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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第15主日 (2018/7/15 マルコ6章7-13節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週の福音で、ナザレでの活動の後、「イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(6章6節)とありました。イエスの活動が広がっていくのに伴い、12人の弟子が派遣されることになります。マルコ福音書では3章で12人が選ばれていました。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3章13-15節)。ずっとイエスのそばにいて、イエスのなさることを見てきた弟子たちが、いよいよ派遣されるのがきょうの場面です。


福音のヒント


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  (1) なぜ「二人ずつ組にして」なのでしょうか? これについてはいろいろな意味が考えられます。申命記19章15節には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」という規定があります。これは裁判のときに複数の証人がいればその証言は確かであるということですが、神の国をあかしする場合も同様に考えられているのかもしれません。また、二人が一緒に旅をするならば互いに助け合うことができ、心強いことも確かです。さらに言えば、互いに助け合い、愛し合う姿をとおして神の国・神の愛を伝えることができる、と言えるかもしれません。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章35節)。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされている」(Ⅰヨハネ4章13節)。わたしたちの中でも同じことが言えるでしょうか?

  (2) マタイ10章5-15節やルカ9章3-5節、さらにルカ10章2-12節(72人の派遣)にも弟子の派遣にあたっての同じような指示がありますが、細部には違いがあります。複数の伝承に基づいて各福音書が書かれていますが、弟子たちの使命と心構えは、基本的には共通しています。「杖(つえ)」は野獣や盗賊から身を守るために用いられることもあり、旅には必要なものと考えられていました。マタイやルカには杖と履物についても禁じる言葉がありますが、マルコのほうが現実的かもしれません。旅をするのに必要最小限のものは許されるのです。「袋」は食べ物やお金を入れておく袋のようです。「下着は二枚着てはならない」は重ね着を禁じているわけですが、これは野宿のときに着る外套のようなものを持っていくな、という指示かもしれません。だとすれば、弟子たちはどこかの家に泊めてもらうべきだと考えられていることになります(10節参照)。弟子たちには、誰の世話にもならなくてもよいようにすべてを自分で準備しておくことではなく、人と出会い、宿のことでも食べ物のことでも人の世話になることが求められている、と言えるでしょう。必ず迎え入れてくれる人がいる、という約束の背景には、もちろん、神がすべてを配慮してくださるから、ということがあるはずです。
 わたしたちは、小さいときから「自分のことは自分でしなさい」と教えられてきました。それはそれで大切なことです。しかし、神からの派遣(ミッション)を生きるときには、神への大きな信頼と、人との出会いに対する信頼がもっと大切だということでしょうか。

  (3) もちろん、すべての人がイエスの弟子たちを受け入れてくれるとは限りません。受け入れられない場合に「足の裏の埃(ほこり)を払い落とす」というのは絶縁を意味する表現です。使徒言行録13章51節や18章6節では、使徒パウロが同じような仕草をしています。これは「あなたたちのことは神の裁きに任せる」ということであり、自分が恨んだり、自分で復讐しようとはしない、ということだとも言えます。それにしても「絶縁しなさい」というのは、冷たく聞こえるかもしれません。むしろ「救いのメッセージを受け入れない人がいることは仕方ない。その人々をどうにかしようとするよりも、救いのメッセージを必要としている人のところへ向かえ」という意味で受け取ることもできるのではないでしょうか。弟子の派遣にあたってのイエスのこれらの指示は、文字通り実行すべきものというよりも、「愛する」という唯一の掟のもとで受け取るべきです。

  (4) 7節の「汚れた霊に対する権能」は悪霊を追い出す力のことです。12-13節には「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とありますが、これはイエスがなさってきたことと同じことです。「宣教する」と訳された言葉はギリシア語では「ケリュッソーkerysso」で、直訳すれば「宣(の)べ伝える」です。「何かの教えを宣べる」というよりも、「神の国を宣べ伝える」のです。これこそがイエスの活動の中心でした。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1章14-15節)。
 イエスは悪霊を追い出し、多くの病人をいやしましたが、「油を塗って」いやしたという記録はありません。ここにはむしろ初代教会の実践が反映しているようです。ヤコブの手紙5章14-15節にこうあります。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主がゆるしてくださいます。」病者の塗油の秘跡のときに読まれる箇所ですが、初代教会の中でこのような実践のあったことが確かめられます。
 復活後のイエスの派遣は全世界に向けて世の終わりまで続く派遣ですが、きょうの箇所の派遣は地理的にも時間的にも限定されたものでした。しかし、ここで弟子たちが派遣され、自分たちも働くことができたという体験は、彼らにとって貴重なものだったでしょう。イエスはこのようにして、少しずつ弟子たちを成長させてくださったと言えるのではないでしょうか。そしてわたしたちをも・・・・。




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Posted on 2018/07/06 Fri. 13:00 [edit]

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年間第14主日 (2018/7/8 マルコ6章1-6節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週の福音では、出血の止まらない女性の病気がいやされ、会堂長ヤイロの娘がイエスによって生き返らされました。そこでは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(5章34節)、「恐れることはない。ただ信じなさい」(5章36節)とあったように、「信じること」が大きなテーマでした。きょうの箇所は先週の続きの箇所ですが、ここでもやはり「信じる」ということがテーマになっています。


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  (1) イエスの育った故郷は、ガリラヤのナザレという村でした。右の写真は、マリアが天使からお告げを受けたことを記念して建てられた「告知教会」から見た今のナザレの町並みです。今は何万人もの人が住む町ですが、イエスの時代には特に大きな町ではなく、有名な町でもありませんでした。ナザレには会堂があり、安息日ごとにユダヤ人たちがその会堂に集まって礼拝していました。他の町や村で病人をいやしたイエスの評判はナザレの人々にも届いていたのでしょう。ナザレの人々は会堂で語るイエスに注目しています。

  (2) マルコはイエスが教えたことの内容をいちいち伝えません。それはいつも「神の国の到来の福音」(マルコ1章14-15節参照)であったと考えればよいでしょう。ルカ4章16-30節には、イエスの活動の初期の出来事として、ナザレの会堂での出来事が伝えられています。そこでイエスはまず、イザヤ書の61章(1-2節)を朗読しました。
 「『18 主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。』20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」
 苦しむすべての人を解放する神の救いの時が、今まさに始まっている。これがイエスの神の国のメッセージでした。人々はイエスのメッセージそのものには反対していません。ただ、それを語るのが自分たちの良く知っているイエスであることにつまずくのです。

  (3)「この人は、大工ではないか」の「大工」とは家を建てる人というよりも、家の内装や家具を作る職人だったようです。アラム語では「いとこ」にあたる言葉がないので、この箇所の「兄弟」「姉妹」という言葉の中にはいとこも含まれていると言われます。教会の伝統では、母マリアはヨセフと結婚してからも生涯処女のままで、イエス以外に子どもがいなかったと言われてきましたが、そのことと矛盾するわけではありません。
 ナザレの人々は「つまずいた」(3節)と言われ、また「不信仰」(6節)とも言われています。ナザレの人々はなぜイエスにつまずいたのでしょうか? なぜ信じなかったのでしょうか? いろいろな理由が考えられますが、以下の(4)と(5)で2つのことを考えてみましょう。

  (4) 大工の子は大工になる。それが当時の常識でした。「この村の一員であり、この家族に属し、この職業についている」ナザレの人々は、イエスの村での立場をよく知っていたので、かえってその見方を超えることができず、イエスが、預言者として神との特別なつながりの中で活動していることを理解できなかったのではないでしょうか。だから「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ」だと言われるのです。
 わたしたちが人を見るときも、やはり、社会的な評価を超えられないことがありそうです。あの人はどういう家柄で、どんな職業で、どんな資格があって・・・。しかし、本当に見るべきなのは、その人の中にある神とのつながりの部分なのではないでしょうか。

  (5) ナザレの村は生活と信仰のコミュニティー(共同体)でした。自分たちの中心に神がいてくださることを人々は安息日の礼拝をとおして確認していました。そこには律法による秩序があり、その秩序からはずれた人は排除されました。一方、イエスは「アッバ(お父さん)」である神のもとで、すべての人が兄弟姉妹として生きる道を示しました。そして、実際に村のコミュニティーから排除されているような人々と関わっていきました。病気のために汚(けが)れているとされた人々、悪霊に取りつかれていると言われて見捨てられていた人々、職業によって罪びとのレッテルを貼られてしまっていた人々・・・。イエスはこの人々も神の子であることを、言葉と行動をとおして伝えていきました。ここにも、イエスのメッセージと活動がナザレの人々に受け入れられなかった理由があったでしょう。
 イエスはアッバのもとでの新しいコミュニティーを作り出していきます。イエスから始まるこの新しいコミュニティーは、地縁・血縁を超え、社会的な立場の違いを超え、男女の壁を超え、民族の壁を超えて共に生きるコミュニティーなのです。わたしたちのコミュニティーはそうなっているでしょうか?

  (6) ナザレの人の「不信仰」とは、イエスを「預言者」として受け入れないこと、つまり、イエスによってもたらされた神の国のメッセージを受け入れないということでした。
 5-6節「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」というのは不思議な言葉に聞こえるかもしれません。イエスが人をいやす力を持っているならば、相手の信仰とは無関係にイエスはその人々をいやすことができたはずではないでしょうか。しかし、ここでは、イエスの行なう奇跡は相手の信仰に左右されるというのです。先週の箇所の「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」でも、「いやし」における信仰(信頼)の役割が重視されていました。福音書の中で「信じること」とは、「何かの信仰箇条に同意する」ということではなく、「神に信頼して、自分を委ねていくこと」です。そしてそれは神の救いを受け取るために、必要不可欠な人間の態度なのです。




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Posted on 2018/06/29 Fri. 09:00 [edit]

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年間第13主日 (2018/7/1 マルコ5章21-43節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ4章35-41節でガリラヤ湖の嵐を静めた後、イエスは向こう岸の異邦人(ゲラサ人)の地に渡り、そこで悪霊に取りつかれた人をいやしました(5章1-20節)。そこから再びユダヤ人の地に戻って来てきょうの箇所になります。きょうの福音では、2つのいやしの物語が伝えられています。ここでは「信じる」というテーマが重要だと言えるでしょう。この「信じる」というテーマは、来週の福音の箇所(6章6節)にも続くテーマです。


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  (1) きょうの箇所は21-24節と35-43節のヤイロの娘の話の間に、25-34節の出血の止まらない女の話が挟まれる、サンドウィッチのような形になっています。
 まず、25-34節について見てみましょう。「出血の止まらない女」と言われていますが、これは女性特有の病気の症状のようです。彼女は肉体的にも経済的にも苦しんでいましたが、それだけではない苦しみもありました。レビ記15章25-27節にこういう規定があります。
 「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は(けが)れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている
 つまり彼女は、重い皮膚病の人と同じように「汚れた者」というレッテルを貼られ、神から断ち切られていましたが、同時に汚れを移さないよう、人に近づくことも禁じられていて、人との交わりからも断ち切られていたことになります。

  (2) 人に近づくことが許されなかったので、彼女は「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」のです。このような行為は、いやしの力を盗むことで許されないと考えられていたようです。彼女は「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあります。イエスも「自分の内から力が出て行ったことに気づ」きます。イエスと彼女は、二人の間で起こったことを体で感じたようです。そしてイエスは彼女を見つけ出そうとします。なぜでしょうか?「ただ病いがいやされたということで終わるのではなく、イエスに出会い、イエスと人格的な交わりを持つことが本当の信仰だからだ」という説明もあります。もちろんそう言えるかもしれません。しかしもっと単純に、「いやしを盗んだ」彼女の後ろめたさと恐れを取り除くためだったと言ってもよいかもしれません。イエスは彼女の態度を「信仰」として評価し、彼女の心に「安心」を与えていくのです。

  (3) 「あなたの信仰があなたを救った」(34節)は福音書の中で何度か繰り返される言葉です(マルコ10章52節、ルカ7章50節、17章19節など)。これは不思議な言葉です。「神が救った」あるいは「イエスが救った」というのが本当ではないでしょうか。
 「信仰」と訳された言葉はギリシア語では「ピスティスpistis」で、36節の「信じる(ピステウオーpisteuo)」の名詞形です。「信じること、信頼」と訳すこともできます。福音書の中で語られる「ピスティス」とは、頭の中で「神がいる」とか「イエスはキリストである」と考えている、ということではありません。あきらめや不安を乗り越え、神に信頼を置いて生きるという態度なのです。きょうの出血症の女性のように、この人なら自分を救ってくれると信じて、必死の思いでイエスに向かって行く姿勢そのものが「ピスティス」だと言ったらよいでしょう。すべての人の父であり、すべての人に救いの手を差し伸べておられる神に対して、イエスご自身が深い信頼を寄せていました。イエスは同じ信頼を人々の中に呼び覚まします。神の救いを受け取るためにはこの「ピスティス」が不可欠なので(マルコ6章6節、来週の福音参照)、イエスは「ピスティス」を最大限に評価したのでしょう。

  (4) イエスがこの女性に関わっている間に、ヤイロの娘が死んだという知らせが届きます。出血病の女性の話は、ヤイロの話の展開に大きな意味を持っています。ヤイロや他の人々は、娘が生きているうちにイエスを呼べば助かる、しかし、死んでしまってはいくらイエスが来てくれてももう遅いと考えていたはずです。イエスはそのヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と言います。出血症の女性の話は、ヤイロの娘の話に「信じる」というテーマを導き出す役割を持っているのです。このサンドウィッチのような物語の展開はただ単に時間的にそのように起こったというだけでなく、テーマの関連があるからこそ、このような形で伝えられてきた、と言えるでしょう。

  (5) 「ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネ」は最初の弟子で、特にイエスに近い弟子だったようです。彼らだけを連れて行ったこと、また「死んだのではない。眠っているのだ」というイエスの言葉は、どちらも奇跡を隠そうとしているのだと言えるでしょう。イエスはこの奇跡を人々に見せびらかすためにしたのではありません(なお、死は眠りに過ぎないという考えは、イエスの復活を知った初代教会の人々の確信でもあります)。
 「タリタ・クム」はアラム語です。新約聖書は1世紀の地中海周辺地域の共通語であったギリシア語で書かれましたが、イエスが話したアラム語がそのまま残されている箇所がいくつかあります(マルコ7章34節、15章34節など)。これらの言葉がアラム語のまま伝えられたのは、イエスの声の響きが聞いている人の耳によほど強い印象を残したということではないでしょうか。言葉には「ものごとを説明する」という働きがありますが、もっと根源的には「相手に働きかけ、相手を変える」働きがあります。創世記1章3節の「光あれ」のような力強い言葉として、イエスの言葉は人々の耳に(また、死んでしまったこの少女の耳にも)響いたのでしょう。ここには、必ずこの人にわたしの声が届くはずだ、というイエスの深い信頼(ピスティス)を感じとることができるでしょう。イエスは同じように、きょうもわたしたちにやさしく力強い声で語りかけてくださっているのです。




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Posted on 2018/06/22 Fri. 07:36 [edit]

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洗礼者聖ヨハネの誕生 (2018/6/24 ルカ1章57-66,80節)  


教会暦と聖書の流れ


 洗礼者ヨハネの誕生の祭日は毎年6月24日に祝われますが、今年はこの日が日曜日にあたり、年間主日よりもこちらが優先して祝われることになります。
 洗礼者ヨハネの誕生が父ザカリアに告げられてから、「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」(ルカ1章26節)とあり、そこでイエスの誕生が告げられているので、主の降誕の6ヶ月前にこの祭日を祝うことになっています。きょうの祭日と福音の内容は、イエスの誕生の出来事と密接に関連しているのです。


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  (1)  エリサベトは洗礼者ヨハネの母親です。彼女はずっと子どもがないまま、高齢になっていました。当時の女性にとって子どもを産めないことは恥と考えられていました。エリサベトは子を身ごもったことを知ったとき、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(ルカ1章24節)と言っています。子どもを産んだことのない高齢の女性から子どもが生まれることの中には、人間の力ではなく、神の力が働いていると考えられました。「主がエリサベトを大いに慈(いつく)しまれた」というのはそのためです。
 「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」(ルカ1章58節)。洗礼者ヨハネの誕生は周囲の人々に大きな喜びを与えます。「喜び合った」は直訳では「彼女と一緒に喜んだ」です。一人の喜びがみんなの喜びになる、そこには素晴らしいコミュニティーの姿があると言えるのではないでしょうか。

  (2) 「割礼」は、生後8日目に男子の包皮を切り取る儀式ですが、この儀式は、人が神の民の一員となることを意味していました。この日に命名も行なわれました。
 「ヨハネ」という名は、旧約聖書では「ヨハナン」と記されますが、この名前には「主は恵み深い」という意味があります。ここでは名前の意味よりも、それが天使によってザカリアに告げられた名(ルカ1章13節)であることのほうが重要でしょう。ザカリアは高齢の自分たち夫婦から子どもが生まれるという天使のお告げを信じなかったため、口が利けなくなっていました。62節に「手振りで尋ねた」とありますから、耳も聞こえなくなっていたようです。エリサベトはそれまで、ザカリアが天使に告げられた言葉を聞いていなかったと考えるのが自然でしょうか。そして、「名はヨハネとしなければなりません」というエリサベトの言葉はザカリアには聞こえていなかったはずです。だから、ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書き、神を賛美し始めたことに多くの人が驚いたというわけです。
 「近所の人々は皆恐れを感じた」(65節)という時の「恐れ」は、「畏(おそ)れ」を表す言葉でもあります。これは神の力や神の現れに接して圧倒された人間の様子を表しています。
 なお、66節の「主の力が及んでいた」は直訳では「主のみ手が彼とともにあった」です。

  (3) 省略されている67-79節には、ザカリアが神を賛美して語った言葉が伝えられています。この賛歌は「ザカリアの預言」とか「ザカリアの歌」と呼ばれています。後半にこういう言葉があります。「幼子(おさなご)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦(ゆる)しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐(あわ)れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く」(76-79節)。父ザカリアは幼子の将来について預言しています。「主に先立って」の「主」は来たるべき救い主を暗示しています。「あけぼのの光」も来たるべき方を指しています。この「あけぼのの光」というところから朝の賛美に用いられるようになり、今も「教会の祈り(聖務日課)」の朝の祈りの中で毎日歌われています。

  (4) ルカ福音書は洗礼者ヨハネの誕生・成長の話とイエスの誕生・成長の話を並行させ、2人が同じ神の救いの計画の中にいることを印象づけています。ただし、神の子であるイエスの場合、さらに特別なことがあるという面もそこには表れています。
 高齢の女性が出産することの中には、神の力が働いていると考えられましたが、イエスの母マリアは処女でイエスを身ごもったので、その誕生は人間の力によるのではなく神の力によるものだということが、さらに徹底的に強調されています。誕生の場面についても違いがあります。イエスの誕生はヨハネの誕生よりもひそやかな出来事でした。イエスはヨセフとマリアの旅先で生まれ、宿屋には泊めてもらえず、祝いに駆けつけたのは貧しく、町の人々からさげすまれていた羊飼いだけでした。そこにはイエスの成人してからの活動と受難の姿が暗示されています。しかし、いずれにせよ、大きな喜びに満ちています。それはこの子どもをとおして神の救いの約束が実現していくという喜びです。

  (5) 80節の「幼子は身も心も健やかに育ち」は、直訳では「この幼子は成長し、霊が強められ」です。イエスについては2章40節で「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と言われ、2章52節では「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と言われています。ここでもイエスのほうが、神の子としての特徴が表れていると言えるでしょう(なお、「イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」と言われますが、これはヨハネが成長してから活動を始めるまでのことです)。洗礼者ヨハネやイエスという特別な人の成長のことが述べられていますが、ここで、同じように力強く成長していくすべての子どもたちのことを思い浮かべてもよいのでしょう。




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Posted on 2018/06/15 Fri. 08:30 [edit]

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年間第11主日 (2018/6/17 マルコ4章26-34節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ福音書では、この4章にイエスの語ったさまざまなたとえ話が集められています。4章1-2節にはこう始まっていました。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。…」(1-2節)。こうして「種まく人」のたとえ話が語られますが、10節には、「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。」とあり、その後、きょうの箇所まで場面や話の相手は変わっていないような印象があります。


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  (1) しかし、マルコ4章の伝える状況が、イエスがこのたとえ話を語った本来の状況だったとは考えにくいものがあります。むしろ、いろいろな場面、いろいろな状況で語られたイエスのたとえ話が、その本来の状況から切り離されて、たとえ話だけで独立して伝えられてきて、それがこのマルコ4章の「たとえ話集」のように集められたのだと考えられるでしょう。ですから、マルコ4章では群衆や弟子たちに向けて語られた一般的な教えのようになっているものも、本来はそうではなかったのかもしれません。
 ヨアキム・エレミアス(1900-1979)という聖書学者は、イエスのたとえ話は本来すべて「福音の弁明」であると考えました (A年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。イエスのたとえ話は抽象的、一般的な教えを述べるためではなく、ある特定の状況の中で、イエスに対する批判や疑問に答えるために語られたというのです。イエスに対する批判に答えるためにたとえ話が語られた典型的な例としては、有名なルカ福音書15章があります。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人(つみびと)たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」(1-3節)。こうしてイエスは「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」という3つのたとえ話を語ります。これらのたとえ話は、イエスがご自分の行動の意味を解き明かし、何が神のみ旨にかなうことであるかとはっきりと示すためのものです。

  (2) 今日のたとえ話は、一般論として神の国が最初は小さいが、いつか大きくなるということを教えているのでしょうか。むしろここにもイエスに対する批判や疑問が背景としてあったと考えてはどうでしょうか。
 イエスのメッセージの核心は、「時は満ち、神の国は近づいた」というものでした(マルコ1章15節)。それは言葉を代えて言えば、「神は沈黙を破り、ご自分の民を救うために、今、決定的な何かをなさろうとしておられる」というメッセージであり、当時の人々にしてみれば、ローマ帝国の支配を打ち破り、イスラエルに自由と解放をもたらすというような、政治的・軍事的なメッセージに聞こえたことでしょう。しかし、現実にイエスの周りで起こっていたことは、病人や悪霊に取りつかれている人がいやされ、貧しく無学な人々がイエスの弟子になっていくということでした。イエスの周りには多くの人が集まってきますが、それはマタイ福音書の表現を借りるならば「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章24節)の群れでした。マルコでも「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」(3章10節)とあります。イエスのもとに集まった人々はほとんど病人とその家族のようでもあります。そして、イエスはこの人々を指して、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(3章34節)と宣言されたのです。

  (3) 周囲の人々から、この様子はどう見られたでしょうか? 神の国のために戦う戦士になろうと考えていた「熱心党のシモン」(マルコ3章18節)のような弟子たちはこの現実をどのように見たのでしょうか? 多くの人々から見ればイエスの周りで起こっていることはあまりにも小さく、弱々しい人の群れでしかなく、神の国からほど遠いものだったのではないでしょうか。そんな中でイエスが今日のたとえ話を語ったとすれば、それはどういう意味を持ったでしょうか。
 「確かに神の国と言っても今は吹けば飛ぶような小さな現実にしか見えないかもしれない。しかしそれは種なのだ。種が本物で生きていれば、いつかそれは必ず大きなものへの成長していき、大きな実りがもたらされる」イエスは神の国のメッセージに対する疑問にこのようなたとえ話を用いて答えたのではないでしょうか。
 28節「ひとりでに」はギリシア語で「アウトマトスautomatos」という形容詞で、英語の「オートマチックautomatic」の語源です。「からし種」は、種は直径1,2ミリの小さなものですが、成長すると2~3メートルにもなる植物です(表の写真参照)。もちろんこの驚くべき成長をもたらすものは神ご自身の力なのです。

  (4) 「たとえ話」は常識的には、物事を分かりやすく伝えるために語られるはずです。イエスのたとえ話も本来、それを聞いている人に分かりやすいものだったはずです。しかし34節では、たとえ話には特別な説明が必要であるかのように言われています。11-12節にもこうありました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦(ゆる)されることがない』ようになるためである。」もし福音書のたとえ話が分かにくいとするならば、上に述べたように、本来語られた状況が消えてしまい、たとえ話だけが伝えられたことによるのではないでしょうか。
 たとえ話を読むとは、イエスのたとえ話を今のわたしたちの現実の中に置き直してみることでもあります。わたしたちの現実の中で、みすぼらしく、弱々しく、こんなのでは何にもならないと思われるような現実があるとき、それでもそこに神の国の「種」を見ていくことができるならば、わたしたちの現実に対する見方は変わっていくはずです。




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Posted on 2018/06/08 Fri. 09:00 [edit]

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