福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第24主日 (2022/9/11 ルカ15章1-32節) 
教会暦と聖書の流れ
ミサの朗読には、長い形と短い形がある場合がありますが、「福音のヒント」ではできるだけ長い形のほうを取り上げています。グループで読んで分かち合う場合には、ミサの時ほど時間の制約がないと思うからです。なおきょうの短い形では、11節以下の「放蕩息子の父のたとえ」が省略されていますが、それは今年(C年)の四旬節第4主日でも読まれた箇所だからでしょう。ルカ福音書の文脈では、イエスはエルサレムに向かう旅を続けています。その中でイエスは父である神の姿と神の国の喜びをはっきりと示していきます。
福音のヒント
(1) 3つのたとえ話ですが、1-3節の導入部分は大切です。これらのたとえ話は単なる言葉による教えではなく、イエスの生き方・行動と密接に結びついているのです。この話のきっかけは、イエスが徴税人や罪びとを招き、食事まで一緒にしていたのを非難されたことでした。イエスの答えが、「神とは、この羊飼いのような方であり、一枚の銀貨を探す女性のような方(!)であり、また、この放蕩息子の父のような方だ。だから、自分も罪びとを招き、食事を一緒にしているのだ」ということであるのは明白です。
(2) 「共に食事をすること」が、一緒に食事をする人同士の絆を作り、確認し、深めるものであることは、ほとんどすべての民族・文化に共通することです。食べ物を独り占めせずに、分け合って食べるというところに、人と人とのもっとも基本的な「共に生きる姿」があると言えるのでしょう。ユダヤ人にとって「共に食事をすること」は「神の前での大宴会」のイメージでもありました。出エジプト記はイスラエルの長老たちがシナイ山で「神を見て、食べ、また飲んだ」ことを、特別な恵みのしるしとして伝えています(出エジプト記24章11節)。預言者は最終的に到来する救いの完成のありさまを神のもとでの宴(うたげ)として描きました(イザヤ25章6-10節)。
地上で「共に食事をすること」は、この「神のもとでの宴とそこに集う共同体」を目に見える形で表すものと考えられていました。それゆえ、イエスの時代のユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしませんでした。自分たちだけが神の救いの食卓にあずかれると考えていたからです。同じように、ファリサイ派の人々は自分たちのグループだけで食事をしました。徴税人など罪びとは救いから排除されるはずだったからです。イエスにとっても「共に食事をすること」は救いの共同体を表すものでした。しかし、だからこそイエスはすべての人をそこに招いたのです!
(3) きょうの3つのたとえ話は、神が罪びとの滅びではなく、罪びとが生きることを望んでおられるということをはっきりと示しています。神は、罪によってご自分から離れ、ボロボロになり、滅びかけようとしている人を、探し、待ち続け、見つけて連れ戻すことを喜びとする方なのです。
福音書の中での「罪びと」の問題はほとんど、自分の意志で悪を行ったというようなことよりも、病気や職業によって罪びとのレッテルを貼られ、神からも人からも断ち切られていた人々の問題でした。このことを思い出すことも、たぶん大切でしょう。それは「悪いと知りつつあえてその悪いことをするというような厳密な意味での罪」の問題というよりも、もっと広「神と人々から断ち切られた状態」の問題だといってもよいでしょう。今の社会の中ではどういう人々のことを思い浮かべることができるでしょうか。
(4) きょう、わたしたちはこの福音をどう受け止め、どのように分かち合うことができるでしょうか。たぶんまず最初に問われることは、わたしたちがだれの立場でこれらのたとえ話を聞くかということです。「迷わずにいる99匹の羊」か「迷った1匹」か。真面目に父親のもとで働いてきた兄か、放蕩息子である弟か。もし後者であれば、きょうの箇所のたとえ話は、ありがたくてありがたくて仕方ない「福音」としか言いようがないでしょう。ただし、イエスはこれらのたとえ話を、迷子の羊や放蕩息子である「徴税人や罪びと」に向けて語られたのではありません。むしろ99匹であり、真面目な兄である「ファリサイ派や律法学者」に向けて語られたのです。そこで求められていることははっきりしています。99匹には、羊飼いの心を分かってほしい、兄には、弟を受け入れた父の心を分かってほしい、ということです。これも、わたしたちにも思い当たることがあるのではないでしょうか。自分を「99匹・兄」と感じる部分がだれの中にもあるでしょう。一方、「迷子の1匹・弟息子」と感じることもきっとあるでしょう。わたしたちはどんなときにそう感じるのでしょうか。
「わたしにとって、迷子の1匹や弟とはだれのことか」と問いかけてみることもできるかもしれません(マタイ18章10節参照)。本当は神がとても大切にしている人なのに、自分がいつの間にか見下していたり、無視してしまっている人がいるのではないでしょうか。
(5) 放蕩息子のたとえで、よく言われることは「こんなに甘い父親では、弟は更生しないし、兄もやる気を失ってしまう」ということです。社会の常識から言えばそのとおりでしょう。それでも神は、無条件にゆるすのです。なぜなら、人間は神からの、この無条件のゆるしと愛なしには生きられないものだからです。そのことを本当に感じられますか。
放蕩息子の父のたとえは、ゆるしとは関係回復の出来事だということを非常にはっきりと示しています。弟息子は「わたしが頂くことになっている財産の分け前」と言いますが、これは普通なら父親が死んでから与えられるものです。弟息子にとって父は死んだも同然、まったく関係を断ち切っています。一方の父親は息子の帰りを待ち続け、帰ってきた息子を「見つけて、憐れに思い(「スプランクニゾマイsplanknizomai=はらわたして!」)、走り寄って」、わが子として受け入れるのです。ゆるしとは罪によって断ち切られた関係を取り戻そうとする働きです。この関係回復こそ、現代世界にとって、またわたしたちの身近な人間関係にとっても、本当に切実なテーマなのではないでしょうか。
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第一朗読 出エジプト32・7-11、13-14
7〔その日、〕主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、8早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」9主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。10今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」11モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。13どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」14主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。
第二朗読 一テモテ1・12-17
12〔愛する者よ、わたしは、〕わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。13以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。14そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。16しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。17永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
福音朗読 ルカ15・1-32
1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
8あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。
11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
Posted on 2022/09/02 Fri. 13:47 [edit]
category: 2022年(主日C年)
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