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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第2主日 (2023/1/15 ヨハネ1章29-34節)  

教会暦と聖書の流れ


  「年間主日」のミサの福音は、福音を告げるイエスの活動の歩みを追っていきます。3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれ、ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読まれるようになっています。ところで、ヨハネ福音書でイエスの最初期の活動を伝える部分は他に読む日がないので、年間第2主日に読まれることになっているのです。
 もちろん、成人したイエスの話ですが、ここに「神の子の栄光の現れ」という降誕節のテーマの余韻を感じ取ることもできるでしょう。なお、日本語で「公現」と訳されているラテン語の「エピファニアepiphania」(元のギリシア語では「エピファネイアepiphaneia」)は、もともと「現れること」、特に「神の現れ」を表す言葉です。


福音のヒント


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   (1)  ヨハネ福音書は主の降誕・日中のミサで読まれた序文(1章1-18節)の後、イエスの活動のはじまりを最初の6日間の出来事として伝えています(1章19節~2章11節)。それは創造の6日間(創世記1章)を思い起こさせるものだとも言えます。イエスによって「新しい創造」とも言える神の画期的な業(わざ)が始まったのです。きょうの箇所は「その翌日」という言葉から始まる第2日目の出来事です。ヨハネ福音書はイエスについての多くのエピソードを伝えていますが、それはただの出来事の報告ではありません。ヨハネはいつも1つ1つの出来事の中にイエスとはどういう方であるかが示されている、と考え、そういうものとして1つ1つのエピソードを書き記しています。洗礼者ヨハネとイエスの出会いを伝えるきょうの箇所も、「イエスとはどういう方か」ということをわたしたちに教え、そのイエスとの出会いにわたしたちを招いていると受け取ったらよいでしょう。

  (2) 「世の罪を取り除く神の小羊」はミサの中でお馴染みの言葉ですが、分かりやすいとは言えないでしょう。「神の小羊」には旧約聖書の背景がいくつか考えられます。
 (a) 過越(すぎこし)の小羊 出エジプト記12章にあるエジプト脱出の晩の物語から、小羊は神の救いのシンボルとなり、イスラエルの民は毎年、過越祭に小羊を屠(ほふ)ってこの救いの業を記念しました。イエスはこの過越祭のころに十字架刑に処せられました。
 (b) 主のしもべの比喩としての小羊 イザヤ53章7節には「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」という言葉があります。これは苦しみをとおして多くの人の罪をあがなう有名な「主のしもべ」について語られている箇所です。この箇所は、旧約聖書の中で最も強くイエスの受難を思い浮かべさせる箇所だと言えるでしょう。
 (c) 犠牲動物としての小羊 また、旧約聖書では神殿にささげられる動物としての羊があります。このいけにえは、特に罪のあがないと関連しています。
 ヨハネ福音書はこれらすべてを背景として、イエスこそが神の救いをもたらす方だという意味で、イエスを象徴的に「神の小羊」と呼んでいると受け取ったらよいでしょう。
 ただこの箇所では「神の小羊」という言葉の意味よりも、洗礼者ヨハネが「見よ!」と弟子たちの注意をイエスに向けさせていることが大切だとも言えます(ヨハネの弟子にとってもこの時点では「神の小羊」は意味不明の言葉だったはずです)。イエスについて言葉で説明して頭で理解することよりも、イエスご自身の姿をしっかりと見つめることのほうが、ある意味ではもっと大切なことなのです。

  (3) 「わたしよりも先におられた」(30節)という表現も分かりにくいでしょう。1つのヒントとして「永遠」ということを考えてみるとよいかもしれません。「神が永遠である」という時の「永遠」とは、時間を過去と未来に果てしなく延長したものというよりも、時間を超えたものです。「天」が「地」(われわれの生活空間)を超えたものであるから、神はどこにでもいると言えるように、「永遠」はわれわれの経験している時間を超えたものですから、「神はいつもおられる」と言えるのです。「天」とはもともと大空のことを指した言葉(空間的な表現)ですが、古代の人はその言葉を用いて日常生活の空間を超えた世界を表そうとしました。「先」「後」という表現もわれわれの経験している時間内の表現ですが、ここではむしろイエスが永遠の方であることを言おうとしているのだと考えたらよいでしょう。ヨハネ1章18節で「父のふところにいる独り子(ひとりご)である神」と言われるように、永遠の神とともにいることがイエスの本質だと言うのです。
 わたしたちの信仰は、人のいのちを「目に見える世界だけの、今という時だけのいのち」ではなく、もっと豊かな「時間を超えた永遠とのつながりの中にあるいのち」として受け取ります。そのことがもっとも強く感じられるのは、病気や死に直面したときでしょう。もちろん、それ以外の場面でも感じることがあるかもしれません。

  (4) ヨハネ福音書は、イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたという事実を報告しようとはしていません。むしろ、そのことの意味をはっきりと示そうとしています。
 「"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)。洗礼の元のギリシア語は「バプティスマbaptisma(水に沈めること)」であることをいつも思い起こすとよいでしょう。ヨハネは回心のしるしとして、人を水の中に沈めました。イエスは聖霊の中に人を沈める、というのです。ここにはイエスこそが聖霊(神のいのち・神とのつながり)を人にもたらす方だということが表されています。
 「洗礼を授ける(バプティゾーbaptizo)」を「漬ける」と訳した人がいます。「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。「福神漬け」というのは、七福神のようにさまざまな野菜が1つの漬物になっているからそういう名前になったそうです。福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてみてはどうでしょうか。「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。わたしたちが「聖霊漬け」になるというのは・・・?




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ49・3、5-6


3〔主は、〕わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
5主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。
今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ
イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを
御自分の僕として形づくられた主は
6こう言われる。
わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。


第二朗読 一コリント1・1-3


 1神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、2コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。3わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。


福音朗読 ヨハネ1・29-34


 29〔そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」


Posted on 2023/01/06 Fri. 08:30 [edit]

category: 2023年(主日A年)

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