福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第20主日 (2022/8/14 ルカ12・49-53) 
教会暦と聖書の流れ
イエスのエルサレムに向かう旅の段落の中で、ずっと語られているのは「神の国」についての教えです。この神の国には、「今すでに始まっている」という面と、「世の終わりに現れ、完成する」という面があります。終末における完成ということの中には、神に反するすべてのものが滅ぼされる「裁き」の面があります。先週の箇所(ルカ12章32-48節)もその裁きについての警告の言葉でしたが、きょうの箇所にも、非常に厳しい警告の内容を持つイエスの言葉が集められていると考えたらよいようです。なお、51-53節はマタイ10章34-36節に似た言葉があります。
福音のヒント
この「火」は一方では神に反するものを滅ぼしつくす「裁きの火」です。ただ、この見方だけではルカ12章49節の「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」との結びつきは理解しにくくなります。この「火」は「聖霊」とも結びついています(使徒言行録2章にある「炎のような舌」は聖霊のシンボルです)。ここには「清め」のイメージもあります。「火」は、聖霊によって人に罪のゆるしをもたらし、神との結びつきを確かにする「清めの火」でもあると言えるのです。きょうの50節で「受けねばならない洗礼」のイメージが続いているのはそのためでしょう。
(2) 「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。すでにイエスの誕生の場面で、天使たちはこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)。イエスによってもたらされるものは本来、平和であるはずです。この平和は人と人とが本当に尊重し合って生きるような、神から来る平和だと言うことができるでしょう。これに対して、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という時の「平和」は争いが避けられ、表面的に平穏が保たれているだけの状態だということだと言えます。
イエスの到来とそのメッセージは、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものでした。それは、イエスによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこには表面的な平穏さを保つだけではすまないものがあります。
(3) 53節はミカ7章6節の引用だと考えられます。「息子は父を侮(あなど)り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」。これは人々の中に悪が満ち、もはや親しい者さえも信じることができないという終末の混乱した状況を語る言葉です。これに続くミカ7章7-8節では、その混乱の中で主に信頼する人の生き方が示されます。
「しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」。
終末についての聖書の教えは、神が人間の間に混乱や分裂を引き起こすということを語ろうとしているのではありません。現実にどのような混乱や分裂があっても、それを突き抜けて神の救いが実現する、という希望と確信を表すものなのです。
(4) 「五人」の家族というのは、両親とその息子、娘に、息子の嫁を加えた家族の姿が考えられているのでしょうか。だとするとこの対立は、親の世代と子どもの世代の間の対立であるという見方もできるかもしれません。それは、イエスご自身や弟子たちが経験したことでもあったようです。
「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは誰か』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マルコ3章31-34節)
「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マルコ1章19-20節)。
このような場面を思い起こすならば、この対立は、自分の家族の中でうまくやっていけばよいという態度と、神の子どもとして、すべての人と兄弟姉妹としてのつながりを生きようとする態度の間にある対立ということになるでしょう。
(5) きょうの箇所が語っているのは、いつのことでしょうか。最終的な裁きと神の国の完成の時のようでもあり、イエスが活動している今のことのようでもあります。また、「わたしには受けねばならない洗礼がある」という言葉は、イエスの十字架の時を特に意識させます(マルコ10章38-39節参照)。今が終わりの時である、イエスの到来とともにすでに終わりの時は始まっている、ということはわたしたちにとっても大切でしょう。
わたしたちの中にも分裂や対立の厳しい現実があるかもしれません。その中で神の救いが見えなくなることもあるかもしれません。それはある意味で終末のような状況です。しかし、「対立して分かれる」(53節)ということがイエスの望みではないし、本当の終わりでもないのです。
内容的に言えば、きょうの箇所に続くはずの言葉は、「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ11章31節)ではないでしょうか。だとすれば、「火」とは「神の国に対する熱い思い」だと考えることもできるでしょう。イエスがわたしたちに求めているのは、「その火がすでに燃えていたら」ということだと受け取ってみてはどうでしょうか。
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第一朗読 エレミヤ38・4-6、8-10
4〔その日、役人たちはエレミヤについて〕王に言った。
「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」
5ゼデキヤ王は答えた。
「あの男のことはお前たちに任せる。王であっても、お前たちの意に反しては何もできないのだから。」
6そこで、役人たちはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの水溜めへ綱でつり降ろした。水溜めには水がなく泥がたまっていたので、エレミヤは泥の中に沈んだ。
8エベド・メレクは宮廷を出て王に訴えた。
9「王様、この人々は、預言者エレミヤにありとあらゆるひどいことをしています。彼を水溜めに投げ込みました。エレミヤはそこで飢えて死んでしまいます。もう都にはパンがなくなりましたから。」
10王はクシュ人エベド・メレクに、「ここから三十人の者を連れて行き、預言者エレミヤが死なないうちに、水溜めから引き上げるがよい」と命じた。
第二朗読 ヘブライ12・1-4
1〔皆さん、わたしたちは、〕このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
4あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
福音朗読 ルカ12・49-53
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」
Posted on 2022/08/05 Fri. 09:58 [edit]
category: 2022年(主日C年)
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