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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

四旬節第1主日 (2023/2/26 マタイ4章1-11節)  


教会暦と聖書の流れ


 洗礼は、キリストの死と復活にあずかり、新たないのちに生き始めることを表す秘跡なので、古代の教会では復活祭に行われていました。また、復活祭に洗礼を受ける人の最終的な準備のための期間が徐々に形作られていきました。これが四旬節の起こりです。その後、次第に、四旬節はただ単に洗礼志願者のための季節というだけでなく、キリスト者全体がキリストの死と復活にふさわしくあずかるための期間になりました。
 「四旬節」という言葉は40日間を意味します。これはもともと断食の日数でした(伝統的に日曜日を除いて復活祭前の40日を数えるので、灰の水曜日からが四旬節となります)。四旬節には、断食に象徴される回心(主に立ち返ること)、もっと具体的に言えば「祈り、節制、愛の行い」が強く勧められています。
 この日の福音では、四旬節の原型である、イエスの荒れ野での40日の場面が読まれます。今年はマタイですが、先週までの年間主日の流れから離れて、もう一度、イエスの活動の出発点に立ち戻ります。ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされ、「神の子」として示されたイエスは、同じ聖霊によって荒れ野に導かれ、悪魔と対決しますが、その中で「イエスの神の子としての道」が明らかにされていくのです。


福音のヒント


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  (1) 「40」という数は聖書の中では、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。何よりもまず、紀元前13世紀、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に入るまでの「40年間の荒れ野の旅」が思い出されます。きょうの福音の箇所全体は、この40年の荒れ野の旅の体験をもとにしています。
 荒れ野は水や食べ物が欠乏している場所で、一般的に言えば生きるのに厳しい場所です。しかし、イスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。荒れ野は、ぎりぎりの生活の中で、神から与えられたわずかなものを、皆で分かち合って生きる場でした。約束の地に入り、定住して農耕生活を始めると、人は倉を建てて作物を貯えるようになります。すると、自分の貯えに頼り、神を忘れる危険が生じます。また、豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はさらに貧しくなる、ということも起こります。そこから振り返ったときに、あの荒れ野の中にこそ、神との生き生きとした交わりがあり、人と人とが分かち合い、助け合う生活があったことに気づくのです。

  (2) 「悪魔がイエスを誘惑する」というのは分かりにくいかもしれません。聖書の中で「悪」とは神から離れることであり、人間を神から引き離そうとする力の根源にあるものが、人格化されて「悪魔」と呼ばれるようになったのだと考えればよいでしょう。
 「石をパンにしてみろ」は物質的なものによって満たされようとする誘惑だと言えるでしょうか。「神殿の屋根から飛び降りよ」は自分の身の安全を確保しようとする誘惑だと言ってもよいでしょう。この言葉は、イエスが生涯の最後に十字架の上で受けた誘惑、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27章40節)によく似ています。「国と繁栄を与える」は、この世の富と権力を手に入れようとする誘惑でしょう。「サタン、引き下がれ」は受難を予告したイエスをとがめたペトロに向かって言われた言葉(マタイ16章23節)と同じです。ここでもイエスの受難の道との関連が暗示されています。これらの誘惑を退けることを通して、イエスの道とはどのような道であるかが示されるのです。
 ただし、モノや安全を手に入れようとすることのすべてが悪の誘惑とは言えないかもしれません。イエスは5つのパンでおおぜいの群集を満たし、多くの病人をいやしたと伝えられています。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全が必要です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味では、これらを悪と決め付けることはできません。問題は、神との関係を見失ってそれらを求めること、それらを求めるあまり、神との交わり、隣人との親しい交わりを失ってしまうことだと言ったらよいでしょうか。

  (3) 悪魔の誘惑に対するイエスの答えは、すべて申命記の引用です。申命記の中心部分は、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」という形を取っています(モーセ自身は約束の地に入ることなく、そこで世を去りました。申命記34章)。
 イエスの答え「人はパンだけでなく・・・」は申命記8章3節の引用です。荒れ野の旅の途中、イスラエルの民に与えられた「マナ」という不思議な食べ物について語る言葉です。マナが与えられたのは、人がマナによって生きることを教えるためでなく、神によって生きるものであることを教えるためであった、と言うのです。
 7節の「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6章16節の引用です。ここでは出エジプト記17章のマサ(メリバ)での出来事が思い起こされます。イスラエルの民が、荒れ野でのどが渇き、神とモーセに不平を言った場面です。
 10節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6章13節の引用です。これは、民が約束の地で定住生活を始め、家を建て、豊かな食物で満腹となり、周辺民族の他の神々に惹かれるようなことがあってはならない、という警告の中で語られる言葉です。

  (4) 四旬節の時を過ごす心構えは、ある意味で、自分を「荒れ野」に置いてみることだ、と言えるのではないでしょうか。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみるのです。生きるのに苦しい、ぎりぎりのところだからこそ、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟姉妹との連帯を思うことができる。四旬節に勧められている「祈り、節制、愛の行い」という回心の行為が目指していることは、すべてそういうことだとも言えます。このように考えると、「荒れ野」は遠くにではなく、実はわたしたちの身近なところにあるとも言えるのではないでしょうか。




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 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 創世記2・7-9、3・1-7


 

2・7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。8主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。9主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
 3・1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
 2女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 4蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
 6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。


第二朗読 ローマ5・12-19


 12〔皆さん、〕一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
 《13律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。14しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
 15しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。16この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。》
 17一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。18そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。19一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。


福音朗読 マタイ4・1-11


 1〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』
と書いてある。」11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


Posted on 2023/02/17 Fri. 08:30 [edit]

category: 2023年(主日A年)

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