福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第4主日 (2018/1/28 マルコ1章21-28節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週の箇所でイエスは神の国の福音を告げる活動を始め、まずガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしました(1章14-20節)。それに続く箇所がきょうの箇所ですが、38節までは時間を追って出来事が進行していき、全部が丸一日の間に起こっています。マルコは、イエスのガリラヤでの活動の様子を、カファルナウムでの典型的な一日を語ることによって伝えようとしているのでしょう


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(1) カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町です。「安息日」は今で言うと、金曜日の日没から土曜日の日没までにあたり、労働を休み、礼拝を行うための日でした。エルサレムのユダヤ人は神殿で礼拝しましたが、地方には町ごとに会堂があり、ユダヤ人はそこに集まって礼拝をしていました。写真は紀元200年ごろに建てられたカファルナウムの会堂跡ですが、土台部分はイエス時代のものと言われています。
 会堂で説教するために、特別な資格はいらなかったようです。イエスは教え始めます。「律法学者のようにではなく、権威ある者として」とはどういうことでしょうか。律法学者は、律法と口伝(くでん)律法をもって民衆を指導していました。口伝律法とは、昔の律法を今の生活の中でどのように実行するか、についての何世代にもわたる律法学者たちの解釈を集めたものです。「神はかつてモーセにこう命じられた、だからこうしなければならない」というのが律法学者の教えでした。一方、イエスのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)でした。これは昔の聖書の言葉の解釈ではなく、神が今まさに何かをなさろうとしている、というメッセージでした。そこに人々は神から来たまったく新しいもの(=権威)を感じ、驚いたのでしょう。
 
  (2) 「汚(けが)れた霊」とは何でしょうか。「霊」はヘブライ語で「ルーアッハ」、ギリシア語で「プネウマpneuma」と言いますが、これは元来「」や「」を意味する言葉です。古代の人々は人間の力を超えた、目に見えない大きな力を感じたときに、それを「ルーアッハ、プネウマ」と呼んだのです。その力が神から来るものであれば「聖霊」ということになり、神に反する悪い力であれば「汚れた霊=悪霊」ということになります。
 この悪霊が人のさまざまな病気を引き起こすと考えられましたが、特に精神疾患のような、他の人とのコミュニケーションができなくなるような状態が「悪霊に取りつかれている」と考えられました。聖霊が「神と人、人と人とを結びつける力」だとすれば、悪霊は「神と人、人と人との関係を断ち切る力」だと言うこともできるでしょう。
 事実、この箇所で悪霊はイエスとの関係を拒否します。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)は、直訳では、「ナザレのイエス、我々とあなたの間に何(の関係があるのか)?我々を滅ぼしに来たのか?あなたが誰かは分かっている、神の聖なる者だ」となります。神から来たイエスとの関係を拒否することが、悪霊の悪霊たる所以(ゆえん)なのです。
 イエスは悪霊を沈黙させます。神との関係を拒否しているのは、目の前の人の本当の部分ではなく、何かしらその人を神と人から引き離そうとしている力だとすれば、その力を自由にさせておくわけにはいかないのです。イエスは悪霊を問題にしているのではなく、「悪霊に取りつかれている」と考えられていたその人自身を見ているのではないでしょうか。結果として起こったことは、その人が人との普通の交わりを取り戻し、神とのつながりを取り戻したということだったはずです。

  (3) このような見方は、あまりに現代的な解釈だと思われるかもしれません。イエスが悪霊を追い出したということをもっと素直に、そのまま受け取ってもいいのかもしれません。しかし、イエスが「悪霊」という実体のあるものを退治したように受け取ると、科学文明に生きる現代人には、『エクソシスト』の映画のような、特異な超常現象の世界としか感じられない恐れがあります。古代の人にとって「汚れた霊=悪霊」はもっと身近なものでした。現代人は、人間がほとんどの現象を理解し、コントロールできると考えますが、古代の人にとって、人間の理解や力を超えたものは周囲にたくさんあったのです。
 現代のわたしたちにとって、悪霊とはなんでしょうか? わたしたちの周りにも「神と人、人と人との関係を引き裂いていく、目に見えない大きな力」が働いていると感じることはないでしょうか。神への信頼を見失い、人と人とが支え合って生きるよりも一人一人の人間が孤立し、競争に駆り立てられ、大きなストレスが人に襲いかかり、それが最終的に暴力となって爆発してしまう・・・そんな、一人の人間ではどうすることもできないような得体(えたい)の知れない「力」が悪霊だと言ってもいいのではないでしょうか?

  (4) 27節の「権威ある新しい教えだ」という人々の驚きの言葉は、22節とよく似ています。人々はイエスの教えの内容に驚いただけでなく、この出来事をとおして、イエスの言葉が現実を変える力を持っていることに驚くのです。「神の国は近づいた」というメッセージは、イエスが悪霊に苦しめられ、神や人との交わりを喪失していた人を、神や人との交わりに連れ戻すことによって、もうすでに実現し始めたのだと言ってもよいでしょう。何かの現象を「悪霊の仕業だ」と言ったり、誰かのことを「あの人は悪霊に取りつかれている」と非難しても何も始まりません。むしろ、悪霊に覆われてしまっているような現象や人間の、もっと深い部分にどのように触れ、どうしたらつながりを取り戻していくことができるか。そのことがわたしたち一人一人に問われています。




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Posted on 2018/01/18 Thu. 08:45 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第3主日 (2018/1/21 マルコ1章14-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 今年の年間主日のミサの福音では、主にマルコ福音書を用いてイエスの活動の歩みを思い起こしていきます。イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊に満たされ、神の「愛する子」と宣言されました(マルコ1章9-11節)。そして荒れ野で悪魔の誘惑を退けた(1章12-13節)のち、きょうの箇所から神の子としての活動を始めるのです。


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  (1) マタイ福音書4章12節では「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」とあり、ヨハネの逮捕がイエスのガリラヤ行きの理由だったような印象がありますが、マルコは「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き」と言うだけです。マルコはヨハネの活動の時期とイエスの活動の時期をはっきり区別しようとしているのでしょう。準備の時は終わり、いよいよ神の救いが実現する時が来たのです。ヨハネはユダヤの荒れ野で活動していました。そこからエルサレムの都の人々に回心のメッセージを告げました。一方、イエスが活動の場として選んだのは、エルサレムの都からは遠いガリラヤと地方でした。そこはイエスの故郷であり、人々の生活の場でした。
 
  (2) 「福音」はギリシア語で「エウアンゲリオンeuangelion」で「良い知らせ」を意味します。「神の福音」はここでは「神からの良い知らせ」の意味で受け取ればよいでしょう。「時は満ち」は神の計画の中での決定的な時が来たことを表しています。「神の国」の「国」は「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウスbasileus)」から来ています。「王であること」「王となること」「王としての支配」「王が治める土地(=王国)」の意味で用いられます。「近づいた」は文法的には完了形になっていて、「近づいたがまだ来ていない」の意味ではなく、「近づいてもうここに来ている、ある意味で実現し始めている」という意味があります。
 ローマ帝国がユダヤ人を支配し、貧しい人が苦しんでいても、神は遠くにいて沈黙していると感じていた当時の人々に対して、イエスは「神が王となられる」と語りました。神は遠くから人間を眺めているような方ではない。神は近づいてきて、今まさに救いのわざを行おうとしておられる。それはまさに救いのメッセージ=「福音」でした。

  (3) これに対して人間に求められることは「悔い改めて、福音を信じ」ることです。「悔い改め」はギリシア語で「メタノエオーmetanoeo」で、もとの意味は「心を変える」ですが、単に道徳的な反省を意味する以上に、聖書の中では全身全霊で「主に立ち帰る」ことを表す言葉です。「福音を信じなさい」の「福音」の内容は「神の国の到来」そのものを指しています。「信じる」はただ「本当だと思う」だけでなく、そこに「信頼を置いて自分をゆだねる」ことを意味しています。
 15節の言葉は、マルコがイエスのメッセージをまとめたものです。マルコ福音書は、他の福音書よりもイエスの説教を少ししか伝えていませんが、イエスが「教えた」と言うとき、いつもこのメッセージが語られているのだと考えればよいでしょう。

  (4)  マルコはイエスの活動の最初のこととして、4人の漁師を弟子にする話を伝えています。漁師は特に貧しく、身分の低い人ではありませんでした。使徒言行録4章13節でペトロとヨハネは「無学な普通の人である」と言われています。特別な教養(律法についての知識)があるわけでもない普通の人をイエスは弟子にします。
 ところで考えてみると、いきなり見知らぬ人に声を掛けられてついていくというのは不自然ではないでしょうか。ルカはそう考えたらしく、まず、イエスの言葉を聞き、イエスのなさったこと(不思議な大漁の出来事)を見てから、ペトロたちがイエスに従ったという話を伝えています(ルカ5章1-11節)。マルコはこの話を実際に起こった話というよりも、「イエスに従うとはこういうことなのだ」ということを示す典型的な物語として伝えている、と考えたほうがよいかもしれません。
 普通に考えれば、弟子のほうが師事したい先生を見つけて、弟子入りを願うのではないでしょうか。それなのにここではイエスのほうが弟子を選ぶことになっていることも特徴的です。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちのほうがイエスの素晴らしさを知って、イエスに従っていこうと思ったという面もあるでしょう。しかし同時に、それよりも前にイエスのほうが自分を呼んでくれていたと感じることもあるのではないでしょうか。
 「神の選び」は、その人が優れているからその人を選ぶというのではありません。選びの根拠は人間にではなく、神にみ心あります。神はすべての人を救うために、もっとも弱く貧しい人々を選ばれるのです(申命記7章6-8節、Ⅰコリント1章26-31節参照)。

  (5) 最初の弟子になったこの4人は、15節のイエスの神の国への招きに最初に応えた人だとも言えるしょう。イエスのメッセージは自分と関係ないところで、自分に関係なく、神の国が実現していくというメッセージではありませんでした。それは一人一人に「悔い改めて、福音を信じる」ことを求めるメッセージなのです。自分のすべてを神に向け直し、この神の国の到来のメッセージに信頼を置き、そこに自分をゆだねていく、その時、神の国はある意味でもう始まっていると言ってもよいでしょう。おそらくわたしたちにとっても事情は同じです。自分の周囲の世界を見渡しても(いくらテレビを見ていても)、神の国の始まりは見えてこないでしょう。しかし、自分がイエスのメッセージに応えて生きようとしたときに、自分の周りで何かが変わり始めるのです。




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Posted on 2018/01/12 Fri. 09:29 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第2主日 (2018/1/14 ヨハネ1章35-42節)  


教会暦と聖書の流れ


 年間主日のミサの福音朗読は3年周期で、マタイ、マルコ、ルカ福音書をもとにイエスの活動を思い起こしていきます。ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読まれますが、イエスの活動の最初のころのエピソードを伝える箇所だけは、年間第2主日に読まれることになっています。
内容的には「イエスが姿を現し、人々がイエスの光に出会う」というものであって、「栄光の現れ」(「主の公現」の福音のヒント参照)という降誕節のテーマを引き継いでいます。


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  (1) ヨハネ福音書1章1-18節は一般的に「序文」と言われています。実際の物語は19節から始まりますが、29節、35節、43節に同じ「その翌日」という言葉があり、2章1節には「三日目に」という言葉があります。このように日付を追っていくのはこの部分だけですので、特別な意味がありそうです。1章19節の日を「1日目」と数えると、29節が「2日目」、35節からが「3日目」、43節からが「4日目」、2章1節の「三日目」は「4日目」から数えているので「6日目」ということになります。「6日間」は創世記第1章の天地創造を思い出させるのではないでしょうか。ヨハネ福音書は「新しい創造」とも言うべき、神のわざがここに始まったことを印象づけようとしているのでしょう。そのクライマックスは2章11節の「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」ということなのです。

  (2) 「神の小羊」という言葉にはいろいろなニュアンスが含まれています。1章29節では「世の罪を取り除く神の小羊」と言われました。ここで「取り除く」と訳されたギリシア語の「アイローairo」は「取る」の意味ですが、「取り去る」だけでなく、「取り上げる、負う」というような意味もあります。自分の身に人々の「罪をにない」、人々を「罪から解放した」というイエスの十字架の救いのわざを暗示するのが、「神の小羊」という言葉なのです。もちろん、この場面で洗礼者ヨハネが二人の弟子にこう言っても、聞いた弟子には何のことか分からなかったでしょう。この言葉の意味よりも、むしろここでは「この方だ、この方を見なさい」とヨハネが指し示していることが大切なのです。

  (3) ヨハネ福音書の中でのイエスの第一声は「何を求めているのか」(38節)というものです。「○○しなさい」でも「○○するな」でもなく、相手の求めていることに耳を傾け、それを受け取ろうとしてくださる言葉です。イエスはわたしたち一人一人にもまずそう問いかけてくださっているのではないでしょうか。
 これに対する二人の答えは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」というもので、質問に対する答えの形にはなっていません。「ラビ」はヘブライ語で教師に対する尊敬を表す呼び名です。38-39節にある3回の「泊まる」はギリシア語では「メノーmeno」という言葉が使ってありますが、この言葉はヨハネ福音書の中で大切な使われ方をしています。

  (4) 典型的なのはヨハネ15章です。「1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。・・・4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。ここで「~につながっている」と訳されているのは「メノー・エン」です(「エンen」は「~のうちに」という意味の前置詞)。これは15章9節以下では「~のうちにとどまる」と訳されます。「9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」つまり、「メノー」はヨハネ福音書の中で父とイエス、イエスとわたしたちの深い結びつきを表す特別な言葉だと言えます。だとすれば「どこに泊まっておられますか」は単に滞在先をたずねているだけでなく、「あなたはいったいどういう方か。神とどのような関係にあるか」という問いでもあるのです。また、この問いはもっと単純に「あなたのおられるところにわたしたちも行きたい。そして、あなたとともに時を過ごしたい」という意味だと考えることもできます。そう考えれば、この言葉は「何を求めているのか」とイエスから問いかけられたわたしたちの答えにもなりうると感じられるでしょう。
 イエスは「来なさい。そうすれば分かる」 (別訳では「来て、見なさい」)と言います。これもわたしたちに向けられた招きの言葉として受け取ることができるでしょう。

  (5) 福音書は直接イエスに出会った人たちが書いたものではなく、イエスに出会った人々の思い出が人から人へと語り継がれ、最終的に今の形で書き記されたと考えられます。ヨハネ福音書を最終的に書いたのも使徒ヨハネではないと考えられていますが、著者が使徒ヨハネから伝えられた古い伝承を用いていると考えることはできるでしょう。この箇所も、使徒ヨハネ自身のイエスとの最初の出会いの記憶に基づいているのでしょうか。
 「午後四時ごろのことである」という言葉は「その日は、イエスのもとに泊まった」の理由だと考えることもできますが、それだけでなく、夕方に近い午後の日差しの中でイエスと初めて出会った、その感動と強烈な印象を伝えている言葉なのかもしれません。それは何十年経っても昨日のことのように思い出せる印象的な出会いの時だったのでしょう。
わたしたちにとっての「午後四時」と言えるような体験があるでしょうか。




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Posted on 2018/01/05 Fri. 10:05 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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主の公現 (2018/1/7 マタイ2章1-12節)  


教会暦と聖書の流れ


 本来は1月6日が公現の祭日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では1月2日から8日までの間の日曜日に移して祝われます。「公現」はギリシア語では「エピファネイアepiphaneia」で「輝き出ること」です。イエスにおいて神の栄光の輝きが現れたこと、イエスが神の子キリストとして現されたこと、それは待降節・降誕節全体の大きなテーマだと言えます。福音は毎年同じ箇所で、マタイ福音書の話が読まれます。マタイはルカとはまったく違うイエスの幼年時代の物語を伝えています。無理やり1つの物語にしてしまうより、それぞれの物語を通して神が語りかけているものを受け取るとよいでしょう。


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  (1) 「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」や「3人の王」のイメージが強くあります(3人という数は聖書には書かれていません。贈り物の数からいつの間にか3人ということになったようです)。この「占星術の学者」と訳された言葉はギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人、の意味です。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われています。この人たちについては2つの見方があることを考慮しておくとよいでしょう。1つは、天文学を究めた当時最高の知識人という見方。もう1つには、ユダヤ人にとっては、怪しげな異教徒で、まことの神を知らない人々という見方です。もちろんどう見るかによってこの箇所全体のイメージが変わってきます。どちらが正しいか、というよりも、2つの見方の両方でそれぞれに味わってみると聖書の読み方が豊かになるのではないでしょうか。

  (2) ベツレヘムはエルサレムの南7kmほどのところにある町です。マタイ福音書はイエスがベツレヘムでお生まれになったことを、旧約の預言の成就と見ています。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、「ダビデの子孫である理想的な王=メシア」はベツレヘムで生まれるという伝承がありました。6節で引用されているミカ書もそのひとつです。ヘブライ語原文からの訳である新共同訳聖書のミカ5章1節は次のようになっています。
 「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
  お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」
 ミカは紀元前8世紀の南ユダ王国で活動した預言者です。ミカは当時さびれていたベツレヘムの町(いと小さき者)から救い主が誕生すると預言し、人間の思いを超えた神のすばらしい計画を見ていますが、マタイはこの町の重要性を考えて「いちばん小さいものではない」と変えているようです。

  (3) ヘロデは紀元前37~前4年、王としてパレスチナを支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたので、ユダヤ人からは正統な王と認められませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。この箇所の後に、この幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の幼児を大量虐殺した話があります(マタイ2章16-17節)。
  「メシア=キリスト=油注がれた者」という言葉には、いつもこのように「王」のイメージがあります。ただ、「イエスが王である」ということの本当の意味は、降誕物語だけでなく、その生涯全体を見つめなければ見えてきません

  (4) 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができるでしょう。2000年前にユダヤやガリラヤに始まった救いの知らせは、今の極東のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを頭の中で思い巡らせてみたらよいかもしれません。このわたしはどうやって(だれから)この福音を受け取ったのか、そこからさかのぼっていくと2000年の歴史の中でどのようにこの福音が広がってきたかが見えてきて、そこに神の大きな救いの計画を見いだすことができるのではないでしょうか。
 
  (5) 「拝む」という日本語はほとんど死語になっているかもしれません。ギリシア語の「プロスキュノーproskyno」には本来「~に対してキスする」という意味があります。人間に対しても用いられることがあります(使徒言行録10章25節)が、原則としては神または超越的存在に対する礼拝の意味で用いられる言葉です。「黄金、乳香、没薬」それぞれにシンボリックな意味を見ることもできますが、単に敬意を表す贈り物と考えてもよいでしょう。彼らは精一杯の敬意と賛美と喜びをこの幼子に示したのです。
 学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。ふだん信仰心など持っていないようにみえる日本人が、正月には初詣に行ったり、初日の出を拝んだりするのは、そこに何かしら超越的なものを感じているからでしょう。それらを「間違った信仰心」と言えるでしょうか。自分たちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という心はすべての人の中にある共通のものでしょう。そういう意味で、キリストを信じるわたしたちはキリスト信者ではない多くの人々との連帯を感じることができるのではないでしょうか。




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Posted on 2017/12/29 Fri. 13:50 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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聖家族 (2017/12/31 ルカ2章22-40節)  


教会暦と聖書の流れ


 降誕祭の後、一年の最後の主日は聖家族の祝日です。朗読箇所は、3年周期でいろいろな箇所が読まれることになっています。A年はマタイ福音書からイエスの家族のエジプトへの避難の話(マタイ2章13-15,19-23節)が、C年にはルカ福音書からイエスが神殿で迷子になる12歳のときのエピソード(ルカ2章41-52節)が読まれます。今年(B年)は誕生から40日目の「幼子イエスの神殿での奉献」の場面です。伝統的にイエス、マリア、ヨセフの家族は「聖家族」と呼ばれ、わたしたちの家庭の模範とされてきましたが、教会の暦の中では、降誕祭の余韻として、イエスの幼・少年時代の出来事を味わう日になっているのです。


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  (1) この箇所の直前、ルカ2章21節には、「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。割礼は、男子の包皮を切り取る儀式ですが、ユダヤ人にとっては、これによって神の民の一員となることを表す儀式でした。旧約聖書には次の規定がありました。
 「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚(けが)れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」(レビ記12章2-4節)。
 ですから、22節の「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」とは誕生から40日後ということになります。ところで、この「彼らの清め」の「彼ら」とは誰か、という問題があります。普通に考えれば産婦であるマリアのことですが、なぜ複数形なのでしょうか。ここには、「マリアの清め」と「イエスの奉献」という二つのことが同時に考えられているからでしょうか。
 
  (2) 23節「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」は、出エジプト記13章2節などからの引用です。この「聖別される」は、直訳では「聖なる者と呼ばれる」です。「山鳩一つがいか、家鳩の雛(ひな)二羽をいけにえとして献げる」は、レビ記12章6-8節に基づいています。このいけにえは本来は「一歳の雄羊一匹」と「家鳩または山鳩一羽」ですが、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合」として鳩だけのいけにえも認められていました(12章8節)。ということは、マリアとヨセフは貧しかったということになるでしょう。
 とにかく、ヨセフとマリアは律法の規定どおりにすべてを行なったということが何度も繰り返され、強調されています。

  (3) シメオンは正しい人で、信仰があつく、聖霊に満たされています。「慰められること」はギリシア語で「パラクレーシスparaklesis」と言い、元の意味は「そばに(助けを)呼ぶこと」です。ここでの「慰め」とは、メシア(救い主)の到来を意味しています。シメオンは幼子を見て、「主が遣わすメシア」だと確信しました。そして、28-31節で神を賛美し、33-35節でイエスの家族を祝福します。実はこの「賛美する」と「祝福する」は、ギリシア語では同じ「エウロゲオーeulogeo」です。もともとは「よい言葉を言う」ことを意味しますが、それが神に向かえば「賛美」となり、人に向かえば「祝福」となるのです。
 救いの光を強調する賛美の言葉に続いて、マリアに向かって語られた言葉は、幼子イエスの将来について厳しい面を表しています。「倒したり立ち上がらせたり」というのは石のイメージでしょうか。ほんとうに頼りになる「貴い隅(すみ)の石」(イザヤ28章16節)でも、ある人にとっては同じ石が「つまずきの石」(イザヤ8章14節)になってしまうのです。そしてつまずいた人々によって「反対を受ける」ことになります。このイエスの受難に母マリアがあずかり、苦しみを共にすることになる、というのが「あなた自身も剣(つるぎ)で心を刺し貫かれます」という言葉の意味でしょう(ヨハネ福音書はイエスの十字架のかたわらに立つマリアの姿を伝えています。ヨハネ19章25-27節)。

  (4) アンナは女預言者と呼ばれています。彼女の役割は「エルサレムの救いを待ち望んでいた人々皆に幼子のことを話した」ことです。ここで「救い」と訳されている言葉はギリシア語の「リュトローシスlytrosis」で「あがない、解放」の意味を持つ言葉です。
 身寄りのない「やもめ」は初代教会の中でも、祈りに専念する役割を与えられ、保護されていました。「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます」「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」(Ⅰテモテ5章5,9-10節)。アンナはこのようなやもめたちの原型であり、理想像でもあると言えるでしょう。

  (5) シメオンやアンナが高齢者として描かれているのは、救いを待ち続けた旧約の長い時代を感じさせ、その完成の時を印象づけます。また、きょうの箇所で「主の律法で定められたことをみな」忠実に行っていると何度も繰り返されていることも、神の救いの計画を感じさせる表現でしょう。ルカ福音書はこの物語を伝えながら、イエスによる待望の成就、神の計画の実現、救いの時代の到来を表現しようとしているのです。
 同時に、このシメオンやアンナの姿にわたしたち自身を重ね合わせてみることもできるでしょう。29-31節のシメオンの言葉は、「シメオンの歌」と言われて、教会の祈りの「寝る前の祈り」で唱えられています。シメオンの祈りは、イエスとの出会いの中で「安らかに(平和のうちに)」憩うことを願うわたしたち自身の祈りでもあります。わたしたちの人生の歩みの中にも、やはり聖霊の導きがあるのではないでしょうか。その導きによってこそ、シメオンやアンナのようにイエスに出会う喜びを味わうことができるのです。




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Posted on 2017/12/22 Fri. 10:40 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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