福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第28主日 (2022/10/9 ルカ17章11-19節) 
教会暦と聖書の流れ
エルサレムに向かうイエスの旅は十字架に向かう旅、十字架を経て天に上げられる旅でしたが、それはまた神の国を告げ、神のいつくしみをあらわし続ける旅でもありました。ルカ福音書はこの旅の間に、イエスのさまざまな言動の記録を伝えています。きょうの話もその中での出来事であり、ルカ福音書だけが伝える出来事です。
福音のヒント
(1) 紀元前10世紀、ソロモン王の死後、イスラエルは政治的に分裂しました。北のイスラエル王国は、エルサレムの神殿とは別の聖所をサマリアのゲリジム山に作り、宗教的にも南のユダ王国から分離しました。紀元前8世紀には北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になり、南のユダヤ人とは民族的にも分かれてしまいました。このような経緯で、ユダヤ人とサマリア人は反目し合うようになっていたのです。
きょうの福音の場面は「サマリアとガリラヤの間」とありますが、正確な場所はよく分かりません。話の中にサマリア人とユダヤ人が一緒に出てくるので、それに合わせた場面設定だとも言えそうです。なお、イエスが育ったガリラヤ地方は、ユダヤから見てサマリアよりもさらに北にありましたが、ある時代に、南のユダヤ人が入植して町や村を作ったので、人種的にも宗教的にもユダヤ人との同一性を保っていました。つまり、ガリラヤの人々はユダヤ人なのです。
(2) ユダヤ人とサマリア人は、共にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を正典としていました。その中には次のような規定がありました。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13章45-46節)。
反目し合っていたユダヤ人とサマリア人が一緒に行動していることは普通ならば考えにくいことです。しかし、重い皮膚病の人々は、それぞれが本来属していた共同体から追放されてしまっていて、その中で苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのでしょうか。人と人とが同じ苦しみの中で、お互いの違いを超えて連帯する・・・そういうような経験はわたしたちの周りにもあるかもしれません。
(3) なぜイエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)と言われたのでしょうか。当時の社会では、この病気を宣告するのも、治癒(ちゆ)を宣言するのも、祭司の役割でした。肉体的に病気が治っても、祭司によって「清め」の儀式をしてもらわなければ、社会復帰ができないのです。イエスはその人の神とのつながりを回復するだけでなく、その人がもともと所属していたコミュニティーとの関係を取り戻すことを意図しておられたとも言えるでしょう。なお、ユダヤ人とサマリア人は別々の祭司を持っていたので、彼らは、別の場所へ出かけていったはずです。
(4) きょうの福音から、「もっと感謝と賛美の心を持たなければならない」という教訓を受け取るのは当然のことでしょう。しかし、「感謝し、賛美する」ということは、義務感から来るものではないはずです。賛美と感謝は、むしろ自然に心の中からわき上がるものでるはずです。どうしたら心から賛美し、感謝することができるかを考えるために、自分をこの福音の場面の中に置いてみて、このサマリア人の立場からこの物語を味わってみてはどうでしょうか。病気が治った人々はもちろん皆、喜んだはずです。しかし、祭司のところに行く前に、「感謝し」(16節)「賛美するために戻ってきた」(18節)のはサマリア人だけでした。それはなぜなのでしょうか。
この10人は皆「清くされた」(14節)のですが、1人のサマリア人だけが「自分がいやされたのを知って」(15節)と言われています。「知る」は直訳では「見る、分かる」です。この人がはっきりと意識したことは、「自分がいやされた」つまり「神がこの自分をいやしてくださった」ということだったのでしょう。他の人と違って、そのことを明確に知ったからこそ彼は賛美し感謝することができたのだ、と言えるのではないでしょうか。
もう一つ考えられることは、ユダヤ人であるイエスが民族の壁を超えて、サマリア人である自分にも目をかけてくださった、ということの中に、ほかの人(ユダヤ人)以上の感謝を感じたのではないか、ということです。「この自分にまでも!」という驚きと感動が、彼をあのような行動に駆り立てたのではないでしょうか。
どちらも、わたしたちの中に似た経験があるかもしれません。わたしたちが、本当に神に感謝し、神を賛美するのはどんなときでしょうか。
(5) 「あなたの信仰があなたを救った」(19節)という言葉は福音書に何度か出てきますが、考えてみれば不思議な言葉です。「神があなたを救ってくださった」というほうが自然ではないでしょうか。しかしイエスは意外なほど「信仰」の力を強調しています。
重い皮膚病だったこのサマリア人の「信仰」とは何でしょうか? それは、この人が自分の病気が治ったことを「神がいやしてくださったこと」として受け取ったということではないでしょうか。自分の身に起こった出来事の中に神とのつながりを発見すること、自分の現実の中に神の働きを見ていくこと、それがここでいう信仰だと言えるかもしれません。また、この箇所で、その「信仰があなたを救った」というときの「救い」も、病気がいやされたことより、この人が心から感謝と賛美を生きる者となった、そのこと自体だと言ってもよいのではないでしょうか。
この個所のすぐ後に「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17章21節)というイエスの言葉があります。イエスは、きょうの福音の出来事のように、民族の違いを超えて、神の救いの喜びが広がっていく現実の中に、神の国の実現を見ていたのでしょう。今のわたしたちは、どのように信仰と救い、賛美と感謝、神の国の現実を生きているでしょうか。
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第一朗読 列王記下5・14-17
14〔その日、シリアの〕ナアマンは神の人〔エリシャ〕の言葉どおりに下って行って、ヨルダン〔川〕に七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
15彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」16神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。17ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。」
第二朗読 二テモテ2・8-13
8〔愛する者よ、〕イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。9この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。10だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。11次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。
12耐え忍ぶなら、
キリストと共に支配するようになる。
キリストを否むなら、
キリストもわたしたちを否まれる。
13わたしたちが誠実でなくても、
キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を
否むことができないからである。」
福音朗読 ルカ17・11-19
11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
Posted on 2022/09/30 Fri. 08:30 [edit]
category: 2022年(主日C年)
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