福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
四旬節第4主日(2022/3/27 ルカ15章1-3, 11-32節) 
教会暦と聖書の流れ
C年の四旬節第3~5主日の聖書朗読は「回心と罪のゆるし」をテーマにしています。今日の箇所は有名な「放蕩息子」のたとえ話です。ルカ15章には、「見失った羊」のたとえ(4-7節)、「なくした銀貨」のたとえ(8-10節)、そしてこの「放蕩息子」のたとえ(11-32節) の3つのたとえ話が伝えられています。15章の冒頭1-3節を見れば、これらのたとえ話が語ろうとしているのは、「イエスがなぜ罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしているかということの理由」であることは明白です。
福音のヒント

(1) 徴税人は当時パレスチナを支配していたローマ帝国の税金を集めるユダヤ人でした。ローマ帝国の支配に加担して同胞から税を取る徴税人は、ユダヤ民族の裏切り者としてユダヤ人同胞から嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国の役人ではなく、徴税の権利を金で買い、税に自分の手数料を加えたものを人々から集めていました。そのため、不正に多くのお金を集め、富を蓄えていた徴税人も多かったようです。当時のユダヤ人、特に宗教熱心なファリサイ派の人々や律法学者から見れば、決して救われるはずのない罪びとでした。また、当時のユダヤでは、「一緒に食事をすること」は「救われる人々の共同体を目に見えるかたちで表すもの」でした。それゆえファリサイ派の人々には、イエスがこのような罪びとを迎え入れて一緒に食事までしていることが理解できません。イエスのしていたことは、律法によって人の価値をはかる当時のユダヤ社会の秩序に対する挑戦でした。
イエスはルカ15章の3つのたとえ話で、なぜ自分が罪びとを迎えて食事を一緒にしているかを語ります。それは、神が見失った一匹の羊を捜し求め、その羊が見つかったことを喜ぶ羊飼いのような方であり、なくした銀貨を見つけて大喜びする女性のような方であり、さらに、この放蕩息子の父のような方だから、ということです。神は罪びとの滅びを望まれるのではなく、罪びとが再び神のもとに立ち返り、神の子として生きることを望んでおられる方だ、だからわたしも罪びとを招き、一緒に食事をしているのだ、というのです。
(2) 放蕩息子のたとえの中で、弟息子は父親に向かって、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(12節)と言います。これは本来、父親が死んだら受け継ぐことになっている財産のことです。息子の心の中で父は死んだも同然なのでした。この息子が転落してやっとありついた仕事は「豚の世話」でした。ユダヤ人にとって豚は汚(けが)れた動物で、豚肉を食べることは決してありませんでした。その豚の世話をすることは屈辱的であったはずです。「いなご豆」は貧しい人の食べ物にもなりましたが、それすら食べられないというのも、この弟息子のどん底の状態を表しています。
(3) 「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。父親は息子が帰ってくることを知らないはずですから、普通ならば息子のほうが先に父の姿を見つけるはずです。父が息子を見つけるという箇所には、出て行った息子を思う父親の強い心が表れているようです。
「憐れに思い」はギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉が使われています。「スプランクナsplankna=はらわた」という名詞に動詞の語尾を付けたものなので、ある人は「はらわたする」と訳しました。さらにこの「ゾマイzomai」という語尾の形は能動態ではなく中動態という形です。これは「みずからの意志でそうする」のではなく、「自然とそうなってしまう」というようなときに使われる形です。つまり、「目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられてしまう」ということを表す言葉なのです。普通の日本語で言えば「胸が痛む」というのが一番近いでしょうか。沖縄には同様な意味で使われる「チムグリサ(肝苦さ)」という言葉があるそうですが、このほうがもっと近いかもしれません。
(4) ボロボロになった人間を「見て、はらわたして(胸が痛み)、走り寄って」、わが子として迎え入れる、父である神とはそのような方だとイエスは語ります。それは、旧約聖書の中でモーセに現れた神の姿と重なります。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き…」(出エジプト記3章7,8節)。「痛みを知る」の「知る」はただ単に知識として知るというよりも、体験として知ることを意味します。「ああ痛いだろうな」というような知り方ではなく、「人の痛みを自分の痛みとして感じる」ことだと言ったら良いでしょう。だからこそ神のほうが「降って行き」イスラエルの民を救おうとなさるのです。ここには旧約と新約を結ぶもっとも大切な神のイメージがあります!
(5) このたとえ話は、弟息子の立場で読めば、ありがたい「福音」以外の何物でもありません。ただしイエスは、このたとえを、ファリサイ派の人々や律法学者に向けて語られました。兄息子の姿は罪びとを切り捨てた彼らの姿そのものだと言えるでしょう。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29節)というように、人との比較の中で自分は正しいと誇り、「あなたのあの息子」をゆるす父の心が理解できないのです。父親のほうはそれを「お前のあの弟」(32節)と言い直し、お前にとって彼は兄弟ではないかと諭します。この最後の父親の言葉には、兄息子を責めるのではなく、なんとか自分の心を分かってほしいという父の思いが強く感じられるでしょう。わたしたちはどちらの立場でこのたとえ話を聞くことができるでしょうか。
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第一朗読 ヨシュア5・9a、10-12
9a〔その日、〕主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた。」
10イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。11過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。12彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。
第二朗読 二コリント5・17-21
17〔皆さん、〕キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。19つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。20ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
福音朗読 ルカ15・1-3、11-32
1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。
11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
Posted on 2022/03/18 Fri. 09:00 [edit]
category: 2022年(主日C年)
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