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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

復活節第5主日(2022/5/15ヨハネ13章31-33a,34-35節)  


教会暦と聖書の流れ


 復活節第5、第6主日には毎年、ヨハネ福音書から、最後の晩さんの席でのイエスの言葉が読まれます。イエスは世を去るにあたって、弟子たちに向けて遺言のような長い説教をしました。その中で一貫して語られるのは「わたしは去っていくが何かが残る」という約束です。それは十字架と復活の後の弟子たち(わたしたちも含めて)にとっては、単なる将来への約束ではなく、自分たちの中ですでに今、実現している約束であるはずです。
「何かが残る」といって、いったい何が残るのか? そのことを味わうことによって、復活したイエスが今もわたしたちとともにいてくださるとはどういうことかを受け取っていきます(これが復活節後半の大きなテーマです)。


福音のヒント


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  (1) 31節で「ユダが出て行く」ことと「栄光を受ける」ことがつながっています。ヨハネ福音書では、イエスの「受難」と「栄光」はほとんど一つのこととして結びついています。しかし、日本語の「栄光」の持つ華やかな成功のイメージだけでは、受難の時が栄光の時だということは理解できないでしょう。
 「栄光」はヘブライ語で「カボード」、ギリシア語で「ドクサdoxa」と言います。「カボード」の元の意味は「重さ」です。本来のニュアンスは「そのものの本当の価値」ということのようです。「ドクサ」のほうはむしろ「外に現れた輝き」と言ったらよいでしょうか。「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との輝きにも違いがあります」(Ⅰコリント15章41節)というパウロの言葉がありますが、ここで「輝き」と訳されているギリシア語が「ドクサ」です。ヨハネ福音書は、「ドクサ」という言葉をヘブライ語とギリシア語の両方のニュアンスを込めて、「そのものの本当の素晴らしさが輝き出ること」という意味で使っているようです。「栄光を与える」と訳された言葉は「ドクサゾーdoxazo」という動詞の形で、「栄光を受ける」はその受動態の形が使われています。「そのものの本当の素晴らしさを現す」「そのものの本当の素晴らしさが現される」という意味です。
 
  (2) なぜ、ヨハネにとって、受難の時が栄光の時なのでしょうか。それはヨハネがイエスの受難の中に「愛の極限の姿」を見ているからでしょう。受難の物語を始めるヨハネ福音書の言葉はこうでした。13章1節「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。受難と死においてイエスは「愛そのものである神」と完全に1つになり、神が愛であることを現し、神もまたイエスとはどういう方かを現しました。だからこそヨハネにとって、受難の時は、「イエスが神の本当の価値を輝かせる」栄光の時であり、同時に「父である神がイエスの本当の価値を輝かす」栄光の時なのです。

  (3) イエスが世を去り、残るのは「愛の掟」です。「互いに愛し合いなさい」という言葉はヨハネ15章12節にもありますが、そこではこの掟が「わたしの掟」と呼ばれています。「善いサマリア人のたとえ」(ルカ10章30-36節)で見られるように、愛とは心から自然に沸き起こるものであるとするならば、愛が「掟」であるというのはおかしいかもしれません。この「掟」は単なる命令や義務というよりも、むしろ生き方の根本原理だと言ったらよいのではないでしょうか。これから弟子たちの生き方の中心になるのは「互いに愛し合う」ことなのだ、という大きな約束をイエスは残してくださったのです。

  (4) 「互いに愛し合う」というと、教会の中でキリスト信者同士が大切にし合う、言葉を代えて言えば「排他的な愛」だと受け取られてしまうかもしれません。ヨハネ福音書が書かれた状況では、「イエスを信じる人々」と「イエスを受け入れない世」との間に厳しい対立がありましたから、「せめて自分たちの中では愛し合おう」ということを強調しているのかもしれません。しかし、イエスの教えは本来、ウチとソトを区別するようなものではなかったはずです。あまりこのことにこだわらないほうがよいでしょう。
 「互いに愛し合う」の「互いに」には別のニュアンスもあるかもしれません。これは、「自分がこれだけ愛した」という自己満足的な愛から、わたしたちをもっと豊かな人と人とのかかわりに招く言葉だと考えることもできるのではないでしょうか。愛は一方通行ではなく、人と人との間にある、深い心のつながりを表すものだからです。

  (5) 旧約聖書にも「隣人を愛しなさい」という掟がありました(レビ記19章18節)。ここでこの「掟」が「新しい掟」と呼ばれるのはなぜでしょうか。この掟の「新しさ」を二つの面から考えることができます。一つの新しさは、「愛する」だけでなく「互いに愛し合う」という点ですが、これについては上に述べました。もう一つの新しさは「わたしがあなたがたを愛したように」という点です。「わたしがあなたがたを愛したように」の「ように」は単なる模範ではありません。「イエスが2000年前の誰かを愛した、それを模範としてわたしたちも愛さなければならない」というのではありません。「イエスがわたしたちを愛してくださった、だからその愛を受けたわたしたちは愛し合いたいし、愛そうとするのだ」という意味なのです。
 わたしたちが愛し合うとき、わたしたちがイエスの「弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)ということも大切です。わたしたちがイエスの弟子であること(キリストが今も生きていてわたしたちを導いていてくださること)は、根本的にわたしたちキリスト信者の生き方をとおして表されるのです。本屋にいくら聖書が積んであっても、わたしたちキリスト信者がいくら聖書を学んでいても、わたしたちがそれに基づいて生きていなければ何にもなりません。ヨハネの第一の手紙にはこういう言葉もあります。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内でまっとうされているのです」(4章12節)。




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聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録14・21b-27


 〔その日、パウロとバルナバは、デルベから〕21bリストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、22弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。23また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。24それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、25ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、26そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。27到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。


第二朗読 黙示録21・1-5a


 1わたし〔ヨハネ〕は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。2更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
 5すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言〔った〕。


福音朗読 ヨハネ13・31-33a、34-35


 31さて、ユダが〔晩さんの広間から〕出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33a子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

Posted on 2022/05/06 Fri. 08:29 [edit]

category: 2022年(主日C年)

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