と似ています。これも比べてみましょう。
「15偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。16あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。17すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。19良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。20このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
マタイでは「木」は人間のことであり、「実」は行いのことでしょう。善い人間は良い行いをする。悪い人間は悪い行いをする。言葉にだまされず、行いによってその人が神から来た人かどうか、判断せよ、ということになります。しかし、ルカでは45節の結びに、「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」という言葉があり、そこから考えると、「木」とは「心」のことであり、「実」とはその心から出る「言葉」だという受け取り方もできるでしょう。他人をどうやって判断するかではなく、自分のあり方が問われていて、良い心で良い言葉を語ること、イエスの弟子にはそれが求められているのです。
しかし、これに続くルカの平地の説教の結び(46-49節)は「行い」を強調して終わります。それとのつながりで見れば、やはり「実」は「行い」だと考えることもできます。
(5) きょうの福音のイエスの言葉は、弟子たちの記憶に残っていた短い言葉が、次第につなぎ合わされ、書き留められ、最終的に今の福音書の形になったと考えられます。言葉というものはそれがどの場面で、どのような文脈(コンテクスト)で語られるかによって意味が変わってきます。イエスが語られたときの本来の状況・コンテクストは必ずしも明らかではありません。今日の箇所に伝えられている言葉も、本来の意味を考えると、いろいろな可能性があります。多くの部分はマタイ福音書の山上の説教と共通していますから、福音書成立以前にかなりまとまった説教になっていたのでしょう。そこで一貫して求められていることは、恩を知らない者にも悪人にも情け深い方である神の子として、父があわれみ深いように、あわれみ深い者となること(ルカ6章35,36節参照)なのです。
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第一朗読 シラ27・4-7
4ふるいを揺さぶると滓が残るように、
人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。
5陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、
人間は論議によって試される。
6樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、
心の思いは話を聞けば分かる。
7話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。
言葉こそ人を判断する試金石であるからだ。
第二朗読 一コリント15・54-58
54〔皆さん、〕この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
55死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
56死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 57わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 58わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
福音朗読 ルカ6・39-45
39〔そのとき、イエスは弟子たちに〕たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。44木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。45善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
Posted on 2022/02/18 Fri. 08:30 [edit]
category: 2022年(主日C年)
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