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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第32主日 (2018/11/11 マルコ12章38-44節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ福音書では11章のはじめでイエスはエルサレムの町に入り、神殿の境内でさまざまな人と出会いました。商売をしている人、祭司長・民の長老・律法学者、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派という人々です。彼らは当時の社会の中で富や権威を持っている人々でしたが、彼らとイエスとの対立は深まるばかりでした。唯一イエスが評価したのが、最後に出会った一人の貧しい「やもめ」の姿です。イエスはこの後、13章で神殿を出て行き、その東にあるオリーブ山から神殿を眺めながら、弟子たちに向けて神殿の崩壊を予告し、「決して滅びない」(13章31節)ものへの信頼を説いていくことになります。


福音のヒント


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  (1) イエスの時代のエルサレムの神殿には多くの富が集まっていました。そこには祭司やサドカイ派など神殿と結びついた裕福な人々がいました。サドカイ派の中にも律法学者はいましたが、律法学者の多くはファリサイ派に属していました(マルコ2章16節参照)。ファリサイ派は律法とそれを何世代もの学者が細かく解釈していった「口伝(くでん)律法」を大切にし、厳密に守ろうとした派です。中でも律法に精通していた律法学者は、律法によって民衆を指導していたので、人々の尊敬を集めていました。

  (2) イエスの律法学者やファリサイ派の人々に対する数々の批判は、マタイ23章1-36節やルカ11章39-52節にも伝えられています。マルコのこの箇所で、イエスは何を批判しているのでしょうか。それは結局のところ、彼らの行動のすべてが「人に見せるため」(マタイ23章5節参照)だということでしょう。彼らは祈りまでも人に見せびらかし、自分が他の人々より優位に立つための手段にしてしまっているというのです。
 福音書の中でこのような律法学者への批判が語られるとき、それは教会の指導者への警告でもあります。いや、特別な指導者だけでなく、この律法学者の姿は、わたしたち皆の生き方への警告だとも言えるでしょう。自分は人からどう評価されているか、少しでも人から評価されるためにはどうしたらいいか? わたしたちもそのような思いから完全に自由だとは言えないでしょう。しかし、そこにとどまっている限り本当の意味での神とのつながり、人とのつながりを生きることにはならないのです。
 この批判の中には「やもめの家を食い物にする」(40節)という言葉が出てきます。これは41節以下のやもめの話との関連でマルコが別の伝承から挿入した言葉でしょうか。やもめにとって夫の遺産の相続問題は死活問題だったでしょう。このような遺産相続などのもめごとの裁定も律法学者の役割でした。やもめの弱い立場に付け込んで当時の律法学者たちは自分の利益を上げていたということなのでしょう。

  (3) この律法学者と正反対の立場にいたのが「やもめ=寡婦(かふ)」でした。聖書の中で、寡婦は、寄留の他国人や孤児と並んで、いつも社会的弱者の代表です。
 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」(出エジプト記22章20-22節参照)。
 寄留者とは、周囲に自分を守ってくれる同胞のいない人々です。孤児は自分を守ってくれる親がいない子どもであり、寡婦は古代の男性中心の社会の中で自分を守ってくれる夫を失った人でした。彼らの後ろ盾は神しかいないのです。そしてだからこそ、この人々を大切にすることを律法は要求していたのです。

  (4) 当時の神殿の境内には、神殿の建物から一番遠いところに「女性の庭」と呼ばれる部分があって、女性はそれより奥には入れませんでした。この女性の庭にあった賽銭箱(さいせんばこ)は、13個のラッパ型をした雄牛の角(つの)が並んでいたものだったそうです。今回のイラストはその想像図ですが、正確な形はよく分かりません。レプトン銅貨はユダヤの最も小額の貨幣で、その価値は1デナリオンの128分の1でした。1デナリオンは1日の日当と言われていて、その128分の1ですから、今でいえば、せいぜい50円玉1枚ぐらいの価値でしょうか。なお、クァドランスはローマの青銅貨で、1デナリオンの64分の1(1レプトンの倍)にあたります。イエスが賽銭を入れる様子を見ていたというのは、不思議な感じがしますし、なぜ、このやもめの献金が彼女の生活費の全部だと分かったかというのも不思議です。しかし、もちろん、この箇所ではそういうことは問題ではなく、神の前での人間の真実のあり方が問われているのです。

  (5) 彼女が賽銭箱に入れたものは「生活費のすべて」(44節)と言われていますが、「生活費」と訳されたギリシア語の「ビオスbios」には「人生」「生活」の意味もあります。「生活のすべてを神に差し出した」と受け取ることもできるでしょう。
 全財産を差し出してしまえば、残るものは何もありません。このやもめの献金はやはり無謀でしょうか? この日のミサの第一朗読で読まれる列王記上17章の物語も似ています。干ばつの中で預言者エリヤからパン一切れを差し出すように求められたサレプタのやもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「主が地の面(おもて)に雨を降らせる日まで/壺(つぼ)の粉は尽きることなく/瓶(かめ)の油はなくならない」(列王記上17章14節)という神の言葉が実現した、というのです。すべてを差し出したところに神の救いの力が働くという体験がわたしたちの中にもあるでしょうか。いや、そもそもイエスの受難・死・復活の道こそが、まさにそういう道だったとも言えます。
 神殿で出会った商人や金持ち、社会的・宗教的指導者たちの姿にイエスは心を動かされませんでした。彼らの生き方とイエスの生き方はあまりにもかけ離れていました。イエスが最後に出会ったのがこの貧しい女性です。そしてイエスはこの人の姿以外に、神殿に真実なものは何もなかった、と言うかのように、神殿を後にしていきます(マルコ13章1節)。




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Posted on 2018/11/02 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第31主日 (2018/11/4 マルコ12章28b-34節)  


教会暦と聖書の流れ


  先週の福音(マルコ10章46-52節)の舞台はエリコでしたが、きょうの箇所はかなり飛んでいて、エルサレムの神殿の境内での場面になっています。その間に、イエスはエルサレムに入り、当時の宗教的・社会的指導者たちとの間でさまざまな対話をしました。これらの対話は、3年周期の主日のミサの朗読配分の中で、A、B、C年に割り振られていて、今年(B年・マルコの年)は、それらの対話の結びにあたるこの箇所だけが読まれます。


福音のヒント


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  (1) イエスがエルサレムの神殿の境内で対話した相手は、祭司長・律法学者・長老(11章27節以下)、ファリサイ派・ヘロデ派(12章13節以下)、サドカイ派(12章18節以下)などで、皆、当時のユダヤ人社会の宗教的・社会的な指導者たちでした。多くの対話はイエスに対して攻撃的な内容なので「論争物語」とも言われますが、きょうの箇所は論争とは言えません。イエスとここに登場する律法学者の意見は一致しているからです。

  (2) 29-30節の「イスラエルよ、聞け・・・」は、申命記6章4-5節の引用です。申命記ではこれに続いて次の言葉があります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額(ひたい)に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6章6-9節)。この箇所がいかに大切にされていたかが分かります。今回のイラストに描かれているのは、この申命記6章4-9節などの聖句を記した小さな羊皮紙の入った小箱を額と腕につけたユダヤ人の姿です。このような習慣はイエス時代にすでにあり、福音書の中で「聖句の入った小箱」(マタイ23章5節)と言われているものがこれにあたります。この申命記6章4-5節が最も大切な掟であることは、ユダヤ人の誰もが認めていたことでしょう。
 神を愛するとはどういうことでしょうか。キリシタン時代の人は「神の愛(ラテン語のカリタスcaritas)」のことを「御大切(ごたいせつ)」と訳したと言われます。「愛」とは「大切にすること」だといえば、日本語としてはもっとも分かりやすいかもしれません。

  (3) もう1つの掟「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記19章18節にあります。新共同訳聖書では、レビ記17-26章のはじめに「神聖法集」という見出しが付けられていて、この部分が大きな1つの律法集であることが分かります。19章はその中心ともいえる箇所です。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19章2節)という言葉にこの神聖法集の根本的な考え方が表れています。「聖」であることとは、単に祭儀的な意味での「聖」ではなく、むしろ対人関係において神のように「貧しく弱い立場にいる人を大切にすること」が求められています。その中にこの隣人愛の掟があります。
 「隣人」という言葉は確かに近い人々を表す言葉です。ルカ10章では「隣人とは誰か」が問題になり、イエスは有名な「善いサマリア人」のたとえを語ることになりました。

  (4) レビ記も決して同胞だけを愛すればいいと教えてはいません。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19章33-34節)。
 ここで大切なのは、「寄留者を愛せ」という掟の根拠は、神がエジプトに寄留していたイスラエルの民の苦しみを見、叫び声を聞き、痛みを知り、救ってくださった神の救いのわざ(出エジプト記3・7参照)だということです。つまり、あなたがたには寄留者の苦しみが分かるはずだから、寄留者を大切にしなさい、ということであり、同時にまた、神が愛してくださったように、あなたがたも愛すべきだ、ということでもあります。
 イエスの時代のファリサイ派や律法学者の問題は、掟を守ることによって神の救いにあずかることができると考え、自分の力で救いを勝ち取ろうとしたことでした。掟の前提にすべての人を救ってくださる神の愛があることを忘れ、自分の力に頼ろうとした結果、彼らは神との生きた関係を見失い、また、貧しく律法を知らない人々を「罪びと」として切り捨てることになってしまったのです。イエスが批判したのはまさにこの点でした。
 
  (5) 律法学者は「第一の掟」についてたずねますが、イエスは2つの掟を語りました。この2つの掟を結び付けたことは確かにイエスの考えをよく表しているでしょう。ただし、この2つを最も大切な掟だとする考えはイエスだけのものとも言えないようです。実際、ルカ10章でこの2つの掟を語るのはイエスではなく、律法学者のほうです。
 この箇所でも最も重要な掟について、イエスと律法学者の意見は一致しています。イエスの言う「あなたは神の国から遠くない」(34節)という言葉は、律法学者の答えを評価するものですが、神の国を明確に約束しているとも言えません。問題は掟をどう考えるかではなく、その掟をどう生きるか、です。マルコ福音書の中で神の国が明確に約束されるのは「幼子」でした(10章14-15節)。イエスが指し示しているのは、神の愛に対する幼子のような信頼を持ったとき、神と人への愛が沸き起こってくるという世界なのでしょう。
 マルコはこの対話で、11章27節から始まった当時の宗教的指導者たちとイエスとの対話を締めくくります。「もはや、あえて質問する者はなかった」(34節)。誰もイエスに反論できませんでした。しかし、彼らの多くがイエスに対して抱いていた反感は変わりません。本当の対立は、議論の中身ではないのです。律法の基準に基づく自分たちの地位や名誉を守ろうとした当時の社会的・宗教的指導者たちと、すべての人の父(アッバ)である神に信頼し、貧しく小さな人々とともに歩むイエスの生き方が対立しているのです。




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Posted on 2018/10/26 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第30主日 (2018/10/28 マルコ10章46-52節)  


教会暦と聖書の流れ


 イエスのエルサレムへの旅は、ガリラヤに始まり、ヨルダン川を下ってきて、エリコの町に到着しています。ここまでは130kmほどで、エリコからエルサレムまでは残り30km足らずです。マルコ福音書では、この話の後(11章)はもうエルサレム入りの場面ですので、エルサレムへの旅も終わりに近づいていることになります。イエスに従うことのできなかった金持ちの男(10章17-22節)やイエスの受難の道を理解していなかった弟子たち(10章35-45節)の姿と対照的に、イエスに従っていったバルティマイの姿が伝えられています。


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  (1) 47節でバルティマイは、イエスのことを「ダビデの子」と呼びますが、これは彼自身がそう考えたというよりも、彼が聞いていた周りの人々の噂だったのでしょう。ダビデは紀元前1000年ごろのイスラエルの王で、「ダビデの子」というメシア(救い主)の呼び名には、ダビデ王の再来である理想的な王のイメージがあります。ローマ帝国の支配下にあった当時のユダヤでは、ローマの支配を打ち破り、ユダヤ人を解放してくれる王を意味していました。イエスに対するこのような期待は、イエスがエルサレムに近づくに従って膨れ上がっていたようです(マルコ11章10節参照)。
 「わたしを憐れんでください」は物乞いをするときにいつもバルティマイが使っていた言葉なのでしょうか。イエスの周りにいた人々はこのバルティマイを黙らせようとします。王・メシアかもしれないイエスは重要人物で、何の役にも立たない「盲人の物乞い」など用がないと人々は考えたのです。しかし、イエスは彼の叫びを聞きます

  (2) 49節の「安心しなさい」はむしろ「勇気を出しなさい」と訳したほうが原文のニュアンスに近いでしょう。「お呼びだ」と訳された言葉は、直訳では「彼があなたを呼んでいる」です。
 50節「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」はバルティマイが「盲人の物乞い」であったことを思えば、たいへんなことでしょう。この上着はおそらく彼の唯一の財産でした。そして、彼は目が見えないのですから、ふだんはそれを肌身離さず持ち歩き、歩くときは事故のないように細心の注意を払いながら歩いていたはずです。それなのに彼は、自分の持ち物も自分の安全も手放すかのようにイエスのもとに向かいます。
 それは「イエスが自分を呼んでいる」と知ったからです。この方は自分を邪魔者扱いしない。すべての人に邪魔者扱いされる中で、イエスという方だけは自分に目を留め、自分を呼んでくださる! バルティマイのこの喜びを感じとることができるでしょうか。

  (3) イエスはバルティマイに「何をしてほしいのか」と問いかけます。10章36節でイエスが弟子のヤコブとヨハネに聞いたのと同じ問いです。自分たちに高い地位を約束してほしい、というヤコブとヨハネの願いにイエスは答えませんでした。しかし、バルティマイの願いには答えます。バルティマイの願いは「先生、目が見えるようになりたいのです」というものでした。これも自分の利益を求める願いではないでしょうか。二人の弟子の願いとバルティマイの願いは、どこが違うのでしょうか。確かに言えるのは、バルティマイの願いは単なる願望以上のもの、苦しみの中からの必死の叫びだったということです。イエスは受難と死に向かう旅の最後まで、このような叫びに耳を閉ざすことはないのです。

  (4) 「あなたの信仰があなたを救った」は、マルコ福音書では、5章34節で出血の止まらない病気がいやされた女性に向かって言われた言葉でした。この「信仰」は、「イエスはダビデの子である」と信じるような頭の中の信仰ではありません。「この方ならなんとかしてくださる」という必死の思いでイエスに向かっていった態度そのものです。自分の希望と信頼のすべてを神とイエスにかける、と言ってもいいかもしれません。
 52節の「なお道を進まれるイエスに従った」は、直訳では「その道の中でイエスに従った」です。この道はもちろんイエスのエルサレムへの道、受難と死に向かう道です。バルティマイは「行きなさい」と言われたにもかかわらず、イエスに従うことを選びました。 このバルティマイの姿は、結局のところ財産を頼りにしてイエスに従うことのできなかった金持ちの男や、自分たちの栄誉を求めていた弟子たちの姿とはっきりと対比されています。マルコ福音書はバルティマイの中に「十字架への道を歩むイエスに従う弟子」の典型的な姿を見ていると言えるでしょう。
 ただし、イエスに従っていた弟子たちはイエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまっています(マルコ14章50節)からバルティマイはその時どうしたのか、と考えたくなるかもしれません。マルコ福音書はこれについて何も語っていません。ただマルコは、今日の箇所でこの人をはっきりと「バルティマイ」という名で紹介しています。マタイやルカにもこの話は伝えられていますが、いやされた人の名前はありませんし、そもそもイエスによっていやされた人の名前が伝えられていることはめずらしいことです。もしかしたら、バルティマイは、マルコのいた教会の中で知られていた人物だったのではないでしょうか。だとしたら、彼はこの出会いをきっかけに、生涯イエスに従い続けたと想像することができるでしょう。

  (5) バルティマイはイエスに出会って救われた、という喜びと感謝の心からイエスに従いました。十字架への道を歩むイエスに従うということは、おそらく能力や努力の問題ではないのです。イエスの弟子たちは最後までイエスに従うことができませんでしたが、それで終わりになったのではなく、復活したイエスとの出会いによって、再び弟子として歩み始め、そして多くの弟子が殉教していくことになりました。彼らを突き動かしていたものも、復活したイエスが自分たちに姿を現し、声をかけ、再びご自分の弟子として受け入れてくださった、という喜びと感謝ではないでしょうか。
 もしも、わたしたちの中にもそういう経験があったとすれば、バルティマイの物語は、今のわたしたち自身の物語になるに違いありません。




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Posted on 2018/10/19 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第29 主日 (2018/10/21 マルコ10 章35-45 節)  


教会暦と聖書の流れ


 場面はエルサレムへの旅の途中で、マルコ福音書の 3 回目の受難予告(10章 32-34 節)に 続く箇所です。「受難の道を歩むイエスに従う」というテーマは先週の福音(10 章 17-31 節) から続いています。これまで 2 回の受難予告同様、ここでもイエスの受難の道について無 理解な弟子たちの姿が現れていますが、この弟子たちに向けて、イエスはご自分の受難と 死の意味を最もはっきりとした言葉で告げられます。


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  (1) ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、ペトロ と並んで弟子たちの中でもっともイエスの近く にいた弟子です。彼らは「先生、お願いすること をかなえていただきたいのですが」(35節)とイエ スに話しかけます。この遠慮がちな頼み方は、彼ら自身、自分たちの願いがイエスの思いとは違うかもしれないという予感を持っていたことを表しているのでしょう。二人の願いは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というものでした。イエスが何度もご自分の受難を予告していたにも関わらず、彼らはそれを受け 入れることができず、ただイエスが栄光を受けることしか考えていません。二人の願いは、 その栄光のときに、他の弟子を差し置いて自分たちに特権的な地位が与えられるように、 という願いです。
 「(さかずき)」は普通、救いと喜びのシンボルです。しかし、日本語にも「苦杯をなめる」 という表現があるように、苦しみのシンボルにもなります。ここではもちろん「苦しみの 杯」の意味です。「洗礼」もキリスト者にとっては救いと喜びのシンボルですが、洗礼(ギリシア語の「バプティスマbaptisma」)の元の意味は「水に沈めること、浸すこと」ですから、死のイメージもあります。ここでは「死」のイメージで語られています。イエスは、 自分と同じ苦しみと死を引き受けることができるか、と問いかけているのです。

  (2) 二人の弟子はどこまでこの言葉を理解していたのか分かりませんが、39節で「できます」と答えます。イエスの栄光にあずかるためなら、彼らはどのような苦しみにも耐 える覚悟ができていたのでしょう。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わた しが受ける洗礼を受けることになる」。ヨハネの最期は聖書に伝えられていませんが、ヤコブは後に殉教したと伝えられています(使徒言行録12・1-2)。しかし、イエスは報いとし ての地位を彼らに約束しません。「定められた人々にゆるされる」というのは、「神がお決めになることだ」という意味で、それはあなたにもわたしにも関係ない、と言うのです。
他の10人は腹を立てます。彼らが腹を立てたのは、自分たちも同じようなことを考えているのに、ヤコブとヨハネが抜け駆けしようとしたからでしょう。そうでなければ腹を立てる必要はないのです。「人よりも先になりたい、上に立ちたい」という願望がいかに強いかを感じさせられます。そこから自由になることは簡単ではないのです。

  (3) 「異邦人」は「あなたがた(弟子たち)」と対比させられていますから、ここでは 「神やキリストを知らない人々」の意味だと言えるでしょう。「支配し」「権力を振るっている」は明らかに悪い意味で、人々を苦しめる権力の乱用のことです。
 「仕える者」はギリシア語で「ディアコノスdiakonos」です。「仕える」は「人のために働くこと」を表す言葉です(なお今のカトリック教会で使われる「助祭」という言葉の原語がこれです)。「僕(しもべ)」はギリシア語では「ドゥーロスdulos」で、こちらは働きの内容よりも「主人」との関係を表す言葉です。ここでは両方とも同じような意味で使われています。「仕える」「僕になる」という言葉には、「人のためにサービスする」という面がありますが、もう一つには「自分を低くする、自分を無にする」という面もあると言えるでしょう。

  (4) 45節のはじめには、新共同訳聖書では翻訳されていませんが、「なぜなら」という言葉があります。ここで弟子たちが「仕える者」「僕」になるべき理由が示されるのですが、それはイエスご自身の生き方がそうだから、ということになります。この45節は、 マルコ福音書の中でもっとも明確にイエスの使命と死の意味が語られる箇所です。
 イエスが来たのは「仕えるため」でした。これは生涯の最後の受難に向かう歩みだけで なく、これまでのイエスの歩み全体を貫く姿勢を表しています。「身代金」と訳された言葉はギリシア語で「リュトロンlytron」です。本来は奴隷を解放するために支払う代金のことを意味したので「身代金」と訳されています。しかし、この言葉はイスラエルの歴史をとおして、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放した、その神の救いのわざを指すようにもなりました。イエスの死は人々を解放し、命に導くためのものです。
 なお「多くの人」という言葉は、日本語では「すべての人ではない」というニュアンスに聞こえてしまうかもしれません。しかし、元のアラム語では「すべての人」の意味も含まれているそうです。イエスの十字架がもたらす救いを特定の人々だけに限定して考えることはできないでしょう。

  (5) マルコは生き方全体から死だけを切り離して、そこに意味があるというのではなく、イエスの死を「仕える」というイエスの生き方の頂点として示しています。このことは大切です。だからこそ、マルコはイエスのなさったこと一つ一つをていねいに伝え、わたしたちがその生き方をしっかり見つめるように促しているのだ、と言えるでしょう。
 「仕える」「僕になる」という生き方は、現代では流行(はや)らない生き方でしょうか。 わたしたちの社会は、「人は皆、平等であり、皆、上昇志向があり、だから競争に勝つことが大切で、結局勝った者が得をする」という社会だと言えるかもしれないからです。イエスはそのような考え方、生き方に挑戦してきます。「仕える者になる」「僕になる」という生き方の中にこそ、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりがあるのだ・・・。わたしたちはこのイエスの言葉をどのように生きることができるのでしょうか?




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Posted on 2018/10/12 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第28主日 (2018/10/14 マルコ10章17-30節)  


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 マルコ福音書の2回目の受難予告(9章31節)の後、受難の道を歩むイエスに従うとはどういうことかを示す言葉や物語が続いています。きょうの箇所の冒頭の「イエスが旅に出ようとされると」はガリラヤからエルサレムへの旅のことです。ここでは、「イエスに従う」ということが、よりはっきりとしたテーマとして表れています。


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   (1) ある人がイエスに「善い先生」と呼びかけ、教えを乞います。この人はイエスの素晴らしさを認め、その教えを聞こうとしてイエスに近づいてきたようです。しかしイエスはなぜか「善い」という言葉にこだわります。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)。イエスは「善い者」であるはずですから、不思議に思われるかもしれませんが、イエスはここでこの人の心を、イエス自身にではなく、次節の神の掟に向けさせるために、あえてこう言っているようです。
 19節の「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」は十戒の言葉です(出エジプト記20章12-16節、申命記5章16-20節)。十戒は神に救われた民の「神との関係、他の人との関係」の根本を規定したものですが、ここではその後半の人間関係についての掟が引用されています。この人は「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と言います。この人は道徳的に見て立派な人だったのでしょう。
 イエスはこの人に対して「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と言い、財産をすべて貧しい人に施し、イエスに従うことを求めます。この厳しさはなんでしょうか。イエスご自身が受難への道を歩み始めていることと関係があるのでしょうか。
 イエスの要求の厳しさは、精一杯受け止めるべきでしょう。実際に2000年のキリスト教の歴史の中で、多くの人がこのようなイエスの呼びかけにまともに応えようとしました。キリスト教とはそういう人々の歩みそのものだと言ってもよいのです。

  (2) ただし、だからと言ってイエスの呼びかけに応えられない自分はダメだと決めつけるべきでもないでしょう。イエスはこの金持ちの男のすべてを否定したとは思えません。「慈しんで」(21節。ギリシア語で「アガパオーagapao」)という言葉には、イエスの深い愛が感じられます。また、イエスはすべての人にこのような要求をしているわけでもありません。ルカ19章1-10節に徴税人の頭(かしら)で金持ちであったザアカイの物語があります。ザアカイはイエスに出会い、救いを受け取ったとき、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。イエスはザアカイのこの決意を良しとしています。なぜ、きょうの箇所では「すべてを捨てて、貧しい人に施す」ことが要求されているのでしょうか?

  (3) イエスはこの男に「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と言います。それはこの人の生き方の問題に気づかせるためだったのではないでしょうか。イエスの言葉を聞いて、彼は「悲しみながら立ち去」りました。こうして、彼が「自分の財産」を頼りにしていたことが明らかになってしまうのです。
 25節の「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という言葉は、もちろん、それが不可能だ、という意味です。これを聞いて、弟子たちは驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言います。当時のユダヤ人にとって、財産は神の祝福のしるしでした。また、ある程度の財産があり、生活に余裕がなければ、律法に忠実な生活を送れないという考えもあったでしょう。イエスはそのような考えとまったく違うことを言っています。なぜでしょうか。それはもちろん、財産があれば、自分の財産を頼りにして、神に信頼する生き方を見失うということを意味しているのでしょう。

  (4) イエスが常に指し示していたのは、すべての人の父(アッバ)である神への信頼に生きることでした。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)という言葉は当たり前のことを言っているようですが、実は大切なことを言っています。救いの根拠は「人間にできること」ではなく「神の愛」なのです。ここに登場した金持ちの人は、永遠の命を得るために「自分に何ができるか」ということを考えていました。それは「富や功績があり、その上何をすれば?」という「人間にできること」の世界でした。イエスが「善い」という言葉を退けたのも「自分の善い生活」を自負したこの人に、それが本当に頼りになるものではない、と気づかせるためだったのかもしれません。この人に必要だったのは、神に信頼し、兄弟の必要に心を開くことだったのです。ザアカイの場合は、罪びとの自分を愛してくださるこの神の救いをイエスとの出会いによって知りました。だから、感謝と喜びのうちに財産を手放す決意をしたのです。
 
  (5) ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)と胸を張ります。イエスはご自分に従う者の受ける報いを約束しますが、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(31節)とも言います。ここでもほんとうは人間の功績の問題ではないのです。神はすべての人を愛し、救ってくださる方、だから、誰が一番ということではないのだ、ということになります。
 ところで29-30節で、捨てるものの中にあって、「今この世で」受けるものにないのは「父」だけです。これは「本当の父は、天の父である」ということなのかもしれません。
 「捨てることによって、受ける」ということは言葉で説明できることではないでしょう。むしろわたしたちが実際に、福音のために何かを捨てたという経験があれば、そこでもっと豊かなものを受けたという体験もあるのではないでしょうか。
福音は自分を誇ったり、自分を責めたりするためにあるのではありません。わたしたちをより豊かな生き方に招くためのものです。わたしたちが本当に頼りにしているものは何でしょうか? 今のわたしにとって、イエスに従うとはどういうことなのでしょうか?




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Posted on 2018/10/04 Thu. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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