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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第4主日 (2023/1/29 マタイ5章1-12a節)  


教会暦と聖書の流れ


 この箇所の直前、マタイ4章24節に次の言葉があります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風(ちゅうぶ)の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた。」きょうの箇所はこの「群集」を見て、イエスが語った長い説教のはじめの部分です。特定の「弟子」だけでなく、群集も聞いていたことは、この説教の結びの箇所(7章28節)からも分かります。


福音のヒント


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  (1) マタイ福音書5~7章の長い説教は、以前はよく「山上の垂訓」と言われていましたが、今では「山上の説教」と呼ばれることが多いようです。イエスがある時、実際に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られた言葉がつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。何のために初代教会の人々は、これらのイエスの言葉を集めたのでしょうか。
 内容から考えて、これらの言葉は、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示す言葉として集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず第一に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。

  (2) きょうの箇所は「八つの幸い(真福八端)」と呼ばれています。この「八つの幸い」の前半とよく似ているルカ福音書の「3つの幸い」を比べてみましょう。
マタイ5章3節 心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
     4節 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
     5節 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
     6節 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
ルカ6章20節   貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
    21節前半 今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
    21節後半 今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。
 マタイの3節とルカの20節、マタイ6節とルカ21節前半は多くの言葉が共通しています。マタイ4節とルカ21節後半も内容的にはよく似ています。もともと1つのイエスの言葉が伝えられていくうちに2つの形になった、と考えることができるでしょう。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです。
 マタイの5節「柔和な人々は」の句はルカにはありませんが、この言葉は、詩編37編11節の引用と言ってもよい言葉です。新共同訳聖書でこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と訳されていますが、「貧しい」と「柔和な」はどちらもヘブライ語では同じ「アナウ」という言葉(もともと、身をかがめて小さくなっている様子を表す言葉)です。古代の写本の中には、4節と5節を入れ替え、「心の貧しい人々は」の句の次に「柔和な人々は」の句を置いている写本があります。「柔和な」の句はおそらくイエスの言葉が伝えられていく途中の段階で、「心の貧しい人々は」の句を説明するために挿入されたものでしょう。

  (3) 「貧しい人は幸いである」というと1つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉なのです(マタイは三人称になっていますが、同じように受け取ることができます)。イエスは、病人やその家族という、他に頼るところもなくイエスのもとに集まって来たボロボロの群集に向かって、「幸い」と語りかけたのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのか。それは「神の国はあなたがたのもの」だからです。「国」はギリシア語で「バシレイアbasileia」で、「王(バシレウスbasileus)であること、王となること」を意味します。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神が王となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」の言い換えです。これも同じことで、これこそがイエスの福音=よい知らせなのです。
 この言葉をわたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くこと、これが「幸い」の言葉を受け取るためのもっとも大切なヒントです。

  (4) 「心の貧しい」は明治以降の伝統的な日本語訳ですが、ほとんど誤訳と言わざるをえません。「心が貧しい」という日本語は「精神的貧困」を意味しますが、ここではそういう意味ではないからです。直訳は「霊に貧しい」で、「神の前に貧しい」という意味に受け取るのがよいと考えられます。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、物質的な面だけでなく、神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿を示そうとしているのです。なお、フランシスコ会訳聖書は「自分の貧しさを知る人」と訳し、新共同訳ができる前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人」と訳しています。どちらもかなり大胆な意訳ですが、参考になります。
 なお、ルカがただ「飢えている人」というところを、マタイは「義に飢え渇く人」と言います。ここでもマタイは神との関係を強調していると言えるでしょう。

  (5) マタイの後半の4つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。「八つの幸い」というマタイの形はもはや単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは具体的にどういうことかということをも示しているのです。そういう観点から「八つの幸い」全体が整えられていったと考えることができるでしょうし、「八つの幸い」全体を受け取ることは、わたしたちにとっても大切なことです。なお、ルカ福音書では別の発展がみられますが、今回は触れることができません(C年年間第6主日の「福音のヒント」参照)。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 ゼファニヤ2・3、3・12-13


2・3主を求めよ。
主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた
この地のすべての人々よ
恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。
主の怒りの日に
あるいは、身を守られるであろう。
3・12わたしはお前の中に
苦しめられ、卑しめられた民を残す。
彼らは主の名を避け所とする。
13イスラエルの残りの者は
不正を行わず、偽りを語らない。
その口に、欺く舌は見いだされない。
彼らは養われて憩い
彼らを脅かす者はない。


第二朗読 一コリント1・26-31


 26兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。


福音朗読 マタイ5・1-12a


 1〔そのとき、〕イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
 3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12a喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」


Posted on 2023/01/20 Fri. 08:30 [edit]

category: 2023年(主日A年)

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