福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

三位一体の主日 (2018/5/27 マタイ28章16-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦では四旬節から復活節にかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、その次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日です。この日は「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難と死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、大きな救いの出来事を振り返りながら、父と子と聖霊である神の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。B年の福音朗読は、マタイ福音書の結びの箇所です。


福音のヒント


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  (1) 弟子たちは、イエスの墓で告げられていたとおり(28章7,10節)、ガリラヤでイエスに会います。「山」はマタイ福音書の中で、特別に神との出会いの場、神の啓示の場です(5章1節、17章1節など)。17節に「しかし、疑う者もいた」という訳がありますが、直訳では「しかし、彼らは疑った」であり、11人全員が「ひれ伏しながらも疑った」と受け取ることもできます。ここで疑いを克服するのは何か目に見えるしるしではなく、18-20節のイエスの言葉です。18節の「権能」は「権威」とも訳されますが、日本語の言葉としてはあまりいい響きではないでしょう。内容としては「父である神がイエスに、すべてのことをゆだねた」と受け取ればよいでしょう。

  (2) 19節のイエスの命令には4つの動詞が使われています。「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」です(「弟子にする」も「洗礼を授ける」もギリシア語ではそれぞれが1つの動詞です)。このうち原文で命令法が使われているのは「弟子にする」だけです。その他は分詞の形なので、形の上から見て、この命令の中心は「弟子にする」ことだと言えます。「行く」のは「弟子にする」ためですし、「洗礼を授ける」と「教える」は「弟子にする」ことの具体的な内容です。マタイ福音書でのイエスの活動は、ガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしたことから始まりました(4章18-22節)。そしてすぐに、山上の説教で弟子たちの生き方を教えました(5-7章)。マタイ福音書全体をとおしてのイエスの活動が「弟子作り」だと言ってもよいでしょう。そして、この「弟子作り」というイエスの使命が、ここからイエスの弟子たちに受け継がれていくのです。もちろん、弟子たちの使命は自分たちの弟子を作ることではなく、「わたし(イエス)の弟子」を作ることです。

  (3) 「洗礼を授ける」はギリシア語では「バプティゾーbaptizo」で、本来の意味は「(水に)浸す、沈める」です。「名によって」の「名」は単なる呼び名というよりも、そのものの本質を表わします。「~によって」には「~の中に」という前置詞が使われています。
 「父と子と聖霊」という言い方は聖書の中でこの箇所だけにあります。ここにはマタイのいた教会での洗礼式の式文が反映しているようですが、ただ単に「父と子と聖霊という名を言いながら洗礼式を行なう」ということよりも、この洗礼が、「父と子と聖霊という神のいのちの中にその人を沈める」ことなのだということが大切です。

  (4) マタイ福音書の結びに当たる「共にいる」(20節)という約束は、この福音書全体の結論とも言える言葉です。すでに誕生前からこのように約束されていました。
 「『見よ、乙女(おとめ)が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(1章23節)
 イエスの生涯と活動全体が「神がわたしたちと共におられること」を表すものでした。そして、今やそれは「復活して神と共に永遠に生きる方・キリストが共にいてくださる」という約束になっているのです。
 「いつもあなたがたと共にいる」は力強い約束です。わたしたちはそれをどんなふうに感じることができるでしょうか。自分のうちにイエスがいて、内面で自分を支え導いてくださると感じる人もいるかもしれません。また、イエスが自分の人生の歩みに寄り添い、目に見えないがいつも共に歩んでくださると感じる人もいるでしょう。わたしたち一人ひとりにとっての「共にいてくださるキリスト」のイメージを分かち合えるとよいでしょう。

  (5) マタイ福音書にあるイエスの言葉では、次の3つの箇所がヒントになるでしょう。
18章20節 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
 イエスは信じる者の集いの中にいてくださるという約束ですが、大きな組織としての教会というよりも、共に祈る小さな集いを思い浮かべたらよいのではないでしょうか。信仰の道を一緒に歩んでいる仲間とのつながりの中にイエスが共にいることが感じられるという体験は、わたしたちの中にもきっとあるはずです。
26章26-27節 「取って食べなさい。これはわたしの体である。・・・皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦(ゆる)されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
 教会が集まって賛美と感謝をささげ、パンとぶどう酒を用いてイエスの愛を記念するとき、キリストは共にいてくださいます。この「共にいてくださるキリスト」は奉仕者の手をとおして、病気や高齢で教会に来られない人にも届けられます。聖体はいつも、わたしたちがキリストに結ばれた者、「キリストの体」である教会共同体のメンバーであることを思い起こさせてくれます。多くの人が、特別に苦しみや困難の中で、聖体のイエスによって支えられたという経験を持っていることでしょう。
25章40節 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 わたしたちが日々出会う人、特に苦しみの中にあり、助けを必要としている人をとおして、今も生きておられるキリストに出会う、このような体験もわたしたちの中にあるはずです。それぞれの体験を分かち合ってみましょう。




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Posted on 2018/05/18 Fri. 07:32 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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聖霊降臨の主日 (2018/5/20ヨハネ15章26-27節,16章12-15節)  


教会暦と聖書の流れ


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 聖霊降臨の主日のミサの福音には、毎年同じヨハネ20章19-23節を読むことができますが、ここではB年のための任意の箇所を取り上げます。復活祭から50日目に聖霊降臨を祝うのは、使徒言行録2章(第一朗読)にあるペンテコステ(五旬祭)の日の出来事に基づいています。イエスは復活して天に上げられますが、弟子たちには聖霊が注がれます。弟子たちはこの聖霊に駆り立てられて、福音を告げ知らせ始めました。その意味で聖霊降臨は過越(すぎこし)の神秘の完成であり、同時に教会の活動の出発点なのです。


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  (1) ヨハネ福音書13~16章には、最後の晩さんの席で語られたイエスの多くの言葉が伝えられていますが、その中に、聖霊を送る約束が4箇所あります。14章16-17節、14章26節、15章26節、16章7-15節。この約束は、ヨハネ福音書ではイエスの復活の日に実現しています。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(20章22節)。きょうの福音の箇所は15章と16章の聖霊の約束が組み合わされていますが、わたしたちにとっても単なる未来の約束ではなく、すでにわたしたちの中に実現していることとして聖霊降臨の出来事を味わいましょう。

  (2) 「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。「パラ」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「呼ばれた者」の意味です。裁判のときにそばにいて弁護してくれる人を「パラクレートス」と言ったので新共同訳聖書は「弁護者」と訳しますが、もっと一般的に「そばにいて助けてくれる方」と受け取って「助け主」や「慰め主」と訳されることもあります。
 ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者(パラクレートス)、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。これは復活して神のもとに上げられたイエスのことですが、イエスこそが第一の「パラクレートス」であるということができます。そこで、ヨハネ福音書14章16節では聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われているのです。

  (3) 「真理の霊」の「真理」とはなんでしょうか。真理はギリシア語では「アレーテイアaletheia」と言います。「アレーテイア」の本来の意味は「隠されていないこと」です。ギリシア人にとって、真理とはふつうは目に見えないそのものの本質が明らかにされることだと言えるでしょう。一方、真理と訳されるヘブライ語は「エメト」です。この言葉は「アーメン(確かに)」という言葉と同じ語根で、「確かなもの、頼りになるもの」を表します。ヨハネ福音書の「真理」には「隠されている神のほんとうの姿を明らかにする」というギリシア語的なニュアンスと「本当に確かで、頼りになるもの」というヘブライ語的なニュアンスの両面があると考えられます。
 「ヨハネ福音書における真理とはイエスご自身のことである」と言った人がいます。イエスこそ、神の本当の姿を明らかにした方であり、わたしたちの救いのために本当に確かで頼りになる方であることは間違いありません。聖霊の働きは、何よりも真理であるイエスにわたしたちを結びつけることだと言うこともできます。人間の力を超える何かしら大きな力を感じたとしても、それを聖霊の働きだということはできません。大切なのは、その力がわたしたちをイエスとその生き方(愛)に結びつけるかどうかなのです。

  (4) 15章では「証(あか)しをする」ということが聖霊の役割です。15章18節~16章4節でイエスは弟子たちが受けることになる迫害を予告します。厳しい迫害の中でイエスを証しするのは弟子たちのはずですが、まず第一に「聖霊が証しをする」と言われるのはなぜでしょうか。迫害の中でも人がキリストへの信仰に踏みとどまり、キリストを証しすることができるとすれば、そこには人間の力を超えたものが働いている、それが聖霊(神の霊・イエスの霊)なのだ、ということでしょう。わたしたちが特別な困難に直面したとき、自分の力ではどうにもならないような現実に直面したとき、それでもわたしたちがキリストに従って生きようとすることができたとしたら、それを聖霊の働きと呼んでもいいのではないでしょうか。

  (5) 16章13節で「その方」と訳されている言葉は男性形の指示代名詞ですが、もちろん聖霊のことを指しています。「霊(プネウマpneuma)」はギリシア語では中性名詞なので、中性形の指示代名詞(訳せば「それ」)が使われてもおかしくないのですが、ヨハネはあえて男性形で書いています。これは「パラクレートス」が男性形だからでしょうか。聖霊とは、素朴に言えば「神(あるいは復活したイエス)の目に見えない働き」と言うことができます。しかし、ヨハネ福音書は、単なる「働き」ではなく、弟子たちのうちにとどまり、いつも弟子たちとともにいて、助けてくださる「方」という面を強調して、聖霊について、人格を持つもののように語っているのでしょう。
 ここでの聖霊の働きは「真理をことごとく悟らせる」ことです。「真理をことごとく」と訳された部分は「真理全体」とも訳せるような言葉が使われています。「悟らせる」には「道案内する、導く」という意味の言葉が使われています。イエスはこれまで、いろいろな言葉を語ってきました。しかし、これからは聖霊が弟子たちを導くのです。聖霊の導きは、イエスがこれまで語ってきたことと別のことではなく、イエスが語られたことを、わたしたちにもっと深く理解させ、わたしたちがわたしたちの現実の中でイエスの言葉をどう生きるべきかをはっきりと示すことだと言うことができます。
 「聖霊」を人間の頭で抽象的に理解しようとすることは無理なことです。目に見えない神の働き、復活して目に見えないが今もわたしたちとともにいてくださるイエスの働きが、聖霊の働きなのです。「聖霊」という言葉よりも大切なのは、わたしたちの日々の生活の中に、わたしたちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、何かをしてくださっているということです。わたしたちは、その働きをどのように感じているでしょうか。




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Posted on 2018/05/11 Fri. 07:44 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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主の昇天 (2018/5/13 マルコ16章15-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました(1章3-11節、きょうの第一朗読)。本来、主の昇天の祭日は復活祭から40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われます。きょうの箇所はマルコ福音書の結びですが、写本によってはこの部分がないものもあり、後の時代の人が付加した部分だと考えられます(マルコ福音書は本来16章8節で終わっていたようです。B年復活の主日の「福音のヒント」参照)。ここにはイエスの死後起こったことがコンパクトにまとめられています。すなわち、「弟子たちへの出現」「派遣命令」「イエスの昇天」「イエスが弟子たちとともにいつづけること」です。


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  (1) この箇所の前、9-11節でマグダラのマリアへの出現(ヨハネ20章11-18節参照)が、12-13節では他の二人の弟子への出現(ルカ24章13-35節参照)が語られていますが、弟子たちはその人々の言葉を聞いてもイエスの復活を信じなかったと言われています。そしてこの箇所では「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とあります。これらの言葉は昔の弟子たちを批判するために伝えられているのではなく、復活を信じることの難しさを語りながら、それでも信じるように読者を励ます意味があるのではないでしょうか。きょうの箇所では、イエスの言葉が弟子たちを信じるものに変えていきます。わたしたちもきょう、同じイエスの言葉に耳を傾けようとします。

  (2) 15節からが復活したイエスの言葉、いわゆる派遣命令です。この派遣命令の特徴は、「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」というように範囲が非常に広いことです。生前のイエスによる弟子たちの派遣が限定的だったのと対照的です(マルコ6章7-13節参照)。弟子たちの使命は「福音を告げること」ですが、これはマルコ福音書で言えば、これまでイエスがなさってきたことそのものです。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(1章14-15節)。告げるべき福音の内容はキリスト教のさまざまな教えというよりも、「神の国の到来」でした(その意味で「宣教」ではなく「告知」という言葉をここでは使うことにします)。「神の国」のメッセージは、別な言葉で言えば、「父(アッバ)である神は、すべての人を例外なく子どもとして愛してくださっている」というメッセージだったと言えるでしょう。「福音告知」とは「神は愛であることを伝えること」だと言ってもいいはずです。そう考えれば、決して言葉だけで伝わるものでないことも明らかでしょう。

  (3) 16節の「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」は信仰か不信仰かの決断を迫る言葉です。洗礼を受けていない人が大多数である日本のような国では、このような言葉に戸惑いを感じる人も少なくないでしょう。
 ここで、信じるか信じないかの前提に「福音が告げられている」ことがあるということは大切です。弟子たちが告げる福音(神が愛であること)は言葉だけではなく、弟子たちの生き方のすべてをとおして伝えられるはずのことです。そういう福音告知が前提にあって、福音が告げられた人に決断が問われているのです。だとすれば、わたしたちが教会の外の人をどう見るかではなく、まず第一にわたしたち自身が生き方と言葉のすべてをもってこの福音を告げているか、ということが問われるのではないでしょうか。

  (4) 信じるものに伴うしるしは、17節では「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」ことです。ここで「言葉」と訳されているのはギリシア語の「グロッサglossa」です。本来「舌」を意味する言葉ですが、英語のtongue(タング)のように「言語」の意味もあります。Ⅰコリント12、14章で「異言(いげん)」と訳されるのもこの言葉ですが、きょうの箇所では、何かしら特別に不思議な言葉というよりも「神から与えられる言葉のたまもの(カリスマ)全体」と考えればよいでしょう。
 聖霊降臨の日に、「炎のようなが分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章3-4節)とありますが、この箇所の「舌」も「言葉」も原語は「グロッサ」です。その日、使徒たちが語った言葉は、民族や言語の壁を越えて人と人とのコミュニケーションを可能にする言葉でした。悪霊が人を神から引き離し、人と人との関係を破壊する力だとすれば、逆に聖霊は神と人、人と人とを結ぶ力です。ほんとうにわたしたちの働きが神と人・人と人を結ぶものであれば、どれほど力強い「しるし」になるでしょうか
 18節の「蛇(へび)」は人間を害するもののシンボルです。その「蛇」や「毒」に打ち勝ち、病人をいやすというのがもう一つの「しるし」です。こんなことは今のわたしたちには不可能だと思われるかもしれません。しかし、福音書が伝えるイエスの「いやし」をどのように受け取るかによって、これもわたしたちのテーマになりうるのではないでしょうか。イエスのいやしとは「病気によって、神からも、他の人からも切り離されていた人を、神との交わり、人との交わりに連れ戻し、そこからその人自身が立ち上がることができるように助けること」と見ることもできるでしょう。だとすれば、今のわたしたちの中でもそのような「しるし」は起こりうるのではないでしょうか。

  (5) 19節でイエスは天に上げられますが、20節では「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と語られ、イエスが遠くへ去っていったのではないこともはっきりと示されます。「天」とは時間・空間を超えた神の領域です。ですからイエスは目に見える姿、手で触れることのできる形ではいなくなりますが、同時に目に見えない形で、弟子たちとともにいてくださるのです。これこそが復活の神秘(=過越の神秘)の完成だと言えます。




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Posted on 2018/05/04 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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復活節第6主日 (2018/5/6 ヨハネ15章9-17節)  


教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所は先週の「ぶどうの木と枝」のたとえに続く箇所です。
ヨハネ福音書13-16章は、最後の晩さんの席で、イエスが世を去るに当たって、世に残していく弟子たちに向けて語られた遺言のような長い説教を伝えています。しかし、14章の終わり(31節)には「さあ、立て。ここから出かけよう」というイエスの言葉があって、そこで一旦この場面が終わっているようです。15章以下はおそらく後から拡大された部分でしょう。15-16章では13-14章と同じようなテーマが繰り返され、より深められていると言うべきかもしれません。きょうの箇所の愛の掟も、13章ですでに一度語られていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13章34-35節)。この箇所を重ね合わせながら、きょうの箇所を味わうと良いでしょう。


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  (1) 先週の箇所の「枝がぶどうの木につながっている」ときょうの箇所の「愛にとどまる」には同じ動詞(ギリシア語の「メノーmeno」)が使われています。9-10節は1-8節のぶどうの木と枝のたとえの結論だと言えるでしょう。
 10節の「掟」の内容については、12節で明らかにされます。11節の「これらのこと」は1-10節全体を指しています。「喜び」はイエスとわたしたちが、ぶどうの木と枝のように愛によってつながっていることなのです。

  (2) 12節の「互いに愛し合いなさい」はあまりにも有名なイエスの言葉です。ここでイエスは確かに命令法で「愛し合え」と言い、さらに「これがわたしの掟である」(17節では「これがわたしの命令である」)と言っています。しかし「愛とは命令されたから愛するというようなものか」という疑問を感じる人がいるかもしれません。愛というのは心の中から自然に湧き上がるもので、命令されて義務的に愛するというのは、本当の愛ではない、と言うこともできるでしょう。そんなことを考えるとき、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉はとても大切になります。イエスは愛の掟をただの命令として弟子たちに与えているのではなく、イエスが弟子たちを愛した、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じているのです。弟子たちの側からすれば、「イエスがわたしたちを愛してくださった。そのようにわたしたちは互いに愛し合うべきだ」ということになりますが、このとき、弟子たちにとってイエスの愛は単なる模範ではなく、弟子たちが愛することの根拠だと言えるのです。「このわたしを愛してくださった」というイエスの愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができるし、愛さずにはいられなくなる。これは義務や命令の世界ではなく、恵みの世界です。「掟」や「命令」と言っても実は外面的な規則のようなものではなく、わたしたちの内面に働きかけて、わたしたちの生き方を新たにしていく神の導きによることなのです。

  (3) 12節の言葉についてはもう一つの疑問もありえます。それは、「互いに愛し合う」というのは仲間内の愛であって、非常に内向きの姿勢に聞こえるが、イエスはそんなことを教えたのか、という疑問です。これについては、13節の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉から考えてみましょう。
 「友のために・・・」という言葉は、わたしたちが互いに愛し合うときの愛について語っている言葉でしょうか? むしろイエスが弟子たちを愛したその愛が「友のために命を捨てる」愛だったと言うのではないでしょうか。ここでイエスは「敵のために命を捨てる」とか「自分に対する裏切り者のために命を捨てる」とは言いません。イエスははっきりと「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)と宣言されます。さらにその理由として「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と言われます。ここで「友」という言葉が使われているのは、イエスと弟子たちとの心のつながりを表すためではないでしょうか。イエスがここで語っている愛は、外面的な行為としての愛の業(わざ)よりも「友としての愛」、ほんとうに深く心のつながりがあるものとしての愛なのです。ほんとうの愛は一方通行ではありえないはずです。この箇所でのテーマは、弟子たち相互の間に深い心の結びつき(=友としての愛)が生まれることであって、ほかの人を愛さなくてもよい、ということが言われているのではないのです。
 なお、「命を捨てる」の「捨てる」は、10章11, 17-18節と同じく普通の「置く」という言葉が使ってありますから、「差し出す」とか「投げ出す」と訳したほうがよいかもしれません(B年復活節第4主日の「福音のヒント」参照)。

  (4) 16節には「選び」というテーマが出てきます。聖書が語る神の選びは、人間の選びとはまったく異なります。人間は一番良いものを選ぼうとしますが、神はむしろ一番弱く、貧しいものを選ばれます。それはすべての人を救うためです。イスラエルの民の選びもキリスト者の選びもそういうものでした(申命記7章7節、Iコリント1章26-29節など参照)。人間が優れているから神に選ばれ、救われるのではなく、神がすべての人を救おうとしておられるから、ある人を選び、その人をとおしてほかの人々に救いをもたらそうとされるのです。だから「選ばれてラッキー!」ということで終わるのではなく、救いを受けた人間には、ほかの人々の救いのために働く使命が与えられるのです。
 ここでのイエスの選びも同じです。最後までイエスについていくことのできない弱い弟子たちをイエスは選び、友と呼びます。「わたしが選んだ」ということも「友と呼ぶ」ことも、特定の弟子たちのことではありません、イエスの弟子となったすべてのキリスト信者のことです。そのわたしたちの中に「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉が少しでも実現しているならば、イエスは復活して今もわたしたちのうちに生きていてくださると言えるのです。そのような体験がわたしたちにもあるでしょうか。




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Posted on 2018/04/27 Fri. 09:53 [edit]

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復活節第5主日 (2015/4/29 ヨハネ15章1-8節)  


教会暦と聖書の流れ


 復活節第5、第6主日の福音では、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの言葉が読まれます。世を去るにあたってイエスが弟子たちに語られた遺言のような言葉ですが、なぜ、これが復活節に読まれるのでしょうか。これらのイエスの言葉はほとんどが「わたしは去っていくが、何かを残していく、その何かのかたちでわたしはずっとあなたたちと共にいる」という約束です。この約束は、福音書を書いているヨハネにとっては将来のことではなく、すでに自分たちの中で実現した現在のことでした。今のわたしたちも、このイエスの言葉がわたしたちの中で現実になっていると気づくときに、イエスが今も生きていることを確信できるのです。復活節は、ただ単に2000年前にイエスが死者の中からよみがえった、ということを祝う季節ではありません。復活して今も生きておられるキリストとの深いつながりを味わう季節なのです。


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  (1) ぶどうの木はパレスチナで古くから栽培され、イスラエルの人々にとって馴染み深い植物でした。ぶどうの木は大きな木ではなく、幹(みき)もそれほど太くありません。ここで「ぶどうの木」というのは「ぶどうの幹」のことではなく、幹も枝も含めた木全体のことです。ぶどうの枝と幹がつながっている、というイメージではなく、枝はぶどうの木全体の一部だというイメージを思い浮かべながらこのたとえを読むとよいでしょう。
 ここで「~につながっている」と訳される語は、ギリシア語では「メノー・エンmeno en」で、9節以降で「~にとどまる」と訳される言葉と同じです(前置詞の「エン=~のうちに」だけで、動詞が省略されている箇所もあります)。
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(9-10節)。これはきょうの箇所全体を理解するために大切な言葉です。「ぶどうの木」のたとえが示そうとしていることは、まさにこのことだからです。

  (2) 4節の「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」も「わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなたがたのうちにとどまる」と訳すことができます。枝が木全体の中にとどまっている、というイメージは分かりやすいと思いますが、ぶどうの木全体が一つ一つの枝のなかにとどまっている、というイメージはどうでしょうか? ぶどうの一房一房の中にぶどうの木全体が含まれている、というと、現代人にはDNAの話のように聞こえるかもしれません。とにかく、ヨハネ福音書は「互いが互いのうちにとどまる」という表現で両者の深い交わりを表そうとしています。
 「キリストがわたしのうちにおられる」と感じるのはどんなときでしょうか。「わたしがキリストのうちにいる」ということは、どんなときに感じられるでしょうか。それをわたしたち自身の経験の中に見つけることができれば素晴らしいことです。

  (3) 2節「手入れをなさる」は原文では、3節「清くなっている(カタロスkatharos)」という形容詞から派生した動詞です。「清くする」が普通の意味ですが、「枝を清くする」というのは「刈り込む」「剪定(せんてい)する」ことを表しています。農夫によって適切に刈り込まれるからこそ、ぶどうは豊かな実りをもたらすのです。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」も「イエスの言葉によって刈り込まれる」というイメージかもしれません。イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しいこと・痛いことがありますが、それが自分にとって大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験はわたしたちにもあるのではないでしょうか。

  (4) イエスの言葉がわたしたちのうちにとどまる(7節)と言いますが、イエスの「言葉」「掟」は究極的には「愛」だけです。この直後に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)と明確に宣言されます。
 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)という約束がありますが、このような約束は、ヨハネ14章13-14節、15章16節、16章23-24節でも繰り返されます。もちろん誰の中にも「祈りがかなえられなかった」という苦い経験があるでしょう。わたしたちはこのイエスの約束をどう受け止めるべきでしょうか。ここでは、キリストの愛に結ばれてわたしたちが願うことは、わたしたち自身が愛する者になる、わたしたちの中に愛が実現することだ、と言えるかもしれません。そしてわたしたちのこの願いと祈りを支えるものは、イエスご自身が苦しみと死を味わい、愛によって死を越えて、愛そのものである神と一つに結ばれた、という信仰なのです。何度も繰り返される「実を結ぶ」ということも「わたしたちの中に愛が実現する」ことそのものだと言えるでしょう。そして、それは「イエスの弟子になる」こと、「父が栄光を受ける」ことにつながっています。

  (5) このように見てくると、「イエスというぶどうの木につながっている」ということは洗礼やミサへの参加などよりももっと根本的な生き方の問題だということが分かります。もちろん、ミサや秘跡をとおしてイエスにつながることは大切です。ただ、もっと大切な、わたしたちが目に見えないイエスとのつながりを生きること、そして、わたしたち自身が愛する者に変えられていくことを表す目に見えるしるしが秘跡なのです。
 2節「つながっていながら、実を結ばない枝」や6節「つながっていない人」に対する厳しい言葉は、キリスト信者でない人を断罪するための言葉ではなく、キリストを知ったわたしたちがキリストから離れないようにと警告するための言葉です。わたしたちはキリスト信者でなくとも、愛によってキリストにつながっている人を知っています。その人々についてここでは直接的には何も述べられていません。ここで問いかけられているのは、キリストの愛を知ったわたしたち自身の生き方の問題なのです!




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Posted on 2018/04/20 Fri. 08:30 [edit]

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