福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
三位一体の主日 (2022/6/12 ヨハネ16章12-15節) 
教会暦と聖書の流れ
毎年、聖霊降臨の主日の次の日曜日に「三位一体」の主日が祝われます。「三位一体」というと難しい神学概念のようですが、この主日はむしろ、イエスの生涯、受難、死、復活、昇天、聖霊降臨をとおして示された神の大きな救いのわざを振り返り、その神とわたしたちのつながりを深く味わう日だと考えたほうが良いでしょう。福音の箇所は、復活節に何度か読まれてきたヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの説教から採られています。なお、この箇所はB年の聖霊降臨の主日にも読まれています。
福音のヒント
(1) ヨハネ13章から始まった最後の晩さんの席でのイエスの説教の主な内容は、イエスが世を去り、目に見える形ではいなくなるが、違う形で居続ける、という大きな約束です。その中で聖霊を送る約束が4箇所あります(14章16-17節、14章26節、15章26節、16章7-15節)。きょうの箇所はその最後の部分から採られています。この約束はイエスの復活後に実現します。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。・・・』」(ヨハネ20章22節)。
「真理の霊」の「真理」はギリシア語では「アレーテイアaletheia」と言います。元の意味は「隠されていないこと」です。ギリシア人にとって、真理とは、ふつうは見えないが覆いを取られて現れてくるそのものの本当の姿だと言えるでしょう。一方、真理と訳されるヘブライ語は「エメト」です。この言葉は「アーメン(確かに)」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。ヨハネ福音書の「真理」には「隠れていた神の本質が現されること」というギリシア語的なニュアンスと「本当に確かで、頼りになるもの」というヘブライ語的なニュアンスの両面があると考えられます。
「ヨハネ福音書における真理とはイエスご自身のことである」と言った人がいます。イエスこそ、神の本当の姿を明らかにした方であり、わたしたちの救いのために本当に確かで頼りになる方なのです。「真理の霊」と言われる聖霊の働きは、何よりも真理であるイエスにわたしたちを結びつけることだと言えるでしょう。人間の力を超える何かしら大きな力を感じたとしても、それを聖霊の働きだと言うことはできません。大切なのは、その力がわたしたちをイエスとその生き方(=愛)に結びつけるかどうかなのです。
(2) 16章13節で「その方」と訳されている言葉はギリシア語では男性形の指示代名詞ですが、もちろん聖霊のことを指しています。「霊(プネウマpneuma)」はギリシア語では中性名詞なので、中性形の指示代名詞(訳せば「それ」)が使われてもおかしくないのですが、ヨハネはあえて男性形で書いています。これはヨハネ14章16節などで聖霊が男性名詞の「弁護者(パラクレートスparakletos)」と呼ばれているからでしょうか。聖霊とは、素朴に言えば「神の(あるいは復活したイエスの)目に見えない働き」と言うことができます。しかし、ヨハネ福音書は、単なる「働き」ではなく、弟子たちのうちにとどまり、いつも弟子たちとともにいてくださる「方」という面を強調して、聖霊のことを人格を持つもののように語っているのだとも考えられます。
ここでの聖霊の働きは「真理をことごとく悟らせる」ことです。「真理をことごとく」と訳された部分は「真理全体を」とも訳せるような言葉が使われています。「悟らせる」には「道案内する、導く」という意味の言葉が使われています。イエスはこれまで、いろいろな言葉を語ってきました。しかし、これからは聖霊が弟子たちを導くのです。聖霊の導きは、イエスがこれまで語ってきたことと別のことではなく、イエスが語られたことを、わたしたちにもっと深く理解させ、わたしたちがわたしたちの現実の中でイエスの言葉をどう生きるべきかをはっきりと示すことだと言えるでしょう。
(3) 「唯一の神が父と子と聖霊である」という三位一体の教えは、学者が頭の中で考え出した教えではありません。イエスの弟子たちの救いの体験をもとにして、古代のキリスト教の発展の中で最終的にまとめられた表現なのです。
イエスは、2000年前に一回限りの地上の生涯を生き、その言葉と生き方をもって、決定的な形で神を現してくださいました。イエスの派遣は人間に対する神からの決定的な救いの働きかけでした。弟子たちはイエスの生涯と死と復活を見て、そのことを確信するに至りました。この確信を弟子たちは「イエスこそが神の子キリストである」という言葉で表現し、人々に伝えていきますが、その福音告知の活動の中で、自分たちがいつも神によって支えられ、大きな力で導かれていることを体験しました。その体験を彼らは「聖霊がわたしたちのうちに働いている」と表現したり、「復活して今も生きておられるイエスがともにいる」(マタイ28章20節参照)と表現したのです。この働きは、そのときから2000年後の今に至るまで、キリスト信者が経験してきていることだとも言えるでしょう。
(4) つまり、神は二通りの仕方で、人間に対する決定的な働きかけをしてくださったということになります。
1つは「イエス」=歴史の中で一回限り。明確な言葉と生き方をもって語りかける。
もう1つは「聖霊」=いつの時代のどこの人にも。心の中に直接働きかける。
大切なのは、「三位一体」という言葉よりも、この二通りの神の働きかけをわたしたちがしっかりと受け取ることではないでしょうか。きょうの「福音のヒント」の図が示そうとしているのは、三位一体そのものというよりも、父と子と聖霊とわたしたちの関係です。上から下に向けての線は、上で述べた神の二通りの働きかけを表しています。これに対して、下から上に向かう線は、わたしたちが神に向かうときの姿勢を表しています。わたしたちは、イエスの言葉と生き方を見つめ、わたしたちの内面に直接働きかける神の力(聖霊)に支えられて、御父に向かって歩みます。祈りの体験もそうでしょう。聖霊という内面的に働きかける神の力があるからわたしたちは祈ることができます。そしてわたしたちの祈りは、いつもイエスをとおして(イエスの祈りに結ばれて)、御父にささげられます。
わたしたちは、このダイナミックな神との関わりを生きるように招かれているのです。
ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。
第一朗読 箴言8・22-31
〔神の知恵は語る。〕
22主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。23永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。24わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。25山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが/わたしは生み出されていた。26大地も野も、地上の最初の塵も/まだ造られていなかった。27わたしはそこにいた/主が天をその位置に備え/深淵の面に輪を描いて境界とされたとき 28主が上から雲に力をもたせ/深淵の源に勢いを与えられたとき 29この原始の海に境界を定め/水が岸を越えないようにし/大地の基を定められたとき。30御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し 31主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。
第二朗読 ローマ5・1-5
1〔皆さん、〕わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
福音朗読 ヨハネ16・12-15
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕12「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
Posted on 2022/06/03 Fri. 08:30 [edit]
category: 2022年(主日C年)
トラックバック
トラックバックURL
→http://fukuinhint.blog.fc2.com/tb.php/942-63de303d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| h o m e |