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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第15主日 (2022/7/10 ルカ10章25-37節)  


教会暦と聖書の流れ


 エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える話です。この旅は十字架を経て天に向かう旅(9章51節)であると同時に、神の国を告げる旅(9章60、62節、10章9節)でした。きょうの箇所の前には、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これはみ心にかなうことでした」(21節)というイエスの言葉があります。ここでは、その「知恵ある者・賢い者」の代表である律法学者が登場してイエスと議論します。この文脈から見れば、たとえ話のサマリア人の姿の中にこそ「神の国」が実現している、とも言えるのではないでしょうか。


福音のヒント


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  (1) 律法学者(律法の専門家)は、律法を人々に教え、律法によって民衆を指導していた人々でした。27節で律法学者が引用する「神を愛し、隣人を愛する」ことは、申命記6章5節とレビ記19章18節に記された律法の言葉です。マタイ22章37-39節やマルコ12章29-31節でこの2つの箇所を引用するのはイエスご自身ですが、ここでは律法学者のほうが引用しています。それに対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればいのちが得られる」と言っています。神への愛と隣人への愛という2つの掟が重要だとする点では、イエスと律法学者との間に意見の違いはありません。
 29節で律法学者は、自分を正当化しようとして(直訳は「自分を義として」)、「わたしの隣人とはだれか」と問います。何が大切な掟かという点でイエスと同意見でも、隣人愛の掟の受け止め方は大きく違います。律法学者は次のように考えたようです。「そもそも『隣人』とはすべての人の意味ではなく『近くにいる人』の意味である。ではどの範囲までが隣人なのか」律法学者がなぜこんなことを考えるかといえば、それは彼らが律法を忠実に守ろうとし、この隣人愛の掟も厳密に実行しようとしたからです。彼らの考えでは隣人を愛するためにはまず「隣人とは誰か」を定義しなければならないのです。確かに「隣人」という言葉自体は、本来身近な人を指しますから、すべての人を含んでいるとは言えないでしょう。そして、この律法学者の考えの中には「罪びとや異邦人は遠ざけるべきもの、排除すべきものであり、まさか隣人愛の掟の対象であるはずはない」ということもあったにちがいありません。

  (2) イエスがいつも見つめていたのは、神の望み・神のこころでした。「律法の字句をいかに正しく解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということをイエスは問いかけます。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことであるのは明白です。
 たとえ話の内容については、それほど説明はいらないでしょう。
 祭司とレビ人は、両方とも神殿に仕えている人であり、真っ先に律法を実行するはずの人でした。彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚(けが)れることを避けようとしたのでしょうか、一方で、三番目に登場したサマリア人(律法学者の考えでは「隣人」ではありえない人)は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱します。この違いはなんでしょうか。

  (3) ここで使われている「憐れに思い」と訳された言葉に注目すべきです。これはギリシア語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は「スプランクナsplankna(はらわた)」を動詞化したもので、「人の痛みを見たときに、こちらのはらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉です。日本語の「胸を痛める」に近いかもしれませんが、沖縄には「肝苦りさ(チムグリサ)」と言う言葉があるそうです。ある人はあえて「はらわたする」と訳しました。このサマリア人は「レビ記には『隣人を愛せ』という律法があった。この人は隣人だから助けよう」と思ったわけではありません。「はらわたした」から助けたのです。目の前の人の苦しみを見たときに、その苦しみを体で感じるから、ほうってはおけなくなるのです。イエスは、人間には誰でも(ユダヤ人でもサマリア人でも)こういう心があるはずだ、と考えていて、それが神から見てもっとも大切なことであり、その心と心からの行動があるところに神の意思が実現している(もう神の国が始まっている)と語っておられるのでしょう。

  (4) 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というレビ記19章18節の律法は、その直前に「兄弟、同胞」などという言葉がありますので、やはり本来はすべての人というよりも、ある範囲の中の人(身近な人)を指しているようです。しかし、同じ19章にはこういう言葉もあります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(19章33-34節)。
 律法の前提には、いつも神の救いのわざがあります。エジプトで寄留者だったイスラエルの民を救ってくださった神の愛を知った民はどう生きるべきか、これがいつも律法の指し示していることです。律法は人間を採点するための掟ではなく、本当に問われていることはいつも、この神の愛にどのように出会い、どのように応えるかということなのです。
 愛について言葉を費やすことはむなしいことでしょう。「行ってあなたも同じようにしなさい」(37節)、これに尽きるのです。わたしたちの現実はどうでしょうか。わたしたちの中にも、「見て、はらわたして、近寄って行く」という体験があるはずです。しかし、いつもそうとは限らず、「見ても、はらわたしない」ということもあるでしょうし、「見て、はらわたしても、近寄っていかない(いけない)」ということだってあるでしょう。そんなわたしたちにきょうの福音のたとえ話はどんな光を与えてくれるでしょうか。




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「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 申命記30・10-14


 〔モーセは民に言った。10あなたは、〕あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰〔りなさい。〕
 11わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。12それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。13海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。14御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。


第二朗読 コロサイ1・15-20


 15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。


福音朗読 ルカ10・25-37


 25〔そのとき、〕ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

Posted on 2022/07/01 Fri. 08:30 [edit]

category: 2022年(主日C年)

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