福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
四旬節第2主日 (2023/3/5 マタイ17章1−9節) 
教会暦と聖書の流れ
古代からの伝統に従い、四旬節第2主日の福音では毎年「イエスの変容」の場面が読まれます。今年はマタイ福音書からです。山の上でイエスの姿が光り輝いた、この変容の出来事は、ただ単に「偶然ある時、イエスの栄光の姿が表された」のではなく、「イエスが受難と死をとおって受けることになる栄光の姿が前もって示された」という出来事です。ここには、「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節全体の根本的なテーマが示されているのです。
四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」とつながっています。
福音のヒント
(1) きょうの箇所のはじめ、マタイ17章1節には「六日の後」という言葉があります。朗読聖書では省かれていますが、この言葉は、直前の出来事との関連を感じさせる言葉です。この箇所の直前にあるのは、ペトロの信仰告白と最初の受難予告です。マタイ16章21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。変容の出来事は、この受難予告と密接につながっているのです。きょうの箇所の結びの「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」(マタイ17章9節)という言葉もそのことを暗示しています。上の16章21節が「言葉による受難予告」だとしたら、17章は「出来事による受難予告」と言ってもよいほどです。この出来事は、イエスが受難と死をとおって受ける栄光の姿を弟子たちに垣間(かいま)見させ、そのイエスに従うように弟子たちを励ますための出来事だったと言ったらよいでしょう。
モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の主要な部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとモーセ、エリヤが話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9章31節)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきをいっそう明確にしています。
(2) ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょうか。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだほんとうの栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。
雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう(宮崎アニメの『天空の城ラピュタ』のように)。聖書の中では、「雲」は目に見えない神がそこにいてくださるというしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40章34-38節参照)。
(3) 雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マタイ3章17節)。この言葉の背景にはイザヤ42章1節の「主の僕(しもべ)」についての言葉があると考えられます。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難の道を歩み始めますが、そのときに再び同じ声が聞こえます。この受難の道もまた、神の子、主の僕としての道であることが示されるのです。
そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18章15節など参照)。これは、受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16章24節)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。
受難の道を行くイエスに従っていくこと、これがきょうの福音の呼びかけです。しかし、実際には、この弟子たちはこれほど輝かしいイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。わたしたちはどうでしょうか。イエスについていけるという自信は誰にもないかもしれません。
(4) 「イエスが苦しみと死をとおって復活のいのちに移られたこと」を「主の過越(すぎこし)」と言います。ギリシア語やラテン語の「パスカpascha」という言葉は、ヘブライ語・アラム語から来た言葉ですが、今でもそのままよく使われています。もともとイスラエルの民のエジプト脱出の祝いが「過越祭(パスカ)」でしたが、イエスが十字架にかかって死に三日目に復活したのはこの過越祭のころ(春分の日の後の満月のころ)であり、イエスの死と復活を祝う新しい「過越祭(パスカ)」をキリスト者も祝うようになりました。
きょうの変容の出来事を「未来の栄光があるのだから今の苦しみに耐える」というだけではなく、「苦しみと死から喜びといのちに変えられていく歩み」という過越のイメージで捉えてみてはどうでしょうか。
隷属から自由へ。悲しみから喜びへ。絶望から希望へ。闇から光へ。死からいのちへ。
あるいはまた、孤立から連帯へ。疑いから信頼へ。憎しみから愛へ。
わたしたちの中にも、このような「過越」の体験があるのではないでしょうか。もしもわたしたちが、自分の人生の物語を「過越の物語」として受け取ることができたとするならば、そこに、イエスを死からいのちへと移してくださった神の力強い働きを感じることができるでしょう。そのときにわたしたちは、イエスのあとを歩み、イエスとともに歩んでいることになるのではないでしょうか。
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聖書朗読箇所
第一朗読 創世記12・1-4a
1〔その日、〕主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
2わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
3あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
4aアブラムは、主の言葉に従って旅立った。
第二朗読 二テモテ1・8b-10
8b〔愛する者よ、〕神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。9神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、10今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。
福音朗読 マタイ17・1-9
1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
Posted on 2023/02/24 Fri. 08:30 [edit]
category: 2023年(主日A年)
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