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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第2主日 (2019/1/20 ヨハネ2章1-11節)  


教会暦と聖書の流れ


 年間第2主日のミサの福音は、ヨハネ福音書が伝えるイエスの活動の初期の場面です。年間主日の福音では主にマタイ(A年)、マルコ(B年)、ルカ(C年)を用いてイエスの活動のあとを追っていきますが、その最初に当たる第2主日にヨハネ1~2章が組み込まれています。なお、A年にはヨハネ1章29-34節、B年にはヨハネ1章35-42節が読まれます。


福音のヒント


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  (1) ヨハネ1章19節~2章11節を見ると、かなり詳しく日付を追っていることに気づきます。1章29,35,43節にそれぞれ「その翌日」という言葉があり、きょうの箇所に「三日目に」とありますので、全部で6日間の出来事ということになります(2章12節以下にはこのように正確な日付を追う表現はありません)。6日間は創世記1章で神が天地万物をお造りになった日数です。ヨハネはこの6日間の出来事を新しい創造とも呼ぶべき神のみわざがここに始まるという思いで伝えようとしているのかもしれません。その頂点がきょうの出来事ということになります。
 宴会の途中でぶどう酒がなくなるというのは大ピンチです。イエスが水をぶどう酒に変えてそのピンチを切り抜けたという話ですが、ヨハネ福音書はこの出来事を、新しい救いの時代の始まりを象徴的に表す出来事として見ているようです。婚礼のイメージは「神と人とが一つに結ばれる救いのイメージ」でもあります。

  (2) イエスの母はもちろんマリアですが、ヨハネ福音書では「イエスの母」と呼ばれるだけです。この母は十字架の場面でも登場します(19章25-27節)。3節の「ぶどう酒がなくなりました」は、直訳では「(彼らは)ぶどう酒を持っていません」ですが、これは非人称の表現で、単に「ぶどう酒がありません」という意味です。ぶどう酒を救いのシンボルと考えれば「救いがありません」とイエスに訴えているとも言えるでしょう。
 これに対するイエスの言葉、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」は、冷たく聞こえる言葉です。「婦人」という言葉は、現代日本ではほとんど使われなくなった言葉ですから、現代的には「女性よ」と訳すべきでしょうか。いずれにせよ、普通は自分の母に向かって言う言葉ではありません。「わたしとどんなかかわりがあるのです」は直訳では「わたしとあなた(の間)に何があるのか?」です。確かに拒絶の言葉のように聞こえます。しかし結局、イエスはこのマリアの叫びに答えて行動することになります。とはいえ、この言葉には、マリアの願いとは関係なく、イエスがこれからすることの主導権を持っていることを強調する意味があるようです。

  (3) さらにここには「わたしの時はまだ来ていません」という言葉が続いています。ヨハネ福音書の中で「わたしの時=イエスの時」とは十字架の時です(ヨハネ12章23,27節、13章1節、17章1節など)。それは受難の時ですが、同時にイエスが父のもとに行く栄光の時でもあります。
ヨハネ福音書では、マリアは今日の箇所と19章の十字架の場面だけに登場します。
 「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(19章26-27節)
 「自分の家に引き取った」という箇所は「自分のものとして受け入れた」とも訳せます。ここでマリアに弟子たちの母としての使命が与えられることになります。ですから、2章4節のイエスの言葉は、母マリアを十字架の場面に招く言葉だと言うこともできるでしょう。
 なお、5節でマリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。マリアはイエスが何かしてくれるという希望を持ち続けています。これはイエスに対する深い信頼を表す言葉です。

  (4) 「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」は旧い契約のシンボルです。1メトレテスは約39リットルですから、100リットル前後入る大きな水がめが6個もあったことになります(ちなみに、今回の写真はカナの町の教会に置かれていた水がめです)。これがぶどう酒に変えられたのは、旧約の時代が終わり、新しい救いの時代が始まったことを表します。
 9節で突然、花婿が登場します。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)。後になって出てくる「良いぶどう酒」とは新約時代の救いを表しているのです。だとすればこの花婿の姿も神あるいはイエスを暗示していると言えるでしょう。
 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)。ヨハネ福音書はこの出来事の中にイエスによってもたらされる救いの全体が表されていると考えて、こう結んでいるようです。

  (5) ここに伝えられているマリアの姿は、イエスの母である一女性という以上に、
人々の代表としての姿だと言えるかもしれません。救いを待ち望んでいた旧約時代のすべての人を代表して「ぶどう酒(=救い)がありません」と言い、救いを受けた新約の民(=教会)の代表として「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っているようにも聞こえます。
 とにかくこのようにして、マリアはさりげなく、イエスのなさることに協力しています。
なお、ここに登場する「召し使い」はギリシア語で「ディアコノスdiakonos」です。今のカトリック教会では「助祭」と訳されますが、聖書では「仕える者、奉仕者」と訳される言葉です。彼らもイエスの言葉に従い、そのなさることに協力しました。マリアとこの召し使いたちの姿はわたしたちが見習うべき模範だ、と言うことができるでしょう。




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Posted on 2019/01/11 Fri. 11:00 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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主の洗礼 (2019/1/13 ルカ3章15-16,21-22節)  


教会暦と聖書の流れ


 降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してから30年もたった後の出来事ですが、そこには「イエスの神の子としての現れ」という降誕節のテーマが続いていると考えられているのです。
 同時にこの出来事は成人したイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の翌日から教会の暦は「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが記念されていきます。
 


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  (1) きょうの箇所の15-16節は待降節第3主日(C年)にも読まれた箇所です。「メシア」(ヘブライ語)は「キリスト=クリストスchristos」(ギリシア語)と同じく「油注がれた者」の意味で、神が遣わす救い主を意味します。「ヨハネ」はもちろん洗礼者ヨハネのことです。「洗礼を授ける」はギリシア語では「バプティゾーbaptizo」で、本来は「水に沈めること、浸すこと」を意味する言葉です。「聖霊と火で洗礼を・・・」(8節)の「霊」はギリシア語では「プネウマpneuma」と言い、これは「風」「息」を意味する言葉です。「聖霊と火による洗礼」とは本来、「風(プネウマ)に飛ばされ火で焼かれるもみ殻(がら)」のイメージだったようです。洗礼者ヨハネが予想していた「来るべき方」は、この「風と火による裁きの中に人々を沈める方」だったのでしょう。
 しかしキリスト教は、実際に到来したイエスの姿に合わせて洗礼者ヨハネの言葉を解釈し直しました。「聖霊で洗礼を授ける」は「聖霊に浸す」というイメージです。古代の人々は目に見えない大きな力を感じたときそれを「プネウマ(風、息)」すなわち「霊」と呼び、それが「神からの力」であれば「聖霊」と表現したのです。「火」は聖霊の力強さの象徴です。聖霊の根本的な働きは、神と人とを結び合わせることです。キリスト教の洗礼とは単なる回心のしるしである「水による洗礼」以上のもの、「人を聖霊によって神に結びつけ、神の子とし、神のいのちにあずからせる」ものだということになります。

  (2) 21-22節で、イエスが洗礼を受けたという事実よりも大切なのは、その後に起こった3つのことです。 (A)天が開け、(B)聖霊がイエスに降(くだ)、(C)「わたしの愛する子」という声が聞こえた。(A)の「天が開け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です(イザヤ63章19節参照)。(B)の「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるということを表すイメージです。
 これら3つのことはマタイやマルコも伝えることですが、ルカ福音書の特徴は「祈っておられると」これらのことが起こったということです。ルカは、イエスの変容の場面でも、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(9章29節)とあります。祈りとは神との特別な親しさの中にあることだと言ったらよいでしょう。

  (3) 上の(B)と(C)の出来事について、マタイ、マルコ、ルカは微妙に表現が違います。マルコでは聖霊が降るのを見るのはイエスご自身であり、声も「あなたは」とイエスに向かって語りかけます(マルコ1章10-11節)。マタイでも、イエスご自身が自分の上に聖霊が降るのを見ますが、声のほうは「これは・・・」と三人称ですので周りの人にも聞こえたような表現になっています(マタイ3章16-17節)。ルカでは、声はマルコ同様「あなたは」とイエスに向かって語りかけますが、聖霊が降ったことについては「目に見える姿でイエスの上に」というような客観的な描写になっています。この出来事は、洗礼者ヨハネやその場にいた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、一方ではイエスの内面的な体験と見ることもできるようなことでもありました。とにかくこの出来事には、イエスが神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を自覚したという面の両方があると考えたらよいでしょう。

  (4) 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉の背景には、イザヤ42章1節以下があると考えられます。新共同訳ではこうなっています。
「1 見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。3 傷ついた葦(あし)を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」
「主の僕の召命」と呼ばれる箇所です。この「僕」のギリシア語訳は「パイスpais」で「家の中の小さい人たち=子どもや僕」を意味する言葉です。福音書の「子」は「ヒュイオス(hyios)」で「息子」を意味する言葉ですが、イメージとしてはつながっています。つまり、この「愛する子」という言葉には、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始めることが示されているわけです。

  (5) 「あなたはわたしの愛する子」この言葉は、ある意味でわたしたちすべてに向けて語られている言葉です。わたしたち自身の洗礼はそのことを意味しています。
 ところで、「イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」というつながりも大切ですが、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」というつながりも大切です。ヨルダン川で聖霊に満たされた時から、イエスの神の子としての活動が始まっていったように、ペンテコステ(五旬祭)の日、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは福音を告げる活動を始めました(使徒言行録2章)。堅信の秘跡は、同じようにわたしたちが聖霊を受けて教会の使命に参与することを表しています。聖書の多くの箇所で聖霊は「ミッション(派遣・使命)」と結びついています。人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力である聖霊が支え導くのです。これこそが堅信の秘跡の中心テーマです。
 「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。どんなときにわたしたちはそう感じることができるでしょうか。




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Posted on 2019/01/04 Fri. 08:30 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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主の公現 (2019/1/6 マタイ2章1-12節)  


教会暦と聖書の流れ


 主の公現は、日本のようにキリスト教国でない国では1月2日〜8日の間の日曜日に祝われていますが、本来の日付は1月6日です。今年はちょうど6日が日曜日に当たりますので、本来の日付どおり祝うことになります。「公現」はギリシア語では「エピファネイアepiphaneia」で「輝き出ること」です。イエスにおいて神の栄光の輝きが現れたこと、イエスが神の子キリストとして現されたこと、それは待降節・降誕節全体の大きなテーマだと言えます。福音は毎年同じ箇所で、マタイ福音書の話が読まれます。マタイはルカとはまったく違うイエスの幼年時代の物語を伝えています。無理やり1つの物語にしてしまうより、それぞれの物語を通して神が語りかけているものを受け取るとよいでしょう。


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  (1) 「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」や「3人の王」のイメージが強くあります(3人という数は聖書には書かれていません。贈り物の数からいつの間にか3人ということになったようです)。この「占星術の学者」と訳された言葉はギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人、の意味です。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われています。この人たちについては2つの見方があることを考慮しておくとよいでしょう。1つは、天文学を究めた当時最高の知識人という見方。もう1つには、ユダヤ人にとっては、怪しげな異教徒で、まことの神を知らない人々という見方です。もちろんどう見るかによってこの箇所全体のイメージが変わってきます。どちらが正しいか、というよりも、2つの見方の両方でそれぞれに味わってみると聖書の読み方が豊かになるのではないでしょうか。

  (2) ベツレヘムはエルサレムの南7kmほどのところにある町です。マタイ福音書はイエスがベツレヘムでお生まれになったことを、旧約の預言の成就と見ています。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、「ダビデの子孫である理想的な王=メシア」はベツレヘムで生まれるという伝承がありました。6節で引用されているミカ書もそのひとつです。ヘブライ語原文からの訳である新共同訳聖書のミカ5章1節は次のようになっています。
 「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
 お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」
 ミカは紀元前8世紀の南ユダ王国で活動した預言者です。ミカは当時さびれていたベツレヘムの町(いと小さき者)から救い主が誕生すると預言し、人間の思いを超えた神のすばらしい計画を見ていますが、マタイはこの町の重要性を考えて「いちばん小さいものではない」と変えているようです。

  (3) ヘロデは紀元前37~前4年、王としてパレスチナを支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたので、ユダヤ人からは正当な王と認められませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。この箇所の後に、この幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の幼児を大量虐殺した話があります(マタイ2章16-17節)。
 「メシア=キリスト=油注がれた者」という言葉には、いつもこのように「王」のイメージがあります。ただ、「イエスが王である」ということの本当の意味は、降誕物語だけでなく、その生涯全体を見つめなければ見えてきません

  (4) 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができるでしょう。2000年前にユダヤやガリラヤに始まった救いの知らせは、今の極東のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを思い巡らせてみたらよいかもしれません。このわたしはどうやって(だれから)この福音を受け取ったのか、そこからさかのぼっていくと2000年の歴史の中でどのようにこの福音が広がってきたかが見えてきて、そこに神の大きな救いの計画を見いだすことができるのではないでしょうか。
 
  (5) 「拝む」(2,8,11節)と訳されているギリシア語の「プロスキュノーproskyno」という言葉には、本来「~に対してキスする」という意味があります。人間に対しても用いられることがあります(使徒言行録10章25節)が、原則としては神または超越的存在に対する礼拝の意味で用いられる言葉です。「黄金、乳香、没薬」にそれぞれシンボリックな意味を見ることもできますが、敬意を表す贈り物と考えればよいでしょう。彼らは精一杯の敬意と賛美と喜びをこの幼子に示したのです。
 学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。ふだん信仰心など持っていないように見える日本人が、正月には初詣に行ったり、初日の出を拝んだりするのは、そこに何かしら超越的なものを感じているからでしょう。自分たちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という思いはすべての人の心にある共通のものです。そういう意味で、キリストを信じるわたしたちはキリスト信者ではない多くの人々とのつながりを感じることができるのではないでしょうか。




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Posted on 2018/12/28 Fri. 10:00 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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聖家族 (2018/12/30 ルカ2章41-52節)  


教会暦と聖書の流れ


 降誕祭の後の日曜日は「聖家族」の祝日です(ただし12月25日が日曜日の年は次の日曜日が1月1日になりますので、その場合は「神の母聖マリア」の祭日になります)。イエス、マリア、ヨセフの家族に思いを馳せますが、この家族は伝統的に「聖家族」と言われて、わたしたちの家族の模範と考えられてきました。3年周期の福音朗読の箇所は毎年さまざまで、A年がマタイ2章13-15,9-23節、B年がルカ2章22-40節、今年(C年)の箇所はルカ福音書が伝えるイエスの少年時代のエピソードです。


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  (1) ルカ福音書だけが伝える12歳の少年イエスのエピソードです。「過越祭(すぎこしさい)」は春分の日の後に行なわれる春の祭りで、エジプト脱出という神の根本的な救いのわざを記念するものでした。ユダヤ人にとって最も大切な祭りで、この祭りのとき、多くのユダヤ人がエルサレムの神殿を訪れました。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフも家族を連れてエルサレムに巡礼していたということになります。なお、当時の成年は13歳からでしたので、イエスはまだ成人前ということになります。
 43節で「少年」と訳される言葉はギリシア語では「パイスpais」です。この言葉はまず第一に年少者を表すので「子ども、少年」と訳されますが、家の中で小さい者の意味で「僕(しもべ)」の意味にもなります。同じルカが書いた使徒言行録の3章13節、4章27,30節で「僕イエス」と訳されている箇所には、ここと同じ「パイス」が使われています。この背景にあるのはイザヤ書の「主の僕」(イザヤ42章1節など)で、神から特別な使命を受けた者を指しています。イエスは「少年」であるだけでなく「主の僕」でもある、きょうの箇所でもそのことが暗示されているのかもしれません。

  (2) 両親はイエスを見失い、探して、三日後に神殿でイエスを見つけます。「三日後」や「探す・見つける」は復活を連想させる言葉です(ルカ24章5,23,24節参照) 。ルカはこの少年イエスのエピソードの中にイエスの生涯全体が表れていると見ているようです。
 49節の「自分の父の家」は直訳では「わたしの父のところ」です。
 ルカ福音書の中で神殿は大切な場所のようです。福音書の冒頭で祭司ザカリアは神殿の聖所の中で天使のお告げを受けました。エルサレムでのイエスの活動は最後まで神殿の境内でのことでした。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(21章37-38節)。12歳のイエスが神殿で学者たちと問答している姿は、大人になったイエスが神殿で人々に教えている姿を前もって表すものだと言ってもよいでしょう。なお、ルカは福音書の終わりに、イエスの昇天後の弟子たちの姿を伝えていますが、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(24章52-53節)と結ばれています。
 ルカ福音書が書かれた時代(紀元80年ごろ)、すでにエルサレムの神殿は崩壊していました。ルカ福音書の中での神殿とは、地上の特定の場所であるというより、「父のところ」であり、そこが本来イエスのいるべきところだということになるのでしょう。

  (3) 49節には「当たり前だ」という言葉がありますが、これはギリシア語の「デイdei」という言葉の訳です。「必ず~することになっている」「どうしても~しなければならない」と訳されることもあります。典型的なのはいわゆる受難予告です。ルカ9章22節「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。これは「単なる必然」というよりも、「神が定めたことであるから、そのことは必ず実現する」あるいは「神の意思であるから、必ず人はそうすべきである」というニュアンスのある言葉です。
 復活されたイエスの言葉、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった(=デイ)のではないか」(ルカ24章26節)から考えると、イエスが「父のところにいる」ということも、死と復活をとおして本当の意味で実現することだと言えるかもしれません。

  (4) マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」(51節)とあります。イエスの誕生にまつわる話の中でも「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2章19節)とありました。51節の「これらのこと」には、12歳のイエスの神殿でのエピソードだけでなく、「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」ということも含まれるようです。「仕える」は直訳では「服従する、従う」です。イエスが両親の思いを超えた神の子でありながら、それでも両親に従って生活する。マリアはそこに神の不思議な計画を感じていたと言ってもよいのでしょう。
 
  (5) クリスマスから正月にかけて、家族と共に時を過ごすという人は多いでしょう。逆に家族と共にいられない寂しさを感じる人もいるに違いありません。いずれにせよ、誰もが自分の家族を意識する時だと言えそうです。そんな中で聖家族の祝日は祝われます。
 「聖家族」というと温かな家庭で、何の問題もないように感じられるかもしれません。「神と人とに愛された」(52節)という言葉はホッとさせられる言葉です。世界中のすべての子どもに何よりも必要なのはこのことです。子どもだけでなく、すべての人が神と人からの愛を受け取る場、これこそが家族本来のあり方だと言えるでしょう。
 一方で、きょうの福音は、少年イエスが両親の考えを超えた行動をし、両親にはそれが理解できないという話でもありました。ある意味では、どこの家庭にもある子どもの反抗期や親子の断絶に似ているかもしれません。理想的で問題のない家族などどこにもありません。イエスはわたしたち人類の一員となり、そんな家族の一員にもなってくださいました。わたしたちの家庭の中にもイエスがいてくださる、そう感じることができれば、「わが家も聖家族」と言うことができるのではないでしょうか。




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Posted on 2018/12/21 Fri. 10:00 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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待降節第4主日 (2018/12/23 ルカ1章39-45節)  


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 クリスマス直前の待降節第4主日のミサでは、イエスの誕生という出来事と直接関係する福音書の箇所が読まれます。今年(C年)はルカ福音書1章の「マリアのエリサベト訪問」と呼ばれる箇所です。
 ルカ福音書1章ではまず、洗礼者ヨハネの父ザカリアに天使ガブリエルが現れ、高齢の妻エリサベトが身ごもったという話が伝えられていました(5-25節)。そして、6ヶ月目に同じ天使ガブリエルは、ガリラヤのおとめマリアに対して、彼女が救い主の母となることを告げます(26-38節)。きょうの箇所は、この2人の女性が会う場面ですが、ここには後のイエスと洗礼者ヨハネの関係が先取りされている、と言ってもよいでしょう。エリサベトはマリアの胎内の子を「わたしの主」(43節)と呼んでいますが、成人した洗礼者ヨハネは「主の道を整え」(3章4節)るために来て、この「主」の到来を告げることになります。


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  (1) エリサベトはマリアの親類で、高齢になっていたにもかかわらず、洗礼者ヨハネを身ごもりました。人間的には不可能と思われることですが、だからこそ、そこに神の力が働いている、ということになります。洗礼者ヨハネの誕生という出来事には神の力が働いているのです。
 マリアの場合は処女でしたから、彼女が母となるということは人間的にはまったくありえないことです。もしそれがありうるとしたら、完全に神の力以外の何ものでもないということになります。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(1章35節)からこそ、この処女マリアからイエスが生まれることになったのです。

  (2) エリサベトはマリアに向かって「あなたは女の中で祝福された方」(42節)と言います。これはギリシア語の直訳ですが、実はヘブライ語やアラム語で最上級を表す言い方が基にあり、この意味は「最も祝福された女性」です。士師記の中で、イスラエルに味方して敵の将軍を倒したカイン人のヤエルという女性がたたえられていますが、そこにも同じような表現があり、新共同訳聖書は次のように訳しています。
 「女たちの中で最も祝福されるのはカイン人ヘベルの妻ヤエル。
 天幕にいる女たちの中で最も祝福されるのは彼女」(士師記5章24節)。
 「胎内のお子さまも祝福されています」は直訳では「また、あなたの胎の実は祝福された方」となります。「も」というので、へたをすると、イエスが祝福されているのは、マリアが祝福されているからだと聞こえてしまうかもしれません。しかし、実際は逆のはずです。「胎の実」であるイエスが「最も祝福された方」であり、「主」(43節)であるからこそ、マリアは「最も祝福された女性」なのです。
 なお、カトリック教会で伝統的に唱えられてきた「アヴェ・マリアAve Maria」の祈りの前半は、ルカ1章28節の天使の言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、この42節のエリサベトの言葉から採られています。今もわたしたちはエリサベトの言葉を借りて、マリアとイエスをたたえているのです(なお、「アヴェ・マリアの祈り」の中の「マリア」「イエス」という固有名詞は聖書本文にはなく、後から付け加えられるようになった言葉です)。

  (3) 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)は、ルカ11章27,28節の次の言葉を思い出させます。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」 マリアはただ単にイエスの母だから素晴らしいのではなく、むしろ神の言葉を信じた信仰のゆえに幸いなのです。
 このマリアの信仰は、1章38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉にもっともよく表れています。マリアは自分とは関係のないところで神の言葉が実現することを信じ、願っているのではありません。「この身に」(直訳では「わたしに」)と言って、自分の中に神の約束が実現することを信じ、それに自分を委ねていきます。それはエリサベトも同じでしょう。
 わたしたちにとっても、神の言葉(約束)はわたしたちから遠いところで実現するのではないはずです。まさに「このわたしに」実現することとして、神の言葉は語られているのです。そしてだからこそ、わたしたちが自分のうちに実現する神の言葉をどう受け入れ、どう答えるかが問われるのです。マリアの場合には、特別に「み言葉(であるイエス)を自分の中に宿している」というイメージがあります。わたしたちも、わたしたち自身のうちにみ言葉を宿す、という感覚を持つことができるでしょうか。

  (4) 天使のお告げを受けたマリアは、なぜエリサベトのもとへ行ったのでしょうか。マリアは常識的には信じられないような天使の言葉の真偽を確かめるためにエリサベトのもとに行ったのでしょうか。しかし、前の箇所で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言っていたマリアの深い信頼からすると、これは考えにくいでしょう。あるいは、出産を控えたエリサベトの手伝いをするために、エリサベトのもとに行ったのでしょうか。しかし、「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」(56節)と言われていますので、これも考えにくいことです。
 マリアがエリサベトを訪問した目的は、神の約束の実現を一緒に待つためではないでしょうか。自分たちのうちに神の約束が成就しつつあるのを感じ取り、その喜びを分かち合うためマリアはエリサベトを訪ねたのではないでしょうか。この2人の出会いの中に、「教会」の根本的なイメージを感じ取ることができるでしょう。「いろいろ問題や悲惨なこともあるけれど、それでも神の約束は確かにわたしたちの中で実現に向かっているよね」ということを分かち合い、その喜びを確かめ合うのが、教会という信仰者の集いの根本的な意味だと言えるのではないでしょうか。




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Posted on 2018/12/14 Fri. 10:30 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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