福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第12主日 (2017/6/25 マタイ10章26-33節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節・復活節とその余韻のような2つの祭日(三位一体とキリストの聖体)という長い中断の後、今日から年間主日のマタイ福音書のサイクルに戻ります。今日の箇所は12使徒を派遣するにあたってのイエスの言葉です。天の国の福音を告げ、悪霊を追い出し、病人をいやす使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らず(マタイ10章14節)、むしろ、迫害を受けることが避けられない(10章17-23節)ことをイエスは予告します。そして、その中でどういう態度を取るべきかが今日の箇所で語られるのです。


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  (1) 今日の箇所はルカ12章3-9節とよく似ていますが、ルカの箇所がファリサイ派の偽善に警戒せよ、という文脈の中に置かれているのに対し、マタイでは迫害を予告するという文脈の中で伝えられています。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(マタイ10章26節)は、マルコ4章22節にもよく似た言葉があります。短いイエスの言葉が伝えられていくうちに、次第に長くまとまった形になり、それをマタイやルカがそれぞれ違った文脈の中で、自分の福音書に取り入れている、と考えることもできるでしょう。だとすると、26-27節、28節、29-31節の3つの部分を無理に関連づけずに、本来はそれぞれが独立したイエスの言葉だと受け取ることもできることになります。共通するのは26節、28節、31節の「恐れるな」という命令です(原文の語形は26節だけ違います)。「恐れるな」という言葉が、キーワードのようにこの3つの部分をつなぎ合わせていると考えることができるのです。

  (2) 「覆われているもの、隠されているもの」とは何を指しているのでしょうか。本来イエスが語った状況の中では意味がはっきりしていたのでしょうが、今となってはその本来の状況は分かりません。マタイの文脈では、前の25節との関係を見ると「隠されているもの」は「彼らがイエスの弟子・僕(しもべ)であること」と言えるでしょうか。27節とのつながりでは「イエスの告げる天の国の福音」が「隠されているもの」だということになります。福音の言葉は、文脈によっていろいろな受け取り方ができることはよくあります。今のわたしたちの状況の中で、この言葉から思い浮ぶことはどんなことでしょうか。

  (3) 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。日本語では「恐れ」と「畏れ」を書き分けますが、聖書では同じ言葉です。人間は神の前で自分の小ささ・至らなさを感じるとき、それを「畏敬の念」と言ったりしますが、これはもちろん神が恐ろしい方だという意味ではありません。出エジプト記にこういう話があります。
 「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。・・・『お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。』助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1章15-17節)。
 ここで神を恐れる(=畏れる)というのは、たとえそれが強大な権力者であっても神以外のものに対する恐怖に打ち勝つこと、そして神のみ旨と信じることを実行できる(魂に忠実に生きる)ようになることでした。

  (4) 「雀」は小さな鳥の総称と考えられますが、このような小鳥は、重い皮膚病の人の清めの儀式に使われた(レビ記14章)ようですし、食用にもなったそうです。「アサリオン」はローマの小額貨幣で、今で言えば約500円相当です。「2羽の雀が1アサリオン」というのは1羽では売り物にならないほど価値が低い、ということです。この雀も神に守られているというのです。雀のたとえの中に入り込んでいる髪の毛のたとえも、神の細かい配慮を強調するものです。この2つのたとえを通して、わたしたちに対する神のいつくしみは決してなくならないことが強調されます。
 32-33節は地上で弟子たちが受ける人間の裁きと、天上で神の前で受ける裁きがつながっていることを表しています。「イエスの仲間であると言う、イエスを知っている」とはどういうことでしょうか。マタイ7章21-23節、25章31-46節を見ると、ただ口先で「イエスを信じます」と言うことではなく、イエスの心に忠実に従う生き方を含むと言えます。ただしこの箇所は、裁きに対する警告だけでなく、どんな苦境の中でもわたしたちは決して孤立無援ではないという力強い励ましとして受け取ることが大切でしょう。

  (5) 迫害という状況でなくとも、「恐れ」ということはあります。病気、失業、犯罪、暴力、人からの裏切りなど、わたしたちに恐れを引き起こさせるものはいろいろあるでしょう。「恐れ」は必ずしも悪いことだとはいえません。病気や犯罪から身を守るために役に立つこともあるのです。
 恐れが問題になるのは、恐れのために、日々の生活と人生が振り回されて、本来やるべきことができなくなってしまうときです。「恐れるな」というイエスの言葉はそういう状況の中で受け取ればよいのではないでしょうか。マタイ10章23節では「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とも言われます。イエスは闇雲に迫害に耐えろ、とはおっしゃいません。わたしたち一人一人に「本当になすべきこと、いのちをかけても譲れないことは何か」と問いかけているのではないでしょうか。
 「恐れ」の問題は他にもあります。戦争をひき起こそうとする人は、人々の恐怖心を煽(あお)ります。「何をされるか分からない。やられる前にやりかえさなければ」という思いは、人を簡単に戦争や暴力に走らせます。恐れが人の心から平安を奪い去り、富や権力、武力にしがみつくようにさせるのです。そういう状況の中で「恐れてはならない」は、冷静な心を持つように、という戒めにも聞こえます。「恐れ」に振り回されずに、今、本当に何が起こっているのか、自分にできることは何か、を見つめることが大切です。




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Posted on 2017/06/16 Fri. 10:28 [edit]

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キリストの聖体 (2017/6/18 ヨハネ6章51-58節)  


教会暦と聖書の流れ


 キリストの聖体の祭日は本来、聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のような非キリスト教国では日曜日に移して祝われます。教会暦の流れから言えば、この祭日は、三位一体の主日と並んで四旬節・復活節の「余韻」と言ってよいでしょう。聖体は、「キリストの死からいのちへの過越(すぎこし)」にわたしたちが結ばれることを意味しているのです。なお、聖体の制定を特別に記念するミサは聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」です。「聖体」という同じテーマを、復活節が終わった今、もう一度味わい直すことになります。
 A年の福音の箇所は、ヨハネ6章から採られています。イエスが5つのパンと2匹の魚を5千人以上の群集に分け与えたという出来事をきっかけにして、パンをめぐるイエスと人々の対話が始まりますが、そのイエスの言葉の頂点と言うべき箇所がきょうの箇所です。


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  (1) 51節と58節にはほとんど同じような表現「天から降(くだ)って来たパン」「このパンを食べるならば永遠に生きる」が繰り返され、きょうの箇所の枠組みのようになっていますが、ここにこの箇所全体のテーマが指し示されていると考えたらよいでしょう。
「天から降って来た」という表現は、イエスが「父である神のふところにおられ、神から遣わされた」方であることを暗示しますが、一方では旧約聖書の「マナ」との関連を思わせる表現でもあります。31節で引用されている詩編78編23-25節に「神は上から雲に命じ 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり 人は力ある方のパンを食べた」とあります。「マナ」はイスラエルの民を荒れ野の旅の中で養った不思議な食べ物でした(出エジプト記16章、民数記11章参照)。荒れ野という必要な食べ物に事欠く状況の中で、民は神が自分たちを生かしてくださっていることを体験しました。そのシンボルが「マナ」なのです。イエスが荒れ野の誘惑のときに引用した申命記8章3節も「マナ」についての言葉です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」人は食べ物によって生きるのではなく、神によって生きる。これがマナの意味していたことだったのです。

  (2) ヨハネ6章でイエスがパンについて語ってきたことは、35節以降一貫して「わたしはパンである」ということでした。もちろんそれは「イエスが人のいのちを真に生かす方である」ということを意味しています。そして「このパン(=イエス)を食べる」ということは、「イエスのもとに来て、イエスを信じる」ということを意味しています。きょうの箇所の始めにある「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節前半)はその典型であり、頂点だと言えます。
 一方、51節の終わりには「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われ、ここでは「イエス=パン」ではなく「イエスが与えるもの=パン」になっています。微妙な変化ですが、ここから直接的に「聖体のパン」のことが語られていると考えることができるでしょう。なお、58節の「これは天から降って来たパンである」は「イエス=パン」と「イエスの与えるパン=聖体」の両方の意味を含む、全体のまとめの文章だと考えられます。

  (3) 53~56節では「わたしの肉を食べ」と「血を飲む」というなまなましい表現が使われています。ここでは、聖体のパンとぶどう酒を実際にいただくことが強調されているのでしょうか。あるいは、イエスの「むさぼられ、食い尽くされる体、流される血」という受難のイメージとのつながりがあるのでしょうか。
 いずれにせよ、ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と「聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)」は別々のことではなく、1つのことと考えられているのでしょう。続く56-57節でもそのことがはっきりと示されています。「56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ヨハネ福音書は、聖体を「食べれば何かよい効果がある魔法のお薬」のように考えているのではありません。「コムニオcommunio(聖体拝領を意味するラテン語)」によって実現するのは、「人がキリストのうちにいて、また、キリストがその人のうちにいる」ようになること、そして「人がキリストによって生きるものとなること」なのです。
 
  (4) わたしたちは何によって生かされているのか。きょうの福音はそのことを問いかけてきます。この問いかけは、「わたしたちがイエスによって、聖体によって生かされるとは本当のところどういうことか」と言い換えてもよいかもしれません。
 「わたしはいのちのパンである」というような宣言は、ヘタをすると単なる言葉による自己主張のように聞こえてしまうかもしれませんが、その背景にはいつもイエスの実際の行動・生き方があります。その意味で、6章のはじめの5つのパンと2匹の魚の話を思い出すことは大切でしょう。イエスがなさったことは、ただ単にパンを増やしたということでしょうか? パンを分けたときのイエスの動作に注目してみましょう。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(6章11節)。このイエスの動作が表していることは、5つのパンを物理的に5千分の1にするということではなく、このパンを与えてくださった神とのつながりを確認し、同時に、共にパンを分かち合う人と人とのつながりを確認することでした。イエスのいのちとは、十字架の死と復活にいたるまで、このような神とのつながり、人とのつながりによって生かされたいのちだったと言えるでしょう。わたしたちはそういういのちを生きているでしょうか。どんなときにわたしたちはそのようないのちを感じることができるでしょうか。




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Posted on 2017/06/09 Fri. 10:29 [edit]

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三位一体の主日 (2017/6/11 ヨハネ3章16-18節)  


教会暦と聖書の流れ


 聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、次の日曜日は「三位一体の主日」という特別な祭日になっています。教会の暦は、四旬節から復活節という約3ヶ月間をかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。その余韻のようなこの祝日は、「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、神の大きな救いの出来事を振り返り、父と子と聖霊の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。


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  (1) 福音の箇所は、非常に短い箇所です。ヨハネ福音書3章1節から始まったイエスとニコデモというファリサイ派の議員との対話の中で語られる言葉です。ギリシア語原文には、会話文を示す「 」(かぎカッコ)のような記号はありませんから、10節から始まったイエスのニコデモに対する言葉がどこまで続いているかは、内容から判断するしかありません。新共同訳聖書は21節までをイエスの言葉として全体を「 」の中に入れていますが、16節からは福音記者の文章(地の文)と考えることもできます。朗読聖書に「そのとき、イエスは言われた」という冒頭の言葉がないのは、こちらの考えからです。

  (2) 14-15節と16節は以下のように対応しています(ここでは、比較のために少し直訳的な表現にしてあります)。
 14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
 15   それは、信じる者が皆、彼によって永遠の命を得るためである。
 16a 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 16b   彼を信じる者が皆滅びないで、永遠の命を得るためである。
 15と16bはほとんど同じですので、14と16aも関連がありそうです。「人の子が上げられる」には「天に上げられる」と同時に「十字架の木の上に上げられる」という意味が含まれています。だとしたら「与える」はただ「イエスを世に遣わした」ということよりも「十字架の死に至るまで与え尽くされた」と受け取ることができるでしょう。
 「世」という言葉は、ヨハネ福音書では特別に「神を知らず、神から離れたこの世界」を指します。しかし、だからと言って、この世は救われない世ではなく、神がイエスをとおして大きな愛をもって救おうとなさった世なのです。

  (3) 18節の「裁き」は「断罪する」の意味です。「信じない者は既に裁かれている」という言葉は厳しく響きますが、この箇所の続きに現れる「光と闇」のイメージをヒントに考えてみてはどうでしょうか。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(3章19-21節)。神がもたらすものは決して裁き(断罪)ではありません。神は圧倒的な光としてイエスを与え、闇の世を照らそうとされたのです。その光を受け入れたときに人は救いの中に入っていき、その光を拒否するならば闇の中に留まることになる・・・ヨハネは「闇の中に留まること」が「裁き=断罪されること(救いから外れること)」であると考えているわけです。このようにヨハネが感じているのは、ヨハネ自身が闇の中でイエスの光を見いだしたという体験、神の愛を感じたという体験を持っているからでしょう。わたしたちはどうでしょうか?

  (4) 何をあげることが、人を愛することでしょうか。どんなプレゼントよりも、その人のために時間を使うこと、その人と一緒にいて共に時間を過ごすことが最高の愛だと感じたことがわたしたちの体験の中にあるのではないでしょうか。それは「モノではなく、自分自身を与えること」だからです。「父とそのひとり子イエスは一つである」という信仰は、きょうの福音の「神がひとり子をお与えになった」ということを、「神がイエスという方において、ご自分のすべてを与えてくださった」ことだと受け取る光を与えてくれます。イエスのなさったすべてのこと、イエスの生涯のすべては、神がわたしたちとともにいてくださり、わたしたちにご自分のすべてを与えてくださったことの表れなのです。

  (5) イエスの弟子たちが体験したことは、神の人間に対する決定的な救いの働きが、「イエスの派遣」「聖霊の派遣」という二通りの仕方でなされた、ということでした。イエスという具体的なひとりの人間の言葉と生き方をもって、神は人に語りかけ、人が神に近づく道を示されました。弟子たちは、イエスをとおして、神の愛と神の救いを知ることができたのです。一方イエスが世を去って神のもとに行かれた後、弟子たちは自分たちのうちに働き、自分たちを導く内面的な力を感じ、それを聖霊と呼ぶようになりました。それはどの時代のどんな人の中にも直接働きかける神の力だといってよいでしょう。イエスの父である神が、子であるイエス聖霊を通してわたしたちに決定的な救いの働きかけをしてくださった。ここに「救いの三位一体的な構造」が現れてきます。
 また、わたしたちが神に向かって歩んでいこうとするときにも、この三位一体的構造が大切になります。わたしたちキリスト者は「キリストの言葉と生き方」を見つめ、「聖霊という内面に働きかける神からの力」に支えられながら、父である神への道を歩んでいきます。このような「三位一体的構造」は教会の祈りの中にも現れています。「聖霊に支えられ、御子キリストをとおして、父に向かう」のが、ミサをはじめとする教会の祈りの基本的な姿勢なのです。
 「父と子と聖霊」とはわたしたちの生き方と関係ない神学的で抽象的な教えだと考えるよりも、このようにわたしたちと神との関わりのダイナミズムとして捉えることが大切でしょう。わたしたちは日々どのように神からの働きかけを受け取り、どのようにその働きかけに応えようとしているでしょうか。




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Posted on 2017/06/02 Fri. 08:30 [edit]

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聖霊降臨の主日 (2017/6/4 ヨハネ20章19-23節)  


教会暦と聖書の流れ


 日本語では「聖霊降臨」ですが、ラテン語などヨーロッパ諸言語では元のギリシア語のまま「ペンテコステ」(「50番目」の意味)と呼ばれる日です。第一朗読の使徒言行録2章1-11節の記事に基づき、復活祭から50日目の日曜日に、使徒たちの上に聖霊が降(くだ)り、教会の活動が始まったことが祝われます。一方、福音の記事は復活節第2主日にも読まれた箇所で、復活の日の夕方、使徒たちに聖霊が与えられたことを伝えています。日付や場面は異なりますが、イエスの復活後、使徒たちが教会の活動を始めるにあたって、聖霊の働きを強く感じたことが記念されるのです。このヒントでは、ヨハネ福音書と使徒言行録の両方の箇所をとおして、わたしたちに与えられている聖霊の働きを味わうことにします。


福音のヒント


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  (1) 福音の箇所全体については、復活節第2主日の「福音のヒント」を参考にしてください。今回は特に聖霊に注目します。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも本来、「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「プネウマ」とか「ルーアッハ」と呼んだのです。その力が神からの力であれば、それが「聖霊」だということになります。聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されています。使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がそのしるしです。なお「舌」のギリシア語は「グロッサglossa」で、これは6節の「言葉」と同じ語です。「炎のような舌」は、使徒たちに与えられる聖霊の賜物が、言葉の賜物であることを象徴しているのです。

  (2)  聖霊の働きは非常に広いものです。ヨハネ福音書の「息を吹きかけて」は、創世記2章7節でアダムが創造された場面を思い起こさせます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神の働き・神とのつながり(聖霊)なしに人は生きることができないのです。詩編104編29-30節でもすべてのものを造り、生かしてくださる神の働きが次のように歌われています。「御顔(みかお)を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面(おもて)を新たにされる」。聖霊の働きのこの広さは大切です。「風(プネウマ)は思いのままに吹く」(ヨハネ3章8節)と言われるように、聖霊が働く範囲を人間が限定することはできません。聖霊は秘跡の中だけに働く、とか、教会の中だけに働く、とか、ましてわたしの中だけに働くとは誰も言えないのです。人が意識しても意識しなくても、いつも聖霊は働いてくださっているということは本当に大切なことです。
 しかし、人間が特別に聖霊を意識するときがあります。聖書の中でそれは2種類の体験に関係しています。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験であり、もう1つは、神と人・人と人とが結ばれるという体験です。

  (3) 人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、自分の弱さ・無力さを痛感します。しかし、それでも何とかこのミッションを果たせたとするならば、そこに不思議な仕方で神が助けてくださった、という実感があるはずです。それは自分のうちに神が働いてくださったとしか言えないような体験です。聖書の中でもこのような神の働きが「聖霊」と呼ばれています。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降(くだ)ると表現されています(Ⅰサムエル16章13節、イザヤ61章1節参照)。新約聖書の中では、成人したイエスがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めるときに聖霊が降りました。また、きょうの使徒言行録2章のペンテコステの出来事でも、弟子たち(最後までイエスについていけなかった弱い弟子たち)が福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降るのです。ヨハネ20章では、神のゆるしを人に伝えていくという大きな使命が弟子たちに与えられることと聖霊の授与が結ばれています。
使命と聖霊との結びつきは、わたしたちの洗礼や堅信の秘跡 (さらに叙階・結婚・病者・ゆるしの秘跡) のテーマでもあります。もちろん、これは秘跡だけでなく、人が神からのミッションを生きようとするとき、繰り返し体験することだと言えるでしょう。

  (4) 絶望のどん底にあった人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないような体験でしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。
 福音で命じられる「ゆるし」(神と人・人と人との関係回復)の実現は、聖霊の働きと切り離せません。また、使徒言行録2章のように、理解し合えないと思われていた、言語の異なる人々の間に相互理解が生まれるとするならば、それも聖霊という神の力によると言えるでしょう。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がさまざまにあることを認めながら、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(30-31節)と述べて、続く13章で「愛の賛歌」を語ります。また、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5章22-23節)と断言しています。

  (5) 聖霊について人間が頭で理解しようとしても難しいと感じられるかもしれません。聖霊の働きとは、そもそも人間の考えを超えた神の働きなので、頭で理解しづらいのは当然でしょう。大切なのは聖霊を頭で理解することよりも、わたしたちが神の働き・神の助けを自分の中に感じ、他の人の中にもそれを見いだし、共に神の導きに従って歩んでいこうとすることなのです。




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Posted on 2017/05/25 Thu. 08:30 [edit]

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主の昇天 (2017/5/28 マタイ28章16-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられ(1章=きょうの第一朗読)、50日目の五旬祭(ペンテコステ)の日に聖霊が降(くだ)りました(2章)。教会の暦はこれらの記事に基づいて復活節を祝っています(本来、主の昇天の祭日は40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。
 A年の主の昇天では、マタイ福音書の結びの部分が読まれます。ここには、復活したイエスが神の子としての栄光・権威を受けたことと、目に見えないがいつもわたしたちとともにいてくださるという、復活節全体の二つの大きなテーマがはっきりと示されています。


福音のヒント


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  (1) マタイ28章7,10節の空(から)の墓の場面で天使から告げられていた、ガリラヤでのイエスと弟子たちの出会いがここで実現します。「山」は、特別にマタイ福音書にとって啓示の場でした(マタイ5章1節、17章1節など参照)。「疑う者もいた」(17節)という箇所は「弟子たちはひれ伏し、(同時に彼ら=同じ弟子たちは)疑った」とも受け取れます。マタイは、復活を信じることが難しいと感じる後(のち)の時代の人々に、「イエスの弟子たちにも疑う心があった。しかし、イエスの力強い言葉を聞くことによって、信じる者に変えられていったのだ」と語りかけようとしているのかもしれません。

  (2) 19-20節には「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」という4つの動詞がありますが、このうち、原文ではっきりと命令法で書かれているのは「弟子にしなさい」という言葉だけで、他は分詞の形です。「行く」のは「弟子にする」ためですし、「洗礼を授ける」と「教える」は、「弟子にする」ことのより具体的な内容なのです。マタイ福音書では、4章18節のガリラヤ湖畔に始まるイエスの活動全体を「弟子作り」(人々を弟子として招き、弟子として育てること)だったと言うことができるのではないでしょうか。これまでイエスがしてきた「弟子作り」という活動がここでイエスの弟子に受け継がれ、同じ「ガリラヤ」から始まり「すべての民」に広がっていくのです。もちろん、イエスの弟子たちに求められるのは、自分たちの弟子を作ることではなく「イエスの弟子」を作ることです。
 「父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授ける」はマタイ福音書が書かれた時代(紀元80年頃)の教会で、実際の洗礼式で用いられていた表現だと考えられています。「洗礼を授ける」の元の意味は「(水に)浸す、沈める」です。この箇所は直訳では「父と子と聖霊の名の中に沈める」となります。「名」は単なる呼び名ではなく、そのものの実体を表します。洗礼とは「父と子と聖霊という神のいのちの中に人を招き入れること」だと考えたらよいでしょう。「父と子と聖霊」という表現は、イエスご自身の洗礼(マタイ3章16-17節。聖霊が降り、天から「わたしの愛する子」という声が聞こえた)をも思い出させます。キリスト者の洗礼は、イエスご自身の洗礼にあずかることだとも言えます。

  (3) 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)は、マタイ1章23節を思い出させます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である」。イエスの誕生に関連してこのように述べたマタイは、最後に「共にいる」というイエスの力強い約束を伝えています。「神が(キリストが)共にいる」というテーマはマタイ福音書全体を貫くものだと言うことができます。今のわたしたちが「共にいてくださるイエス」をどのように感じることができるのか、マタイ福音書の中からヒントを探ってみましょう。

  (4) マタイ18章20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
 キリストを信じる者同士の集いの中にキリストがいてくださる、と感じることができればどんなに素晴らしいことでしょうか。残念ながら、教会の中にも人間関係の問題やトラブルがあります。教会の中で人に傷つけられ、この集まりの中にキリストがいるなんて信じられない、と感じることもあるかもしれません。客観的に教会という組織を観察していても、そこにキリストを見いだすことは難しいかもしれないのです。組織としての教会よりも、人と人が本気でキリストに信頼して集まるということが大切でしょう。それは一緒に聖書を読んだり共に祈ったりする小さな集いかもしれません。わたしたち一人一人がイエスの名において人と出会おうとすることからすべては始まるのではないでしょうか。

  (5) マタイ25章40節「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 飢え渇き、病気であり、住むところも着るものもないような人々の中にキリストがいるという約束。マザーテレサをはじめ多くの人が、貧しい人との出会いの中でキリストとの出会いを体験しました。それはわたしたちの身近な体験にも通じることではないでしょうか。あるいはまた、わたしたち自身が自分の貧しさや苦しみの中にあって、兄弟であるキリストと深く結ばれていることを感じたという体験もあるのではないでしょうか。

  (6) マタイ26章26-28節「取って食べなさい。これはわたしの体である」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
 わたしたちが主の食卓を囲むとき、そこにキリストがいてくださるということは、わたしたちの教会の大きな宝です。聖体(エウカリスティア)は2000年にわたって、喜びの中でも苦しみの中でも、多くのキリスト信者を支え続けてきました。わたしたちはどんなとき、聖体のイエスを親しく感じ、聖体に支えられ、励まされてきたでしょうか。




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Posted on 2017/05/19 Fri. 08:30 [edit]

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