福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第25主日(2017/9/24 マタイ20章1-16節)  


教会暦と聖書の流れ


 このぶどう園の労働者のたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるものです。この箇所の直前19章30節と結びの20章16節には、「先の者は後になり、後の者は先になる」という同じ言葉があり、これがこのたとえ話のテーマを示す枠のようになっています。


福音のヒント


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  (1) マタイ19章27節で、ペトロはイエスに向かってこう言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」。これに対してイエスは弟子たちに大きな報いを約束しますが、同時に語られるのが30節の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉です。そこから考えると、今日の福音のたとえ話は弟子たちの間の問題(最初からよく働いた弟子とそうでない弟子の話)に聞こえますし、マタイ福音書がそういう意味でこの話を伝えているのも事実でしょう。
 ただし、イエスがたとえ話を語った本来の状況は必ずしも福音書どおりとは言えません(A年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。本来は、ファリサイ派の人や律法学者に向けて語ったと考えることもできるでしょう。だとすれば「自分たちは神に忠実に生きてきた」と考えるファリサイ派は朝早くから働いた人で、イエスのメッセージを聞いて回心した徴税人や娼婦、病人や貧しい人が最後の一時間しか働かなかった人ということになります。

  (2) 多くの人はこのたとえ話を読むと、主人のやり方は不正だ、と感じるのではないでしょうか。残業手当のつかない長時間労働や不当な賃金格差というような問題がこの社会にはありますが、労働に対してはそれに見合う正当な賃金が支払われるべきです。その観点からすれば、この主人のやり方は確かに不当だと言わざるをえないでしょう。
 しかし、現実の社会の中にもそれとは違う面もあります。たとえば、企業の都合で正社員が減らされ、非正規雇用が増えているというような現実。その中で短時間しか働けず、低賃金に甘んじている人も大勢います。いろいろな事情でまったく仕事のない人もいます。「だれも雇ってくれないのです」(7節)という叫びは、わたしたちの身近にもあるのではないでしょうか。マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」という人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさに「福音=良い知らせ」そのものです。「1デナリオン」は当時の1日の日当であると言われますが、それは同時に「人が1日生きていくために必要なもの」だとも言えます。この主人は、1時間しか働かなかった人にも「同じように払ってやりたい」というのです。神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださる方だからです。

  (3) 夕方になって賃金を支払う際、主人は最後の人から順番に賃金を渡すようにします。これは19章30節、20章16節の「後の者は先に」という「枠」のような言葉に対応しますが、「先」「後」という順序が本当の問題ではなく、もらう額のほうがもちろん本当は問題であるはずです。
 ただ、このたとえ話では、朝早くから働いた人が他の人に1デナリオンずつ渡されるのを見ていたことが話の展開上、重要になっています。もし朝から働いた人が先に賃金をもらえば、彼らは初めから1日1デナリオンの約束だったのですから、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリオンもらったのを知ってしまいました。そこで自分たちは当然もっと多くもらえるだろうという期待を抱くことになり、不平を抱くようになったのです。
 主人は、最初からずっと自分のために働いたこの人々に何かを伝えたいがために、わざとこのようにしたのだとも言えるでしょう。実際、イエスはファリサイ派であれ、自分に忠実な弟子たちであれ、「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったはずです。一生懸命働いてきたことが問題であるはずはありません。ただ「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という主人(神)の心を分かってほしい、と語りかけているのではないでしょうか。
 ルカ15章の放蕩息子のたとえで、父親が帰ってきた弟息子のために宴会を催したのを見て、兄のほうが不平を言ったとき、その兄息子に向かって父が言う言葉も良く似ています。

  (4) 「神は人の働きに応じて報いを与える」という考え方(応報思想)をイエスは100%否定してはいません。しかし、きょうのたとえ話のように「神はどんな人にも必要な恵みを与えてくださる」ということをイエスが強調しているのも事実です。そのことを表す典型的な言葉は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)でしょう。当時の人々が常識的に持っていた応報思想の問題点をイエスは見抜いていました。第一の問題は、人間の働きばかりに目が行ってしまい、人を生かす神の大きな愛を見失うことです。もう一つの問題は、人と人との比較にばかり目が行ってしまい、人をさげすんだり、逆に人に嫉妬する世界に落ち込む、ということです。きょうの箇所で朝早くから働いた人の陥った問題はまさにこれでした。
 わたしたちは、「人と人とを比較することはあたりまえ」「競争原理はよいことだ」という社会に生きています。そして、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしています。逆に、ある場合は「自分は(人に比べて)何もできないからダメだ」と落ち込んでしまうこともあります。きょうの福音は、そういうところからわたしたちを解放し、もっと豊かな生き方へとわたしたちを招いているのではないでしょうか。




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Posted on 2017/09/15 Fri. 08:30 [edit]

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年間第24主日 (2017/9/17 マタイ18章21-35節)  


教会暦と聖書の流れ


  マタイ18章には教会共同体についての教えがまとめられていますが、きょうの箇所はその結びの箇所です。このたとえ話は、主の祈りの中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という祈りの解説のようなたとえ話だと言えます。


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  (1) 「7」という数は「完全さ」を表す数だと言われます。「7の70倍」は「490回まで」という意味ではなく「無限に」という意味です。1タラントンは1デナリオン(1日の日当)の6000倍にあたると言われます。つまり、この家来の主人に対する負債(1万タラントン)は、自分が仲間に貸したお金(100デナリオン)の60万倍ということになります。非常識な額ですが、これは神のゆるしのはかりしれない大きさを表わしています。なお、イエスはペトロに対して無限のゆるしを求めていますが、たとえ話の中では1回しかゆるされません。21-22節と23節以下は本来別の伝承だったのでしょう。
 ここで「主君」と訳されている言葉はギリシア語では「キュリオスkyrios」で、普通は「主・主人」と訳される言葉です。「家来」のほうは「ドゥーロスdulos」で、普通は「奴隷・しもべ」と訳されます。この主君と家来の関係が、神と人との関係のたとえであることは明白です。たとえ話の内容そのものも特別な説明を必要としないでしょう。

  (2)  23節からのたとえでは罪のゆるしが「借金の帳消し、負債の免除」のイメージで語られています。主の祈りの中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」(聖公会・カトリック共通訳)も、新共同訳聖書では「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイ6章12節)となっています。この「負い目」は「負債」を意味する言葉です。ルカ7章41-42節にはこういうたとえもあります。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」 これも明らかに罪のゆるしのたとえです。人は確かに罪を「負債」のように感じることがあります。だから何とか返済(埋め合わせ)しなければと思いますが、実は「罪」という借金を返済することはできません。また、罪を犯したという事実は永遠に消えることがないのです
 それでも神はゆるすのです。なかったこと(帳消し)にしてしまうというのです。なぜでしょうか。ルカ7章のたとえでは「返す金がなかったので」借金を帳消しにしたとあります。マタイ18章でも返すことのできない家来を「主君は憐れに思って」ゆるします。

  (3) 罪を犯した人間というのは、いわば「借金で首が回らない状態」です。どうにも行き詰まってしまい、生きることができなくなった人間を、それでも生かそうとすること、これが借金の免除のたとえで語られる罪のゆるしです。現実の社会の中にある「倒産しそうな会社のための債権放棄」や「過大な債務に苦しむ貧しい国のための債務帳消し」も、同じように「その企業や国を生き残らせるため」というのがその理由です。神は人間が罪のために滅んでしまうのが惜しいのです。「あわれに思って」はギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai」で、目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられるという、深い共感compassionを表す言葉です(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。なぜ神が人の罪をゆるすのか、その答えはここにあります。
罪のゆるしが「借金の帳消し、負債の免除」のたとえで語られる理由はおそらく、ゆるしが相手を生かすことであることと、ゆるされる喜びの大きさを強調するためでしょう。

  (4) 「どうしてもあの人だけはゆるせない」「ゆるしてはいけないことだってあるはずだ」という思いを抱くことがわたしたちにはあります。悪いことをした人が反省も謝罪もせず、のうのうと生きているように感じるとき、特に強くそう感じるでしょう。これは当然のことです。きょうのたとえで「ゆるし」とは一方的に借金を帳消しにしてやるという以前に、その人の罪の痛みへの共感から相手を生かそうとすることでした。そして、ゆるされた人が仲間をゆるさなかったのは、彼がゆるされた事実だけを受け取り、ゆるしてくれた主君の心を受け取らなかったからだとも言えるでしょう。「どうしてもゆるせない」という現実の中で、それでも神のゆるしの心を受け取って生きようとするとき、わたしたちにできることは何でしょうか。

  (5) 「主の祈り」(マタイ6章9-13節)の聖公会・カトリック共通訳では「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」となっていますが、上で見た新共同訳の「赦しました」はギリシア語の完了形の訳、「ように」は「ホースhos」という接続詞の訳で、新共同訳のほうが直訳といえます。この祈りは2つの意味で受け取ることができます。「わたしたちはもう人の罪をゆるしていますから、わたしたちの罪をゆるしてください」が一つ。もう一つは「わたしたちの罪をゆるしてください。そうすればわたしたちも人をゆるしますから」(ルカ11章4節参照)です。聖公会・カトリック共通訳は、両方の意味をどちらも排除しないために、あえて前半と後半をつなぐ接続詞「ホース(ように)」を訳さず、「わたしたちも」の「も」によって前半との結びつきを示そうとしているようです(結果的に「わたしたちも人をゆるします」が独立した文章になって宣言のように聞こえてしまう、という批判もありますが)。
 実際にはきょうの福音のたとえ話のように、①先に神のゆるしがあり、②だから人は人をゆるすべきであり、③人が人をゆるさなければ神のゆるしは無意味になってしまう、ということでしょう。わたしたちはどのような思いで、この祈りを唱えているでしょうか。




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Posted on 2017/09/08 Fri. 09:46 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第23主日 (2017/9/10 マタイ18章15-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 マタイ福音書18章は教会共同体のあり方についての教えを集めた箇所だと考えることができます。子どもを受け入れること(1-5節)、小さい者をつまずかせないこと(6-9節)。一貫して問われているのは、共同体の中にいる弱いメンバーに対する配慮を欠かさないということです。きょうの箇所は迷い出た羊のたとえ(10-14節)に続いて語られますが、罪を犯した兄弟も「小さな者」であり、滅びてはならない「一匹の羊」なのです。


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  (1) イエスは「教会」についての教えを語ったのでしょうか。むしろ、マタイが自分たちの教会のあり方を考えるために、伝えられてきたイエスの言葉を(多少、加筆修正しながら)ここに集めたのだと考えるほうがよいのでしょう。
 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と言いますが、具体的にどういう罪が問題になっているかは分かりません。「兄弟姉妹である」とは「同じ父(である神)の子である」ということです。「罪」とはその関係を傷つけるような言動でしょう。しかし、それでもその兄弟姉妹を失わないこと、兄弟姉妹を再び兄弟姉妹として取り戻すこと、これがここでのテーマだと言えます。そしてそこにこそイエスの心があるとマタイは伝えたいのです。

  (2) 「忠告」(15節)というのは難しいことです。忠告されることは誰にとってもイヤなことでしょう。忠告することによって、かえってその人が頑なになったり、忠告したがために恨みを買うことだってあるでしょう。それでも「忠告しなさい」と言われます。イエスは「面と向き合うこと」を求めているのではないでしょうか。陰でいくら文句を言っていても事態は何も変わらないからです。
 「ほかに一人か二人、一緒に連れて行く」(16節)「教会に申し出る」(17節)。これは一人で解決できなければ自分たちみんなで解決する、ということです。誰か外の人に解決してもらうのではなく、自分たちの中で解決を図るように、という意味にも受け取れます。
 「異邦人や徴税人」(17節)は、当時のユダヤ人社会の言葉遣いで、神の民から排除された人を指します。しかし、徴税人や異邦人に対するイエスの態度から考えれば、イエス自身が弟子たちに語った言葉とは考えにくいでしょう。これはむしろ、ユダヤ人キリスト者からなる共同体であったマタイの教会特有の言い回しのようでもあります。とにかく、ここではどういう場合には「異邦人や徴税人」扱いせよ、ということではなく、「いかに切り捨てないようにぎりぎりまで努力するか」ということにポイントがあります。
 わたしたちの教会の中にもいろいろな問題があります。教会の中で人と人とが(兄弟姉妹同士が)傷つけ合うのは、実に悲しいことです。そういう現実を抱えたわたしたちに、きょうの福音はどんな光を投げかけてくれるでしょうか。

  (3) 18節の「つなぐ、とく」は、マタイ16章19節では、ペトロに与えられた使命でしたが、ここではもっと広く、すべての弟子に与えられています。これは、「つなぐ」も「とく」も弟子たちが自分で勝手に判断してよい、ということではなく、「弟子たちが天を閉ざしてしまえば、それは決定的なことになってしまうのだから、互いにゆるし合って、兄弟姉妹として受け入れ合うための最大限の努力をすべきだ」ということでしょう。そのためには、単なる人間的な努力だけでは無理であり、だからこそ祈りの中でイエスの心に近づくことが必要だとも言えるのではないでしょうか。そういう意味で、次節の祈りのテーマとつながっていくと考えることができます。

  (4) 19節の「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」は本当に大きな約束です。わたしたちは自分の部屋に隠れて一人で祈ることもありますが、同時に誰かと一緒に祈ろうともします。それはこのイエスの約束に信頼するからです。20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」には、原文では「ガルgar(=なぜなら)」という接続詞がありますから、これは実は19節の理由です。弟子たちの祈りがかなえられるのは「イエスがともにいるから」なのです。「わたしの名によって集まる」の「名」は単なる呼び名ではなく、そのものの本質を表します。「イエスのうちに一つに結ばれて」と理解すればよいでしょうか。
 祈りは、自分の願いを神にぶつけるだけではありません。むしろ、自分の願いを超えた神の思いを受け取ることです。二人、三人で一緒に祈ろうとするとき、自分のエゴを超えることが必要になります。さらに、二人、三人が自分のエゴを超えて一緒に祈ろうとする中でキリストの心に近づいていく、ということもあるのではないでしょうか?
 
  (5) 「アヴェ・マリアAve Maria」の祈りについて考えてみてもよいかもしれません。この祈りの中で願っていることは、「聖マリア、わたしたちのためにお祈りください」ということです。マリアに祈りを頼むわたしたちはマリア様だけに祈らせておいて自分は祈らない、というのではありません。これはわたしたちがマリアとともに祈る祈りなのです。たった一人で祈っていても、小さなグループで祈っていても、そこにはマリアが代表する教会全体とのつながりがあることを思い浮かべたらよいでしょう。そしてわたしたちの祈りはマリアの「フィアット」(fiatはルカ1章38節「お言葉どおり、この身になりますように」の「なりますように」にあたるラテン語)に結ばれていくのです。たとえ遠く離れたところにいても、祈りは時間と空間を越えてわたしたち同士を結びつけます。また、わたしたちをイエスやマリアの祈りと結びつけます。そう感じられたらどれほど力づけられることでしょうか。
 祈りとその効果(?)の関係は、物理法則のようにはいきません。このように祈ればこのような結果が自動的に生じるというものではないのです。しかし、わたしたち一人一人の祈りの体験を分かち合えたら、そこに豊かな祈りの力を感じることができるでしょう。




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Posted on 2017/09/01 Fri. 10:13 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第22主日 (2017/9/3 マタイ16章21-27節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週のペトロの信仰告白に続く、いわゆる「受難予告」の場面です。先週の箇所で、信仰告白をしたペトロはイエスから祝福され、特別な使命を与えられていましたから、今日の箇所で同じペトロがすぐに厳しく叱責されてしまうのは不自然に感じられるかもしれません。これはマルコ福音書8章の「ペトロの信仰告白、メシアであることの口止め、受難予告」という流れの途中に、マタイがペトロへの祝福と特別な使命授与という別の伝承(16章17-19節)を挿入したためだと考えられます。


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  (1) 「受難予告」ということを特別な未来予知能力によるものと考える必要はありません。イエスの活動は貧しい人や病人に大きな希望と励ましを与えましたが、逆にファリサイ派の人や律法学者には歓迎されませんでした。律法を基準にして人間をランク付けする考えに対して、イエスはすべての人を例外なく神の子であると見て大切にしました。そのことは、律法の基準の上で社会的にも宗教的にも優位を保っていた人々(エリートや指導者たち)には自分たちの地位を脅かすものと感じられたのです。その人々からの反感と敵意が迫ってきているのをイエスは感じておられたはずです。さらに旧約時代の預言者たちの苦難や洗礼者ヨハネの殉教を考えれば、イエスがこのまま活動を続ければ迫害と死は避けられないと感じたとしても不思議ではありません。
 それでも、イエスは自分の身を守るために、これまでの歩みを変えるということはありませんでした。最後まで、すべての人の父である神への信頼と神の子であるすべての人への愛を貫くのです。「たとえ受難と死が待ち受けていたとしても、この道を行く」、十字架に向かうイエスの決断とはこういうものだったと言えるでしょう。

  (2) 「受難予告」の中には、復活の予告も含まれています。「復活」という考えは旧約聖書の中で、ダニエル書12章やマカバイ記 二 7章(第二正典)に特に明白に現れています。どちらも背景には、紀元前2世紀、セレウコス朝シリア(ヘレニズム王朝)の王アンティオコス4世エピファネスのユダヤ人に対する宗教迫害があります。神に忠実であろうとすればするほどこの世で苦しみを受ける、という現実の中で、神が死を越えて従う者に救いを与えてくださる、と確信するのが復活の信仰です。イエスもまた、あの時代のユダヤ人としてこのような確信を抱いていたのは、当然のことだともと言えるでしょう。
 「必ず・・・ことになっている」はギリシア語の「デイdei」という非人称動詞の訳です。これは必然的に起こることを表すだけでなく、それが神の定めたこと(神の計画)だということを表す言葉です。イエスはこの受難・死・復活に神の計画を見ていたはずです。

  (3)  弟子たちはイエスの受難予告を理解できませんでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」というペトロの言葉は、イエスの身を案じての言葉だったのでしょう。あるいは弟子たちは、当時のほかの人々同様、地上で栄光に輝き、勝利を収めるメシア像しか受け入れられなかったのでしょう。イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で語られた「退け、サタン」(マタイ4章10節)を思わせるような厳しい言い方です。サタンとは人を神から引き離す力のシンボルです。「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」! 今もわたしたちを神から引き離そうとする力が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。

  (4) 受難予告の後、イエスはご自分の受難と復活の道に従うよう、弟子たちを招きます。「自分を捨てる」「自分の十字架を背負う」(24節)とはどういうことでしょうか。十字架刑に処せられる死刑囚は見せしめのために十字架の木をかついで街中を歩かされました。そこから考えると「十字架を背負う」は「苦しみや死」よりも「辱めを受ける」という意味が強いのかもしれません。いずれにせよ、わたしたちにとってそれは何を意味するのか、少しでもこのイエスの言葉に通じる経験を自分の中に探してみて、それを分かち合ってみてはどうでしょう。――我が子や愛する人のために自分を捨てるということはわたしたちの身近にもあることではないでしょうか。避けることのできない自分の苦しみを、ある時、十字架だと受け止めることができて、だからそれを耐え、乗り越えることができたというような体験もあるかもしれません。

  (5) 25節で「命」という言葉は二通りの意味で使われています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」では「この世の命」と「永遠の命」が対比されています。永遠の命を強調することには、時としてこの世の命を軽視する危険があるかもしれません。「自爆テロ」というのはその最たるものでしょう。「神のため」ということを理由にして、人間の命(他人の命も、自分の命も)を犠牲にしてもよいという考えにわたしたちは絶対に賛成できません。しかし今日の箇所で、この世の命を大切にしながらも、それ以上に大切にすべきものがあると教えていることも確かです。
 25、26節の「永遠の命を得る・失う」というテーマとの関係で、27、28節では世の終わり(終末)についての言葉が伝えられています。イエスも初代教会のキリスト信者も世の終わりがすぐに来る(人の子が現れて世の救いが完成される)という期待を持っていたようです。わたしたちの時代はそれから2000年も経とうとしています。わたしたちにとっては「それがいつか」という時間的なことは問題になりません。むしろ、
 (a) それでもいつか最終的に神の救いが完成する、という希望を持って生きること
 (b) 最終的な神の判断(裁き)を信じながら、今、目先の利害に振り回されず、神に対する信頼と人に対する愛を貫いて生きること
 これがわたしたちのテーマではないでしょうか。それはまた、十字架に向かって歩むイエスご自身の歩みのテーマでもあったと言えるでしょう。




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Posted on 2017/08/25 Fri. 08:30 [edit]

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年間第21主日 (2017/8/27 マタイ16章13-20節)  


教会暦と聖書の流れ


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 先週の「カナンの女」の話(15章21-28節)から少し飛んで、いわゆる「ペトロの信仰告白」の場面になります。多くの病人をいやし、わずかな食物でおおぜいの人々を満たしたイエスの活動(15章29-39節)はファリサイ派やサドカイ派の人々には受け入れられませんでした(16章1-12節)。これに対して、これまでずっとイエスに従ってきた弟子たちを代表して、シモン・ペトロがイエスについての理解をはっきりと表明することになります。


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  (1) 「フィリポ・カイサリア」はガリラヤ湖に流れ込むダン川の源流の地(ガリラヤ湖から北へ約40キロメートルの場所)です。「カイサリア」は「ローマ皇帝(カエサル)の町」を意味しますが、地中海沿岸の町カイサリアと区別するために「フィリポ・カイサリア」と呼ばれていました。ここには異教の神々の神殿がありました。マタイはこの地でのペトロの信仰告白を、自分たちの教会が他のさまざまな宗教(ユダヤ教やローマの宗教など)に取り囲まれている中で、キリストへの信仰を宣言していることと重ね合わせているのかもしれません。

  (2) 14節ではイエスについての人々のうわさが伝えられています。「洗礼者ヨハネ」はすでに処刑されていました(マタイ14章参照)。「エリヤ」は紀元前9世紀の北イスラエルの預言者ですが、神の決定的な裁きの前に神から遣わされると考えられていた人物です(マラキ3章23節参照)。「エレミヤ」は紀元前7~6世紀の南ユダの預言者ですが、同じように世の終わりに再び現れると考えられていたようです。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いは、他人の考えではなく、実際にイエスに出会い、イエスのそばにいて、イエスの言葉と行動に触れてきたあなたがたはどう思うのか? ということでしょう。「教会で教えられたから」とか「キリスト教の本で読んだから」というレベルではなく、わたしたちもそれぞれ「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われることがあるのではないでしょうか。わたしたちは、自分自身の言葉として何と答えることができるでしょうか。

  (3) ペトロの答えは「あなたはメシア、生ける神の子です」というものでした。「メシア」は、ギリシア語原文では「クリストスchristos(=キリスト)」です。新共同訳聖書は「クリストス」がイエスを指す固有名詞のように使われている場合は「キリスト」、称号として使われている場合は「メシア」と訳し分けています。本来の意味は「油注がれた者」でしたが、新約聖書では神が決定的に遣わされる救い主を指す言葉です。なお、「神は生きておられる」ということは旧約聖書で繰り返し強調されていたことです。
 ペトロのこの言葉はもちろん正解です。しかし、マルコ8章30節(平行箇所)では、イエスはペトロの答えを聞いた後、わざわざ「ご自分のことを誰にも話さないように」と命じています。マルコは、この時点でのペトロの理解は不十分で、受難と死を通して「イエスがキリストである」ということの本当の意味が理解される、と言いたいようです。また、「イエスは神の子キリストです」と口で言うだけではなく、そのイエスに希望と信頼を置き、イエスとともに歩み続けることこそが大切だとも言えるでしょう。ペトロは結局、最後までイエスについていくことができませんでしたから、その意味でもペトロのこの信仰告白は不十分だったと言わざるをえないのかもしれません。

  (4) 一方、マタイ福音書ではイエスへの信仰を告白したペトロが祝福されています。17節からの言葉はマタイ福音書だけが伝えるものですが、これらの言葉は、アラム語(イエスが話していた言語)の伝承にさかのぼると言われます。「バルヨナ」はアラム語で「ヨナの子」の意味です。「人間」と訳されたことばは直訳では「血肉」で、これもアラム語的な表現です。18節の「ペトロ」はアラム語の「ケファ」(「岩」の意味)をギリシア語に訳した名前です。ただし、これらの言葉すべてをイエスご自身のものとは言い切れない面もあります。「教会」という言葉は福音書にはほとんど出てきません(この箇所とマタイ18章だけ)。これは復活後の状況の中での言葉ではないでしょうか。ただし「ケファ」という呼び名自体はイエスご自身が付けたものであり、イエスご自身がシモン・ペトロに土台としての役割を与えたということは確かでしょう。
 ここで「教会を建てる」というとき、建物のイメージがあります。続く「陰府の力」も直訳では「陰府の門」ですし、それとの関連で「鍵」という言葉も出てくるようです。死者が閉じ込められる場所が陰府で、その門を開けて死者を生き返らせることは神以外のだれにもできないと考えられていました。19節の「天の国の鍵」は天の国にも門があり鍵がある、というイメージでしょう(なお、鍵は複数形です)。ペトロの役割は、単なる門番ではなく、天の国の管理を任されるという大きな役割です。「つなぐ」「解く」という言葉には、ラビ(律法教師)としての判断・判決を表す表現が背景にあるとも言われています。

  (5) ところで、マタイ23章13節には、次のようなイエスの言葉があります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。教会に与えられた任務はその正反対で、いかにすべての人に対して天の国の門を開くか、ということです。
 「天の国」はマタイ的な言い方で「神の国」と同じ意味です。イエスのメッセージの中心はこの神の国の到来でした。神の国とは、神の愛がすべてにおいてすべてとなった状態、人が神との親しいつながりを取り戻すこと、それゆえ人が神の(永遠の)いのちにあずかる者となること。さまざまな表現が可能ですが、この神の国には、イエスと共にもうすでに始まっているという面と、まだ完全には実現していないという面があります。
 教会は天の国そのものではありません。しかし、この箇所では教会(ペトロ)に天の国の管理がゆだねられています。それは「権限」というより「使命」と言ったほうがよいのではないでしょうか。わたしたちの教会が本当に神の国の門を開き、人々をそこに招いているかどうかが問われています。




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Posted on 2017/08/18 Fri. 08:30 [edit]

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