福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

受難の主日 (2018/3/25 マルコ15章1-39節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦では、この週の木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度3日間かけて、イエスの「受難・死から復活のいのちへ」という「過越(パスカ)」を記念します。毎年この中の聖金曜日の典礼でヨハネ福音書の受難朗読が行われます。一方、主日のミサでも、復活の主日の前の週の日曜日に、イエスの受難を記念します。こちらは3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれます。今年はマルコで、長い形としてマルコ14章1節~15章47節を読むこともできます。
 なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。


福音のヒント


20180325.png
  (1) マルコ14章53-64節に、ユダヤ人の最高法院での裁判が伝えられています。そこでイエスは、「神の子、メシア」であると自称した罪で死刑判決を受けました。きょうの箇所は、ローマ総督ピラトのもとでの裁判の場面から始まります。ここでの罪状は「ユダヤ人の王」というものでした。ユダヤは当時、ローマ帝国の直轄領になっていました。紀元26~36年、ユダヤ、サマリアなどの地方をローマ総督として治めたのがピラトです。つまり、ユダヤ人の王はいないはずで、誰かが「ユダヤ人の王」を自称すれば、ローマの支配に対する反逆者ということになります。「お前はユダヤ人の王なのか」というピラトの問いに対するイエスの答え「それは、あなたが言っていることです」(2節)は直訳では「あなたは言う」であって、「あなたが言っているとおりです」という賛同の意味にもとれますが、「あなたはそう言っています」つまり「それは自分には関係ない」というような意味にも取れます。いずれにせよ、イエスは最終的にローマ帝国に対する反逆者=政治犯として十字架刑に処せられました。

  (2) 「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだ・・・祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した」(15章10-11節)。マルコ福音書によれば群集はいつもイエスに好意的でした。マルコは、イエスの死の責任がユダヤ人の宗教的・社会的指導者たちにあると見ています。イエスは裁判で自分を「神の子」「ユダヤ人の王」であると言ったから死に定められたのではなく、イエスのそれまでの活動とメッセージ全体が当時のユダヤ人指導者たちの目に危険なものと映ったから死に追いやられていったと考えたほうがよいでしょう。

  (3) きょうの長い箇所の中で、イエスはたった2回しか話していません。イエスの沈黙はイザヤ53章7節を思い起こさせます。イザヤ52章13節~53章12節の「苦しむ主のしもべ」の姿が背景にあるのでしょう。上のピラトへの言葉以外にイエスが語るのは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(34節)だけです。絶望の叫びのように聞こえる言葉です。しかし、これは詩編22編の冒頭の言葉で、この受難物語の背景には詩編22編があることも確かです。十字架のイエスをののしった人々の言葉は、詩編22編9節「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう」を連想させます。また「その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」は、詩編22編18-19節の引用と言えるような文章です。
 詩編22編は苦しみのどん底からの祈りですが、単に苦しみの叫びでは終わりません。苦しみの中からの祈りは、次第に賛美と感謝に変わっていきます。それは「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御(み)顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)と確信しているからです。この詩編はイエスの時代まで、何世代にも渡って苦しみのどん底にいる人々によって歌い継がれ、イエスの後にも、多くの人がこの詩を自分の祈りとして歌い続けてきました。イエスはそれらの、苦しみのどん底にある人々の一員として死んだと言ったらよいでしょうか。

  (4) 38節の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」は神と人とを隔てているものが取り払われることを暗示しているようです。39節では、ローマ軍の将校である百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言います。この言葉は重要です。マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1章1節)という言葉で始まり、イエスを最初から神の子として紹介してきました。しかし、人間がそのことを初めて認めるのは、この、イエスが息を引き取ったこのときだったのです。マルコにとって「神の子」は力強く華々しい方ではなく、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(10章45節)方なのです。
マルコの教会がおそらく迫害の中にあったことも大切でしょう。自分たちが迫害の最中(さなか)にあり、無力でただ苦しみ、神からも見捨てられたように思ったとき、十字架のイエスもまたそうだったのだ、と感じることはどれほど大きな励ましになったことでしょう。十字架のイエスの姿は今のわたしたち一人一人に何を語りかけているのでしょうか。

  (5) マルコの受難物語では、3人の人が象徴的な役割を果たしているようです。1人は「バラバ」。イエスはある意味で彼の身代わりになって死にました。それはイエスの死によって救われたすべての人の象徴ではないでしょうか。もう1人は「シモンというキレネ人」。彼は「自分の十字架を背負って」(マルコ8章34節)イエスに従う弟子の象徴ではないでしょうか。さらに「百人隊長」。彼はイエスの死を見て、信仰告白するキリスト信者の象徴だと言えるでしょう。この3人の姿は、わたしたちを十字架のイエスに近づけるヒントになりそうです。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/03/16 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

四旬節第5主日 (2018/3/18 ヨハネ12章20-33節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節・復活節の根本的なテーマは、イエスの死と復活(=過越)にあずかることです。ヨハネ福音書はある意味で、すべての箇所がこのテーマだと言えるので、この季節によく読まれます。きょうの箇所は、第3、第4主日よりも、さらに直接的にイエスの受難と結びつく箇所です。イエスの受難の時=栄光の時が迫っています。


福音のヒント


20180318.png
  (1) 20節の「祭りのとき」は「過越祭(すぎこしさい)の期間」で、「ギリシア人」はギリシア語を話す異邦人のことを指す言葉です。異邦人からイエスに会いたいと頼まれた弟子のフィリポは、なぜかこのことを直接イエスに伝えず、アンデレに話し、二人一緒にイエスのところに行ってそれを伝えました。この回りくどいやり方は何を意味しているのでしょうか? 実際にこの異邦人たちはイエスに会ったのでしょうか? この出来事と23節「人の子が栄光を受ける時が来た・・・」以下のイエスの言葉はどうつながるのでしょうか?
 一つの考えはこうです。「弟子たちは驚き、戸惑っているが、イエスのことが異邦人にも知られ、異邦人にも救いがもたらされることが、決定的な救いの時のしるしである、とヨハネ福音書は考えている」 確かに32節にある「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」という言葉につながるかもしれません。なお、「上げられる」には「天に上げられる」と同時に「十字架の木の上に上げられる」の意味があります(先週の「福音のヒント」参照)。
 別のことも考えられます。「弟子たちは異邦人までイエスのところにやってきたのを見て、イエスの地上の名声に心を奪われていた、その弟子たちに向かってイエスはご自分の道、受難の道を予告した」 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の受難予告には、いつも「弟子の無理解」というテーマがありました。イエスが受難を予告しても弟子たちはそれを理解できないのです。この共観福音書の受難予告と同様のパターンがここにも見られるのではないか、と考えることもできるのではないでしょうか。

  (2) 「栄光」はギリシア語では「ドクサdoxa」です。この言葉には「輝き」という意味があります。ヘブライ語で栄光と訳される言葉は「カボード」です。カボードの元の意味は「重さ」だと言われます。カボードは「そのものの真の価値」というニュアンスがある言葉なのです。ヨハネ福音書は両方のニュアンスを掛け合わせ、「そのものの真の素晴らしさが輝き出ること」の意味で「栄光」という言葉を用いていると考えられます。ここでは「ドクサゾーdoxazo」という動詞の形が使われていて、「栄光を現す」(能動態 28節)、「栄光を受ける」(受動態 26節)と訳されていますが、「輝かす」「輝かされる」と訳すこともできるでしょう。ただし、それは表面的な輝きやこの世的な成功ではなく、十字架の中にある輝きなのです。

  (3) 「一粒の麦」のイメージは大切です。現代人の見方からすれば、地に落ちた麦はもちろん死ぬわけではありません。しかし、麦粒は麦粒であることを守ろうとすれば、1つの麦粒のままです。麦粒が自分を壊し、養分や水分を受け入れ、ほかのものとつながってこそ、豊かないのちが育っていきます。イエスのいのちはまさにそのようないのちでした。自分の中に閉じこもって、自分を守ろうとするのではなく、自らを壊して、神とのつながり、人とのつながりに生きようとしたいのちだったのです。この言葉は、イエスご自身のいのちについて語りながら、もちろん、わたしたちにも同じように生きることを呼びかけています。わたしたちはどんないのちを生きようとしているでしょうか。
 25節の「命を愛する」「命を憎む」は分かりにくい表現かもしれません。これも一粒の麦のイメージで捉えたらよいでしょうか。「命を愛する」は一粒の麦が自分を守り、一粒のままでいようとすること。「命を憎む」は、一粒の麦が自分を壊して、もっと大きないのちになっていくこと。すなわち、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりの中にあるいのちへとよみがえる、というイメージで受け取ってみてはどうでしょうか。

  (4) この25節は、マルコで最初の受難予告の後に語られる言葉(マルコ8章35節)に似ています。26節の「従う」もマルコ8章34節でも使われている言葉です。「仕える」は、マルコ福音書では3度目の受難予告の後にあります。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章44-45節)。これはまさにイエスと弟子たちの生き方の中心を表すような言葉です。ヨハネはマルコと共通の伝承を用いているようです。

  (5)  27節「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」は、マルコ14章35-36節のゲツセマネの祈りを思わせる言葉ですが、ヨハネ福音書では「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と続きます。「この時」は「栄光を受ける時」(23節)であり、「この世が裁かれる時」(31節)、「地上から上げられるとき」(32節)でもあります。イエスの十字架の時は、イエスが神とはどういう方であるかを現し、神がイエスとはどういう方であるかを現す栄光の時なのです。イエスが極限の愛(13章1節)を示すことによって、「神が愛である」ことを完全に現す時なので、悪(=愛に反するこの世の支配者)に対する決定的な勝利が現れる時でもあるのです。
 ヨハネは十字架の表面的なみじめさや悲惨さには目もくれません。そうでなく、そこに現れる「愛である神」を見るのです。これもわたしたちに対する大きな招きでしょう。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/03/09 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

四旬節第4主日 (2018/3/11 ヨハネ3章14-21節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節・復活節の根本的なテーマはイエスの死と復活にあずかることです。ヨハネ福音書はある意味で、すべての箇所がこのテーマを表していると言えるので、この季節によく読まれます。先週の箇所に続き、ヨハネ3章1節からイエスとニコデモとの対話が始まりますが、その中できょうの言葉が語られています。


福音のヒント


20180311.jpg
  (1) ヨハネ3章1節で、ニコデモは「ファリサイ派に属する」「ユダヤ人たちの議員であった」と紹介されています。彼はイエスに尊敬の念を持って近づいていったようです。このニコデモとの対話の中で、きょうの言葉が伝えられています。ただし、3章16-21節はイエスの言葉というよりも、福音記者ヨハネの言葉と考えることもできます(聖書のギリシア語本文には「 」のようなしるしはありません)。
 ニコデモには「新たに生まれる」(3,7節)というイエスの言葉が理解できませんでした。この「新たに」はギリシア語ではanothen(アノーテン)という言葉で、「新しく」という意味の他に「上から」という意味もあります。イエスは「上から、すなわち神から生まれること」について語っているのに、ニコデモのほうは「もう一度母親の胎内に入って生まれる」ことだと思っているので、話がかみ合わないのです。自分の努力で一生懸命律法を守ることによっていのちが得られると考えたファリサイ派のニコデモには、イエスが語られる「神からのいのち、神の霊によって生かされるいのち」が理解できなかったようです。

  (2) 「天から降(くだ)って来た者、すなわち人の子のほかには、天に(のぼ)った者はだれもいない」(13節)の「人の子」はもちろんイエスご自身のことです。そして、この言葉は続く14節の「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とつながっています。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」話は民数記21章4-9節にあります。紀元前13世紀、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の厳しい生活に耐え切れず、神とモーセに不平を言いました。その時「炎の蛇」が民を噛み、多くの死者が出て、民はようやく回心しました。「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(21章8-9節)。古代の人々にとって、蛇は不思議な力を持つ存在で、人間を害するもの=罪や悪のシンボルでもありましたが、同時に、いやしと救いのシンボルにもなりました。この2面性が十字架の2面性と通じるのでしょう。十字架もまた、のろいと死のシンボルでしたが、キリスト者にとっては救いといのちのシンボルになったからです。

  (3) とにかく、ヨハネ3章14節の「上げられる」は、直接には十字架の木の上に上げられることを意味しています。ここにヨハネ福音書の一つの特徴があります。ヨハネは受難の物語を始めるに当たってこう言います。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13章1節)。ヨハネは十字架のイエスの中に「愛の極限の姿」を見ています。ヨハネにとって「神は愛」(ヨハネの第1の手紙4章8,16節)です。十字架において、イエスはこの「愛である神」と完全に一つになります。だから十字架は挫折ではなく、栄光の時であり、ヨハネ福音書では「十字架に上げられる」ことと「天に上げられる(=神のもとに行く)」ことが一つのことになっているのです。

  (4) 次に、14節から16節をよく見てみましょう。
 14 モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
 15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 16a 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 16b 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 このように並べてみると、15節と16節bはほとんど同じことを言っているのに気づきます。だとしたら、14節と16節aも同じことを言っているのではないかと考えられます。つまり、「独り子をお与えになった」ということには、ただ「イエスを世に遣わした」というだけではなく、「十字架の死に至るまで与えつくした」という意味のあることが分かります。ヨハネはそこに神の愛の最高の表れを見るのです。

  (5) 18-21節の「裁き」のイメージは大切です。ふつう「裁き」というと「神が人に善し悪しをつけること」と考えがちですが、ここではそうではありません。神は圧倒的に光をもたらす方であって、その光を受け入れないことが(つまり闇の中にとどまることが)裁き(=救われない状態)であるというのです。創世記の1章を思い出します。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」(創世記1章3-4節)。神はこの闇の世界に、光だけをお造りになりました。闇とは、その光がない状態なのです。
 ヨハネ福音書は、イエスの圧倒的な愛を体験し、ここにこそ、光と救いといのちがある、と確信したところからすべてを語っています。だから、この方を受け入れるか否か(=信じるか否か)に救いのすべてがかかっているのです。ここでは、「客観的に考えてみて、キリストを信じない人は救われるかどうか」というようなことは問題になっていません。根本にあるのは「愛の体験、光の体験」なのです。わたしたちにもそのようなイエスとの出会いの体験があるでしょうか。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。



-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/03/02 Fri. 12:20 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

四旬節第3主日 (2018/3/4 ヨハネ2章13-25節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節第3~5主日の福音は年によって雰囲気がかなり違います。四旬節の持つさまざまな性格が年毎に表れていると言えます。A年は伝統的な洗礼志願者のための福音(ヨハネ4、9、11章)、C年は回心とゆるしをテーマとした箇所。今年(B年)はイエスの「死と復活」を直接テーマとする箇所が選ばれています。そういう意味で、今日の箇所の中心テーマは「三日で建て直される神殿」すなわち「死んで三日目に復活するイエスの体」です。


福音のヒント


20180304.png
  (1) マルコ・マタイ・ルカ福音書によれば、イエスはずっとガリラヤ地方で活動していて、生涯の終わりに1度だけエルサレムの都に上り、そこで殺されたということになっていますが、ヨハネ福音書ではイエスは何度もガリラヤとエルサレムを行き来しています。「過越祭(すぎこしさい)」の季節にエルサレムに行くのは自然なことでしょう。ただし、この箇所でわざわざ「過越祭」について言及されているのは、イエスの「死と復活」を暗示するためかもしれません。イエスが殺されたのは過越祭の時でしたし、イエスは死からいのちへと過ぎ越す新しい「過越」そのものだからです。この「過越」はきょうの福音の重要なテーマです。

  (2) 牛や羊や鳩は神殿でいけにえとしてささげられる動物でした。また、当時流通していたギリシアやローマの貨幣は神殿への献金には使えなかったので、イスラエルの伝統的な貨幣に交換してもらう必要もありました。これらの商売は神殿にとって必要なものだったのです。イエスはなぜ彼らの商売を妨害しようとしたのでしょうか。
 ヨハネ福音書ではイエスの活動の初期の話ですが、マタイ、マルコ、ルカ福音書では同じ出来事が生涯の最後に起こっています。そこでイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」というイザヤ書56章7節の言葉を引用しています(マルコ11章17節など)。イエスにとって神殿は純粋に「祈りの家」であるべきだったので商売を否定したということでしょうか。だとしたら神殿そのものは否定されていないということになります。ヨハネ福音書でも詩編69編10節を引用した「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉が伝えられていますが、これは「あなたの家(=神殿)に対する熱心さでわたしの心はいっぱいになっている」という意味です。少なくとも周囲の人々には、イエスが神殿を大切にしようとしていると見えたのでしょう。

  (3) しかし、ヨハネ福音書では、神殿そのものが過去のものになっていて、イエスと共に新しい時代が始まっている、という面が大切です。その意味で、2章1-11節のガリラヤのカナでの婚宴の話と対(つい)になっています。そこでは古い時代の象徴である「清めの水」が新しい時代の象徴である「ぶどう酒」に変えられました。エルサレムの神殿がローマ軍によって破壊されるのは、イエスの死から40年ほど後の紀元70年のことですが、ヨハネ福音書が書かれた時代から見れば、過去の出来事でした。しかしヨハネ福音書は、イエスが登場したとき、もうすでに石造りの神殿の時代は終わったと見ているのです。
 ヨハネ福音書は奇跡のことを「しるし」と言います(2章11節参照)。奇跡は単なる不思議な出来事ではなく、イエスとはどういう方かを表す「しるし」なのです。しかし、ただ単に奇跡に驚いてイエスを信じる態度は否定されています。三日で建て直される神殿とは、「死んで三日目に復活するイエスの体」のことです。究極のしるしは「イエスの死と復活」だと言ってもいいでしょう。そこでこそ、イエスとはどういう方かが明らかにされるからです。神殿の本来の意味は「神がそこに住まい、人が神と出会う場」です。イエスという方において、特に死んで復活したイエスという方において、神は人と共におられ、人は神に出会うことができる。わたしたちもこの新しい時代に生きています。

  (4) ヨハネが伝えるイエスの言葉「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)の背景には、ゼカリヤ書の結びにある「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」(14章21節)という言葉があるのかもしれません。「その日」は救いの完成の日です。なぜ、その日には神殿から商人の姿がなくなるのでしょうか。ゼカリヤ書は直前でこう言います。「(その日には、)エルサレムとユダの鍋(なべ)もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る」(14章21節)。「鍋」は日常生活の象徴です。その日には、日常生活のすべてが聖化されるので、もはやエルサレムの神殿で行なわれるいけにえの儀式は不必要になる、だからいけにえの動物を売る商人もいなくなる。つまり日々の生活が神との出会いの場になるという預言だと考えられます。これもイエスによって始まった新しい時代の特徴です。わたしたちの日々の生活の中でそれを感じることができるでしょうか。

  (5) 23-25節は何でしょうか。「イエス御自身は彼らを信用されなかった」(24節)の「信用する」は原文では23節の「信じる」と同じ動詞です。ここで「しるし(奇跡)を見てイエスを信じる」という態度が否定的に見られているのは明らかです。奇跡によってイエスを信じても、いつか(特に十字架を前にした時に)人は離れていくであろうということが予告されているようです。この箇所には、もしかしたら3章のニコデモとの対話への導入の意味もあるかもしれません。ファリサイ派の議員であったニコデモは「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」(3章2節)と言いますが、彼が本当にイエスを信じるようになったのは、イエスの死の後のことだったようです(19章39節参照)。わたしたちもイエスの死と復活を見つめるように招かれています。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/02/23 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

四旬節第2主日 (2018/2/25 マルコ9章2-10節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節に「主の変容」の箇所が読まれるのは、教会の古い伝統です。山の上でのイエスの栄光の姿は、イエスが受難と死をとおって受けることになる栄光の姿が前もって弟子たちに現されたのだと考えられてきました。この日の福音の中に、「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節の大きなテーマが示されています。
 四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」につながっています。


福音のヒント


20180225.png
  (1) この「高い山」とはどこのことでしょうか。伝統的にはガリラヤ地方エズレル平原にあるタボル山だとされています。平野の中にお椀を伏せたような形で、標高は558メートルです。それほど高い山とは言えないでしょう。もう一つの可能性は、「ヘルモン山」です。こちらは2,800メートル級の山々で、現在ではスキー場もあるそうです(写真は1月のヘルモン山)。マルコ福音書のこの箇所の直前に出てくる地名は「フィリポ・カイサリア地方」です(8章27節)。フィリポ・カイサリアとヘルモン山はそう遠くありません。きょうの箇所は「六日の後」という言葉で始まり、前の話とのつながりを感じさせますので、ヘルモン山だと考えてもよいかもしれません。

  (2) 直前の箇所は、8章の、いわゆるペトロの信仰告白と最初の受難予告です。
 「31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32a しかも、そのことをはっきりとお話しになった。32b すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱(しか)って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」
 マルコ福音書は3回の受難予告を伝えますが、いつも同じパターンがあります。
 (A) イエスがご自分の受難・死・復活を予告する(31-32節前半a)。
 (B) 弟子たちはそれを理解できず、見当はずれのことを考えている(32節後半b)。
 (C) イエスは弟子たちに受難の道の意味を語り、同じ道に弟子たちを招く(33-35節)。
 きょうの出来事はこれと密接に結びついています。8章31-35節が言葉による受難予告であったとすれば、きょうの箇所は「出来事による受難予告」と言ってもよいでしょう。

  (3) モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、イエスの受難と復活が、聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとこの2人が話し合っていた内容を「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9章31節)であったとし、この出来事とイエスの受難・死の結びつきをより明確に示しています。
 ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの光景を継続させたい、と願ったからでしょう。しかし、この光景は継続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。マルコ福音書は、ここで弟子の無理解を描こうとしているのでしょうか(上記(B)の要素)。

  (4) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40章34-38節参照)。雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1章11節)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエスは、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。つまりここで、この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されるのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18章15節参照)。受難予告で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8章34節)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。これは上記(C)の要素にあたります。

  (5) イエスの変容の姿は受難のイエスに従うよう弟子たちを励ますものでしたが、弟子たちは結局従うことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14章50節)と、マルコははっきり書いています。受難予告を理解できず、最後までついて行けなかった昔の弟子たちをマルコは非難しようとしているのでしょうか。そうではなく、自分たちも同じ過ちを犯す危険があると警告しているのでしょう。弟子たちは実際にイエスの死と復活が起こった後で、本当の意味で理解し、従う者となりました。わたしたちはもうすでにイエスの歩まれた道を知っています。そのわたしたちをイエスはご自分の道に招いてくださっています。今のわたしたちにとってイエスに「聞く=聞き従う」とはどういうことでしょうか。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/02/16 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

プロフィール

最新記事

カテゴリ

福音のヒントQRコード

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク


▲Page top