福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
復活の主日 復活徹夜祭(2023/4/9マタイ28章1-10節) 
教会暦と聖書の流れ
復活の主日のミサには「復活徹夜祭」と「日中のミサ」、さらに「夕刻のミサ」があります。古代ユダヤでは日没と共に新しい1日が始めることになっていましたが、イエスは死んで三日目、今で言えば土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に復活したと考えられ、古代から「主の復活=過越(すぎこし。パスカ)」の祝いは夜中に行われていました。光の祭儀や大人の洗礼・堅信を行って主の過越を祝う復活徹夜祭は、復活祭のメインのミサだと言えます。
ここで取り上げるマタイ福音書の箇所は徹夜祭のミサの中で読まれる箇所で、日中のミサでも読むことができます。なお、日中のミサの固有の箇所は毎年同じヨハネ20章1-9節、夕刻のミサの福音としてはルカ24章13-35節が読まれることになっています。
福音のヒント
(1) 前述のように古代ユダヤの一日の始まりは日没の時でしたから、「安息日」というのは今でいうと金曜日の日没から土曜日の日没までを指しています。土曜日の日没から始まる次の一日が「週の初めの日」でした。
マルコ福音書ではイエスの墓にいたのは「若者」ですが、マタイでは「地震」とともに「主の天使」が現れます。マタイはここに神の大きな働きがあり、ここで告げられる言葉はまさに神の言葉であることを明確に示そうとしています。
マルコでは女性たちが墓に着いたとき、すでに墓の入り口をふさいでいた石は取り除けてありましたから、その入り口を通って復活したイエスが墓から出て行ったかのような印象があります。しかし、マタイでは彼女たちが墓に行った瞬間に墓が開きます。マタイで墓の入り口が開かれるのは、イエスが墓を出て行くためではなく、女性の弟子たちに空の墓を見せるためだと言えるでしょう。イエスの「復活」とは、死んだ人が生き返ったというレベルの話ではなく、イエスが死に打ち勝ち、神の永遠のいのちを生きる方となったことを表す言葉です。復活のいのちとは、時間・空間の制約を越えたいのちなのです。その意味では、物理的に墓の入り口が開かれている必要も、イエスの遺体がなくなっている必要もないと言えます。これらの出来事は、復活そのものの証拠というよりも、イエスが復活したということを弟子たちに悟らせるためのしるしなのです。
(2) 「マグダラのマリアともう一人のマリア」はマタイ27章61節にも登場し、そこではイエスの埋葬を見守っていた女性でした。さらにその前の27章56節では十字架上で死を迎えたイエスを見守っていた女性たちの名として「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」の名前が挙げられています。男の弟子たちが逮捕されたイエスを見捨てて逃げ去ったのと対照的に、最後までイエスについていった女性の弟子たちの姿がここにはあります。ヨハネ20章の空(から)の墓の場面ではマグダラのマリア一人だけが登場しますが、マタイ、マルコ、ルカはこれらの場面すべてに複数の女弟子が立ち合っていたことを伝えています。一人の証言よりも複数の証人による証言のほうが確かだと考えられていたからでしょうか。あるいはここで、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18章20節)というイエスの約束を思い出すこともできるかもしれません。
さらに、きょうの箇所で「もう一人のマリア」と呼ばれているマリアをわたし自身のことだと考えてみると、福音の場面がもっと身近に感じられるようになるかもしれません。
(3) 福音書が伝える、復活したイエスに出会った弟子たちの物語は、2000年前に起こった一回限りの出来事というだけでなく、今もわたしたちの中で起こっている、わたしたちとイエス(目に見えないが、今も生きているイエス)との出会いの物語として読むことができます。
見張りをしていた人たちは地震と天使の出現に「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(4節)のですが、二人の女性も同様だったようです。天使は彼女たちに「恐れることはない」(5節)と語りかけますが、この命令形は現在していることを禁じる命令の形で、「恐れることをやめよ」という意味だからです。天使の言葉を聞いた女性たちは「恐れながらも大いに喜び」ました(8節)。この時点では「喜び」と「恐れ」が同居しています。彼女たちが本当に恐れから解放されるのはイエスに出会ったときです。イエスは「おはよう」と語りかけましたが、この言葉は直訳では「喜べ」です(一般的なあいさつの言葉でもあるので「おはよう」と訳されています)。さらにイエスは彼女たちに天使と同じ言葉で「恐れることはない」(10節)と言います。この出会いが、彼女たちを根本から変えるのです。
わたしたちの中にもさまざまなことに対する恐れがあるでしょう。時としてわたしたちは恐れに囚われて身動きできなくなっているかもしれません。「恐れ」から解放されて「喜び」に満たされていく体験、そして凍り付いていたわたしたちの心が動き始める体験、そういう体験が復活(=過越、パスカ)の体験だと言えるのではないでしょうか。
(4) きょうの箇所は確かに「出現(=死んで復活したイエスとの再会)」の物語を含んでいますが、天使もイエスご自身も、この後にもっと重要な出現が起こることを予告します。「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。マタイ福音書のクライマックスは16-20節のガリラヤの山での出現で、きょうの箇所はそこに向かう前段階に過ぎないとも言えます。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。マタイ福音書が伝えようとする復活のイエスは、復活の日の朝、女性の弟子たちに姿を現した方というよりも、目に見えないが永遠にわたしたちと共にいてくださるイエスなのです。
ところでガリラヤの山と言えば、マタイ福音書の中では5~7章の「山上の説教」も思い出されるのではないでしょうか。復活のイエスはきょうもわたしたちに「幸い」の福音を語りかけ、み言葉をもってわたしたちを導いてくださる方なのです。
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〈復活徹夜祭 旧約書の朗読は7つあるが、他の朗読は省略〉
第三朗読 出エジプト記14・15〜15・1a
14・15〔その日、追い迫るエジプト軍を見て、イスラエルの人々が非常に恐れたとき、〕主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。17しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。18わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
19イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、20エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。21モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。22イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。23エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。24朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。25戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
26主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」27モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。28水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。29イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。30主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。31イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
15・1モーセとイスラエルの民は主を賛美して歌をうたった。
使徒書の朗読 ローマ6・3−11
3〔皆さん、〕あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7死んだ者は、罪から解放されています。8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
福音朗読 マタイ28・1-10
1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
Posted on 2023/03/31 Fri. 08:30 [edit]
category: 2023年(主日A年)
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