福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
復活節第4主日 (2022/5/8 ヨハネ10章27-30節) 
教会暦と聖書の流れ
復活節第4主日には毎年、ヨハネ福音書10章の羊と羊飼いのたとえが読まれます(「良い牧者の主日」と呼ばれるのはそのためです)。たとえは3つの部分に分けられて3年周期で読まれますが、今年(C年)は3番目の箇所です。22-23節に「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた」という言葉がありますので、前のたとえと場面は変わっていますが、内容的にはつながっています。どのたとえにも共通しているのは、「羊と羊飼い」の間にある深いつながりです。復活して今も生きているイエスとわたしたちの間にある深いつながりを味わうためにこれらの箇所が選ばれています。
福音のヒント
(1) 短い箇所ですが、羊飼いであるイエスとわたしたち(羊)との深いつながりを感じることができるでしょう。1つのキーワードは「聞く」という言葉です。27節では「聞き分ける」と訳されていますが、ギリシア語では「アクオーakuo」で、普通はただ「聞く」と訳される言葉です(ここでは他の人の声と違うものとして聞き分けるという意味で受け取られています)。この「聞く」という言葉は、ヨハネ10章に何度も出てきます。3節「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。8節「わたしより前に来た者は皆、盗人(ぬすびと)であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」。16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」。いずれも「アクオー」という動詞が使われています。
8節のように、「聞く」には「聞き従う」の意味もあります。日本語でも「聞く」は、ただ単に「耳で聞く」だけではありません。「お母さんの言うことを聞く」は「聞いてそのとおりにする」=「聞き従う」の意味があります。「神の声を聞く」というのは、単に言葉として聞くのではなく、その言葉を自分に向けて語られた神の呼びかけとして聞き、それに応えていくことです。きょうの27節も「聞き従う」の意味で受け取ることができます。わたしたちがイエスの声を聞く、というのはどのような体験でしょうか。
(2) もう一つのキーワードは「知る」です。27節「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。この「知る」はただ単に知識として知っているというのではありません。むしろ、両者の深いつながりを表す言葉なのです。これも日本語で「○○さんを知っていますか」というときの知るに似ています。この質問は、「知識として知っているか」という意味だけでなく「かかわりがあるか、会って話したことがあるか」という関係を問う問いなのです。聖書の中での「知る」も、いつも「かかわりをとおして知ること」を意味しています。
10章4節には「羊はその(羊飼いの)声を知っている」という表現があります。14節でも「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」とあります。「互いが互いを知っている」というのは本当に深く結ばれた関係であることを表しています。何よりもイエスがわたしたちを知っていてくださるということはどれほど大きな恵みでしょうか!
(3) 10章のたとえは、9章でイエスが生まれつき目の見えない人をいやした物語から直接続けて語られています。羊のために命を差し出す良い羊飼いの姿は、安息日であっても目の前の苦しむ人に救いの手を差し伸べたイエスの姿そのものだと言えます。
9章の盲人の話を思い出しましょう。彼はイエスによって目に土を塗られ、シロアムの池に行っていやされました。つまり、彼はイエスの姿さえ知らずにいやされたことになります。彼はイエスという方が自分をいやしてくれたことを知っていますが、イエスについて、それ以外の知識は何もありません。「その人はどこにいるのか」と問われた彼は「知りません」と答えます(12節)。さらにファリサイ派の人々に問い詰められて、とうとうこう言います。「あの方が罪人(つみびと)かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)。最終的に35節以下で、彼は再びイエスに出会い、「主よ、信じます」と告白します。しかし、この人のイエスに対する根本的な「知り方」は、出会いをとおして自分が変えられたという体験だったのです。わたしたちはどのようにイエスを「知っている」でしょうか。
(4) イエスの復活によって実現したことは、次の2つのことだと言えるでしょう。
1つはイエスと父である神とのつながりの完成。父である神は、イエスを死の滅びの中に見捨てることなく、ご自分のもとに引き上げ、永遠に父である神とともに生きる方としてくださった。「わたしと父とは一つである」(30節)ということはイエスの復活においてはっきりと示されるのです。
もう1つは、イエスとわたしたち、父である神とわたしたちとのつながりの完成です。復活したイエスは、目に見えないが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださる。このイエスとわたしたちの絆(きずな)は決して絶たれることがない。また、イエスをとおして父である神と結ばれたわたしたちと神との絆も決して絶たれることはない。「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)、「だれも父の手から奪うことはできない」(29節)と、この箇所で約束されているとおりです。なお、29節の「わたしの父がわたしにくださったもの」はイエスに従う羊(信じる人々)のことでしょう。ただし、この箇所を「わたしに(彼らを)くださった父は、すべてのものより偉大」と読む写本もあります。
イエスを死の滅びの中に見捨てなかった神は、決してわたしたちをも見捨てない。イエスは今もわたしたちとともにいて、わたしたちを決して見捨てることはない。これが福音の約束です。厳しい現実や死に直面したときにこそ、この約束はわたしたちに大きな力を与えてくれるのではないでしょうか?
ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。
第一朗読 使徒言行録13・14、43-52
14〔その日、〕パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
43集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた44次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。45しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。46そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。47主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」48異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。49こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。50ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。51それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。52他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
第二朗読 黙示録7・9、14b-17
9わたし〔ヨハネ〕が見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って〔いた。〕
14b〔長老の一人が〕わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
15それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。
16彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。
17玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」
福音朗読 ヨハネ10・27-30
〔そのとき、イエスは言われた。〕27「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30わたしと父とは一つである。」
Posted on 2022/04/29 Fri. 10:00 [edit]
category: 2022年(主日C年)
トラックバック
トラックバックURL
→http://fukuinhint.blog.fc2.com/tb.php/937-8f594285
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| h o m e |