福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第16主日 (2017/7/23 マタイ13章24-43節)  


教会暦と聖書の流れ


 マタイ福音書13章には天の国(=神の国)のたとえが集められています。きょうの箇所は、先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所ですが、ここでもイエスは、終末(=世の終わり)における神の国の完成よりも、今すでに始まっている神の国の現実に目を向けさせていると考えてよいのではないでしょうか。


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  (1) 「毒麦」のたとえはマタイ福音書だけが伝えるものです。先週の「種を蒔く人」のたとえ(3-9,18-23節)同様、「毒麦」のたとえにも、たとえ話自体(24-30節)とたとえ話の説明部分(36-43節)があります。説明部分では終末の裁きのありさまが語られています。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国(みくに)の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」(37-40節)。この説明によれば、このたとえ話は、最終的に神が毒麦(=罪びと)を裁くということを教える話だということになります。それがこのたとえ話の本来のメッセージでしょうか。むしろ、「種を蒔く人」のたとえ同様、この説明の部分は後の時代の解釈と考えたほうがよいのではないでしょうか。

  (2) たとえ話だけを見ると、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(30節)という主人の言葉が中心だと考える可能性もありそうです。つまり、「世の終わりに裁きがある」ということよりも「今は裁かない」ということがポイントかもしれないのです。「説明部分」が整っていくうちに、それが「たとえ話本体」に影響を与え、敵の存在などの要素が後から加わっていったとも考えられます。そういう部分を差し引くと、本来は「良い麦と毒麦が混じって生えてきたが、主人は『両方とも育つままにしておきなさい』と言った」という単純なたとえ話だったのかもしれません。
 だとすると、このたとえ話もイエスへの批判に答えるものだったと言えそうです(先週の『福音のヒント』参照)。その批判とは「なぜあなたは罪びと(=毒麦のような人)を神の国の共同体に招いているのか(あるいは、弟子にしておくのか)」というような批判です。イエスはそのことを良しとしたからです。なぜ毒麦を抜かないのか、その理由は「本当に毒麦か良い麦か、今は分からない」ということです。また、最終的な裁きのときにそれが明らかになるということには、「人間の目から毒麦と見えても、神の見方は違う」ということも含まれているでしょう。さらに、植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、「毒麦」が「罪びとのレッテルを貼られていた人」の意味ならば、「毒麦が良い麦に変わる可能性」だってありえます。単なる寛容の教えではなく、ここに、誰をも切り捨てることのない神の国のあり方、イエスご自身の生きた姿を感じたらよいでしょう。

  (3) わたしたちの周りには確かに多くの悪が存在します。「悪(=毒麦)は排除すればよい。犯罪は厳しく取り締まり、悪人を社会から抹殺すればよい社会が来るはずだ」という考えがあります。教会の中でも「罪びとをすべて排除すれば聖なる教会ができるはずだ」という誘惑があるかもしれません。しかし、本当はそうではないし、そうであってはならないことを「毒麦」のたとえは語っているのではないでしょうか。どうしたら人間や人間の集団が本当の意味でよくなることができるのか、その答えをいつもイエスの生き方とメッセージの中に探していきたいものです。

  (4) 「からし種」のたとえはマルコ3章30-32節、ルカ13章18-19節と共通していますが、「パン種」のたとえはマルコにはなく、ルカ13章20-21節だけと共通しています。
 「からし種」は直径1~2ミリの小さな種で、明らかに小さなもののたとえです。この植物は成長すると高さが3~4メートルになると言われています。このたとえ話は、神の国が初めは小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものになる、ということを表しています。ここにもイエスに対する批判や疑問を想定してみるとよいかもしれません。当時の人々にとって、天の国(神の国)というメッセージは、神が王となり、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれるというようなメッセージに聞こえました。そういう政治的・軍事的な勝利を期待していた人々から見れば、イエスの周りに集まった人々の集団はみすぼらしく、神の国からは程遠いと感じられたのではないでしょうか。しかし、イエスは、この小さな現実の中に神の国の確かな芽生えを見ているのです。
 「パン種」についても同じようなことが言えるでしょう。しかし、ここでは「パン種」自体が大きくなるのではなく、パン種によって「全体」が大きくなるのですから、「この小さな、弱々しく見える人々の集いが社会全体を神の国に変えていく」という意味に受け取ることもできるでしょう。神の国の成長は人間の力で実現するものではありません。イエスは、人間的な目で見れば「ちっぽけな、取るに足らない現実」でしかないものを「神の国の芽生え」と見て、それを成長させてくださる神への信頼を求めているのです。

  (5) イエスのたとえ話は、わたしたちが目の前の現実を見る見方を変えます。自然災害や大事故の前では、人間の無力さばかりを感じることがあるかもしれません。戦争やテロの現実の前では、平和を願う祈りはあまりにも弱々しく感じられるかもしれません。人と人との関係を引き裂いていく大きな力や不気味な暴力の前では、それでも愛し続けようというわたしたちの努力がむなしく感じられてしまうかもしれません。しかし、その善意と努力を「からし種」や「パン種」と見たときに、この現実も決して捨てたものじゃない、と受け取ることができるのではないでしょうか。
 今の時代、人間の力に頼ろうとする傾向は特に強いかもしれません。科学技術、経済力、軍事力、そういったもので物事を解決しようとする考えが確かにあります。しかし、人間の力ではなく、神の力で神の国は成長していく、そこに信頼と希望をおくときに、わたしたちの日々の小さな努力が支えられているのを感じることができるのではないでしょうか。




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Posted on 2017/07/14 Fri. 07:51 [edit]

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年間第15主日 (2017/7/16 マタイ13章1-23節)  


教会暦と聖書の流れ


  先週の福音の箇所はマタイ11章の結びでした。マタイ12章は主日のミサの朗読配分では省略されていますが、そこには、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスの活動と、それに対するさまざまな反応が伝えられています。イエスのメッセージが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(神の国)は力強く成長している、ということを語るのがきょうの13章のたとえ話集だと言えるかもしれません。


福音のヒント


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  (1) 人がたとえ話を用いて話すのは、ふつうは話を理解しやすくするためでしょう。しかし、イザヤ6章9-10節を引用しながらたとえで語る理由を述べるマタイ13章11-17節は、イエスのたとえがたとえだけでは理解できず、その意味を理解するには特別な説明が必要であるということを前提にしているようです。そんなことがありえるのでしょうか。ヨアヒム・エレミアス(1900-1979)という学者によれば、「たとえ」の元にあるアラム語の「マトラー」には「たとえ」と同時に「謎」の意味もあり、11-15節のイエスの言葉は本来、イエスの「たとえ話」についての言葉ではなく、「イエスの教え全体が受け入れない人にとって謎になってしまう」ということを表す言葉だったようです。なお、今回の「福音のヒント」はエレミアスの『イエスの譬え』(新教出版社・絶版)を参考にして、話を進めていきます。

  (2) イエスのたとえ話についてのエレミアスの考えはおおよそ次のようなことです。
A. イエスのたとえ話は本来イエスが語った状況の中では聞いている人に良く分かる話だった。しかし、状況から切り離されて「たとえ話」だけが伝えられると、本来の意味が分かりにくくなってしまった。
B. 本来の状況ではイエスのたとえ話のほとんどすべては「福音の弁明」であった。つまり、イエスの言動に対して疑問や批判が投げかけられたときに、イエスがご自分のメッセージと行動を説明するためにたとえ話を用いた。
C. しかし、初代教会の中で、イエスのたとえ話は弟子たちへの教訓として受け取られるようになった。そのため、批判者だったはずのたとえ話の本来の聴衆が、一般的な群集や弟子たちに変えられてしまった。それはキリスト者たちがいつもイエスの言葉を今の自分たちにとって指針となる言葉として受け取ろうとしたためである。そして、たとえ話には新たな状況と新たな解釈が付け加えられるようになっていった。

  (3) ルカ15章1-7節にある「見失った羊」のたとえは、イエスが罪びとと一緒に食事をしたことを非難されたとき、その批判に答えるためにイエスが話したたとえ話です(上のBの典型、Cの例外ということになります)。このたとえ話のメッセージは明白です。「神はこの迷子の1匹を探し続ける羊飼いのような方だ。だからわたしも罪びとを招き、一緒に食事をしているのだ」。しかし、同じたとえ話を伝えるマタイ18章10-14節は「小さな者を軽んじないように」という弟子たちに向けての教訓としてこのたとえ話を伝えています(これがCの典型です)。

  (4) エレミアスのように考えるとすると、マタイ13章、マルコ4章、ルカ8章に共通して伝えられている「種まきのたとえ話の説明」(マタイでは13章19-23節)は初代教会の人々が付け加えた部分だと考えることもできるでしょう。そこで、3-9節のたとえ話だけを考えてみます。
 まず不思議に思うのは、この農夫のやり方です。日本の農民なら決してこんな種の蒔き方をしないでしょう。畑をきちんと耕して「良い土地」にしてから、種が無駄にならないように、注意深く蒔くに決まっているのです。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが普通のやり方でしょう。
 パレスチナの農民はそうではなかったそうです。耕す前に、土地一面に種を蒔いてしまい、その土地を掘り起こすように耕していきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題にはならないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからだそうです。確かにこのような種まきは一見、無駄の多いやり方です。しかし、このように蒔くことによって最終的には豊かな実りがもたらされるのです。
 だとすると、本来のこのたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、希望を持って、忍耐して種蒔く人のほうにあると言えるのではないでしょうか。

  (5) さて、たとえ話を福音書の文脈から切り離して、本来の状況を考えることはできるでしょうか。ここから先は想像の域を出ないかもしれません。しかし、たとえばイエスの活動の仕方に疑問が呈されたときのことだと考えてみてはどうでしょうか。「神の国と大げさなことを言っても、あなたの周りに集まってきたのは、無学で貧しい人ばかりではないか。病人や障害者ばかりを相手にしていても無駄ではないか。なぜあなたは、もっと効率的な宣教方法を取らないのか」このような疑問は、ファリサイ派のような敵対者からというよりも、むしろイエスの弟子たちからの疑問だと言えるでしょう。もしも、そういう状況の中でこのたとえ話が語られたとするならば、このたとえ話のメッセージは次のようになります。「農夫を見なさい、彼らのやり方は一見無駄に見える。しかし、そのような仕方でこそ、大きな実りがもたらされるのだ。わたしのやり方も同じことだ
 この「種蒔く人」のイメージは、人間的な反対や抵抗にあっても、あきらめずに神の国について語り続け、父である神のみ旨を行い続けるイエスご自身の姿とも重なってきます。
 もちろん、これまで見てきたエレミアスのような読み方がすべてではなく、もっと素直に「たとえ話の説明」を受け取ってもよいのです。問題は、わたしたちが、わたしたちの置かれた状況の中でこのたとえ話をどう受け止めるか、なのです。




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Posted on 2017/07/07 Fri. 08:30 [edit]

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年間第14主日 (2017/7/9 マタイ11章25-30節)  


教会暦と聖書の流れ


  マタイ福音書11章では洗礼者ヨハネやイエスを受け入れなかった人々のことが語られています。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人(つみびと)の仲間だ』と言う」(18-19節)。確かに当時、イエスを受け入れた人々と受け入れなかった人々がいたのです。きょうの箇所は、そのような状況の中でのイエスの祈りと、人々に対する大きな招きとして読むことができるでしょう。


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  (1) 25-27節はルカ福音書にも並行する箇所があります(ルカ10章21-22節)。72人を派遣した後の箇所ですが、そこでもイエスのメッセージを受け入れず、悔い改めない町の話に続いています。イエスのメッセージは必ずしもすべての人に受け入れられたのではありません。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスを受け入れない人、「幼子のような者」がイエスを受け入れる人であると言われています。当時の知恵や賢さは律法に関する知識を意味していました。幼子は「無知な者・無能力者」の代表であり、「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。世間で評価されているファリサイ派のような人がイエスを受け入れず、世間的な評価を受けない人々がイエスを受け入れたというのが現実だったのです。イエスの活動は人間的に見ればこの点で成功しなかったという見方もできるかもしれません。しかし、イエスはこのことの中に神の計画の実現を見ていました。
 「天地の主である父よ、・・・」これはイエスの祈りです。人間的には失敗と見えるような現実の中にイエスは神の意思の実現を見ます。それは人間的な見方ではなく、祈りの中で見いだした神の眼差しによる見方だと言ったらよいでしょう。27節の「子が示そうと思う者」という言葉は、イエスご自身の思いも何より「幼子のような者」に向けられていたということを表しているのではないでしょうか。27節は祈りの言葉そのものというよりも、祈りの中でイエスが見いだした確信だと言えるでしょう。そして、28-30節はこの祈りとその中で得た確信に基づくイエスの人々に対する呼びかけなのです。
 「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」という言葉。現代に生きるわたしたちの多くは、どれほどこの言葉を必要としていることでしょうか。現代人の多くは疲れています。肉体を休ませたい、という以上に、心から「ほっ」としたいのです。

  (2) 「柔和」「謙遜」という言葉については少していねいに見ておきましょう。
 「柔和」はギリシア語で「プラユスprays」です。この言葉は、マタイ福音書の中で3回使われています。最初は5章5節、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」ですが、この言葉の背景には詩編37編11節の「貧しい人は地を継ぎ」があると考えられています(この「貧しい人」と訳されているヘブライ語の「アナウ」の古代ギリシア語訳(七十人訳)が「プラユス」です)。もう一つの箇所はマタイ21章5節、「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な(プラユス)方で、ろばに乗り」という箇所です。これはゼカリヤ9章9節の引用です。このゼカリヤ書の箇所を新共同訳は「高ぶることなく、ろばに乗って来る」と訳しますが、この「高ぶることなく」は「アニ(アナウと元は同じ)」なのです。「プラユス」というギリシア語は確かに「柔和な」という意味の言葉ですが、その背景にはヘブライ語の「アナウ」があります。この「アナウ」という言葉はもともと身をかがめ小さくなっている人の様子を表すそうです。経済的に圧迫されていたり、あるいは他から虐げられて苦しんでいる人の意味で「貧しい人」と訳されることが多いのです(詩編37編参照)が、みずから小さくなっている人という意味では「柔和な人、高ぶらない人」とも訳されます。この箇所の「プラユス」の背景にも「アナウ」というヘブライ語的な表現があるとすれば、もっとストレートにイエスが「わたしは貧しい」と言っていると受け取ることができるでしょう。

  (3) 「謙遜」のほうは直訳すれば「心において(テー・カルディアte kardia)身分が低い人(タペイノスtapeinos)」。この「心において」はマタイ的な表現のようです。たとえば、ルカ6章20節で「貧しい人」というところをマタイ5章3節では「心の貧しい人(直訳=霊において貧しい人)」と言い、ルカ6章21節で「飢えている」というところをマタイ5章6節では「義に飢え渇く人」と言い換えています。もし本来の形が「タペイノス」だけだったとするならば、これもストレートに「身分が低い」という意味なのです。
 「柔和・謙遜」というと心の状態だけを考えがちですが、イエスの言葉は「わたしは実際に貧しく、身分が低い」というニュアンスをも、あわせ持つ言葉だったのでしょう。そう考えるとイエスの招きをもっと身近に感じることができるかもしれません。イエス自身が貧しく、身分が低いものである(「ラビ=律法教師」としての特別な資格や地位がない)から、貧しく身分の低い人は安心してイエスに近づくことができるのです。「わたしに学びなさい」は「わたしの弟子になりなさい」とも訳せる言葉です。当時のファリサイ派の律法学者にも弟子がいました。そういうラビの弟子になるのは難しいことでしたが、イエスの弟子になるのに何の資格も学力も授業料もいらないのです!

  (4) 「軛(くびき)」は荷車や農具を引かせるために、2頭の牛(またはロバ)を横につなぐものです。「軛」も「荷」も「重荷」のイメージですが、イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。イエスの荷が「十字架」であるならば、とても軽いとは思えません。それなのになぜ軽いと言われるのでしょうか。この「二頭立て」のイメージが役に立つかもしれません。わたしたちの軛・重荷をイエスが共に担ってくださるから「軽い」のです。マタイ23章4節で、イエスはファリサイ派の人と律法学者を批判して、こう言われました。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」。イエスの生き方はこれとは正反対でした。十字架のイエスは今も、「わたしはあなたの重荷を共に担う」とわたしたちに語りかけてくださっているのです。




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Posted on 2017/06/30 Fri. 08:30 [edit]

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年間第13主日 (2017/7/2 マタイ10章37-42節)  


教会暦と聖書の流れ


  マタイ福音書10章は、弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教という形になっています。今日の箇所はその結びの部分です。16節から始まった、弟子たちに対する迫害の予告という雰囲気は最後まで続いているようです。


福音のヒント


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  (1) 「家族を大切にしなければならない」「家族は仲良くしなければならない」ということは、多くの人にとって当然のことでしょう。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(37節)というイエスの言葉はこのわたしたちの常識を揺さぶります。この直前にはこういう言葉もあります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(10章34-36節)イエスの言葉は明らかに「イエスか肉親か」の二者択一を迫っています。カルト宗教のような危険性さえ感じさせるこれらの言葉をどう受け取ったらよいのでしょうか。マタイ福音書の文脈では、イエスのメッセージのゆえに対立や迫害が起こることは避けられない、しかし、その中にあってもイエスの福音に踏みとどまるようにという教えだと考えることができるでしょう。

  (2) しかし、なぜイエスのメッセージゆえに家族との対立が起こるのでしょうか。それはイエスのメッセージが家族の持つある種の「狭さ」を越える性格のものだからです。
 「『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(マタイ12章48-50節)「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10章29-30節)。イエスは「自分の家族さえ良ければ」という閉鎖的な考えを乗り越え、父である神のもとですべての人が家族であるという大きな連帯の世界に生きるよう、人々を招いています。イエスの時代、誰からも顧みられない孤独な人、家族からも厄介者扱いされているような人にとってそれはまさに「福音(よい知らせ)」だったでしょう。家族も捨ててイエスに従っていた弟子たちにとっても「福音」だったにちがいありません。わたしたちにとってこれは「福音」になりうるでしょうか。

  (3) わたしたち一人ひとりの家族についての思いは違います。「やっぱりわたしにとっては家族が一番大切」という人は多いでしょう。「家族が悲しみ、家族を傷つけても教会に行くべきだ」という考えは常識的には正しいと思えません。
 ただし、次のようなことも考えてみてはどうでしょうか。子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。親離れは一生絶縁してしまうことではありません。庇護し庇護されるだけの関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会うためです。子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。もしかしたら、家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。

  (4) 40節は使徒たちの働きの重要性と、それを受け入れる人への祝福を語りますが、マルコ9章37節、マタイ18章5節などに似た言葉があります。マルコではこうなっています。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。本来は子どもについて言われた言葉が、神の子どもとなったキリスト者にも当てはめられるようになったのかもしれません。ここでは、弟子たちに対する態度が、弟子たちを派遣したイエスと神に対する態度と同じことだということになっています。
 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(42節) この言葉から、マザー・テレサやヨハネ・パウロ二世教皇が亡くなったとき、哀悼の心を表し、祈りをささげた日本の非キリスト者の姿を思い浮かべることもできるでしょう。わたしたちがもしキリストのメッセージに忠実に生きるならば必ず、理解し、支えてくれる善意の人々と出会えるはずです。

  (5) 38-39節の言葉は、最初の受難予告の後のマタイ16章24-25節でもほとんど同じ形で繰り返されます。きょうの箇所全体の背景にも、迫害という状況があるのかもしれません。42節の「水一杯飲ませる」は、普通の状況ではたいしたことではありませんが、もし迫害されているキリスト者に対してそうするのであれば、水をあげた人自身もその仲間だと思われる覚悟が必要かもしれないのです。またここで「わたしの弟子=小さな者」と言われていますが、これも迫害されているキリスト者の姿を連想させます。
 もちろん迫害という状況に限らず、「水一杯」はマタイ25章の次の言葉とのつながりの中で味わうこともできます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(35-36節)「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)




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Posted on 2017/06/23 Fri. 08:30 [edit]

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年間第12主日 (2017/6/25 マタイ10章26-33節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節・復活節とその余韻のような2つの祭日(三位一体とキリストの聖体)という長い中断の後、今日から年間主日のマタイ福音書のサイクルに戻ります。今日の箇所は12使徒を派遣するにあたってのイエスの言葉です。天の国の福音を告げ、悪霊を追い出し、病人をいやす使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らず(マタイ10章14節)、むしろ、迫害を受けることが避けられない(10章17-23節)ことをイエスは予告します。そして、その中でどういう態度を取るべきかが今日の箇所で語られるのです。


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  (1) 今日の箇所はルカ12章3-9節とよく似ていますが、ルカの箇所がファリサイ派の偽善に警戒せよ、という文脈の中に置かれているのに対し、マタイでは迫害を予告するという文脈の中で伝えられています。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(マタイ10章26節)は、マルコ4章22節にもよく似た言葉があります。短いイエスの言葉が伝えられていくうちに、次第に長くまとまった形になり、それをマタイやルカがそれぞれ違った文脈の中で、自分の福音書に取り入れている、と考えることもできるでしょう。だとすると、26-27節、28節、29-31節の3つの部分を無理に関連づけずに、本来はそれぞれが独立したイエスの言葉だと受け取ることもできることになります。共通するのは26節、28節、31節の「恐れるな」という命令です(原文の語形は26節だけ違います)。「恐れるな」という言葉が、キーワードのようにこの3つの部分をつなぎ合わせていると考えることができるのです。

  (2) 「覆われているもの、隠されているもの」とは何を指しているのでしょうか。本来イエスが語った状況の中では意味がはっきりしていたのでしょうが、今となってはその本来の状況は分かりません。マタイの文脈では、前の25節との関係を見ると「隠されているもの」は「彼らがイエスの弟子・僕(しもべ)であること」と言えるでしょうか。27節とのつながりでは「イエスの告げる天の国の福音」が「隠されているもの」だということになります。福音の言葉は、文脈によっていろいろな受け取り方ができることはよくあります。今のわたしたちの状況の中で、この言葉から思い浮ぶことはどんなことでしょうか。

  (3) 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。日本語では「恐れ」と「畏れ」を書き分けますが、聖書では同じ言葉です。人間は神の前で自分の小ささ・至らなさを感じるとき、それを「畏敬の念」と言ったりしますが、これはもちろん神が恐ろしい方だという意味ではありません。出エジプト記にこういう話があります。
 「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。・・・『お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。』助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1章15-17節)。
 ここで神を恐れる(=畏れる)というのは、たとえそれが強大な権力者であっても神以外のものに対する恐怖に打ち勝つこと、そして神のみ旨と信じることを実行できる(魂に忠実に生きる)ようになることでした。

  (4) 「雀」は小さな鳥の総称と考えられますが、このような小鳥は、重い皮膚病の人の清めの儀式に使われた(レビ記14章)ようですし、食用にもなったそうです。「アサリオン」はローマの小額貨幣で、今で言えば約500円相当です。「2羽の雀が1アサリオン」というのは1羽では売り物にならないほど価値が低い、ということです。この雀も神に守られているというのです。雀のたとえの中に入り込んでいる髪の毛のたとえも、神の細かい配慮を強調するものです。この2つのたとえを通して、わたしたちに対する神のいつくしみは決してなくならないことが強調されます。
 32-33節は地上で弟子たちが受ける人間の裁きと、天上で神の前で受ける裁きがつながっていることを表しています。「イエスの仲間であると言う、イエスを知っている」とはどういうことでしょうか。マタイ7章21-23節、25章31-46節を見ると、ただ口先で「イエスを信じます」と言うことではなく、イエスの心に忠実に従う生き方を含むと言えます。ただしこの箇所は、裁きに対する警告だけでなく、どんな苦境の中でもわたしたちは決して孤立無援ではないという力強い励ましとして受け取ることが大切でしょう。

  (5) 迫害という状況でなくとも、「恐れ」ということはあります。病気、失業、犯罪、暴力、人からの裏切りなど、わたしたちに恐れを引き起こさせるものはいろいろあるでしょう。「恐れ」は必ずしも悪いことだとはいえません。病気や犯罪から身を守るために役に立つこともあるのです。
 恐れが問題になるのは、恐れのために、日々の生活と人生が振り回されて、本来やるべきことができなくなってしまうときです。「恐れるな」というイエスの言葉はそういう状況の中で受け取ればよいのではないでしょうか。マタイ10章23節では「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とも言われます。イエスは闇雲に迫害に耐えろ、とはおっしゃいません。わたしたち一人一人に「本当になすべきこと、いのちをかけても譲れないことは何か」と問いかけているのではないでしょうか。
 「恐れ」の問題は他にもあります。戦争をひき起こそうとする人は、人々の恐怖心を煽(あお)ります。「何をされるか分からない。やられる前にやりかえさなければ」という思いは、人を簡単に戦争や暴力に走らせます。恐れが人の心から平安を奪い去り、富や権力、武力にしがみつくようにさせるのです。そういう状況の中で「恐れてはならない」は、冷静な心を持つように、という戒めにも聞こえます。「恐れ」に振り回されずに、今、本当に何が起こっているのか、自分にできることは何か、を見つめることが大切です。




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Posted on 2017/06/16 Fri. 10:28 [edit]

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