FC2ブログ

福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第24主日 (2018/9/16 マルコ8章27-35節)  


教会暦と聖書の流れ


 耳が聞こえず口のきけない人をいやした先週の箇所(マルコ7章31-37節)からは少し飛んでいます。きょうの箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の場面です。ガリラヤでのイエスの力強い活動を伝えるマルコ福音書の前半(1章1節~8章30節)と十字架と復活への道を歩む後半(8章31節~16章8節)のターニングポイントとも言える重要な箇所です。


福音のヒント


20180916.jpg
  (1) この出来事の起こった場所は「フィリポ・カイサリア地方」です。「カイサリア」は「ローマ皇帝(カエサル)」から取られた名ですが、地中海沿岸にある町「カイサリア」と区別するために「フィリポ・カイサリア」と呼ばれました(フィリポはヘロデ大王の息子の名)。ガリラヤ湖に北から注ぎ込むダン川の源流にあたる異邦人の地であり、異教の神「パン」の神殿がありました。
 この出来事が異邦人の土地で起こったことに特別な意味があるのでしょうか。イエスは一時的に活動の地であるガリラヤを離れて、これから先の道を確かめようとしていたのではないか、という見方もあります。あるいは、ローマ世界の真っ只中でイエスへの信仰を生き、そして迫害を受けていたマルコの教会にとっては、この状況に親しみが感じられたという考えもあります。

  (2) 「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」というイエスの問いかけに答えて、当時の人々のイエスについてのうわさが紹介されています。このようなうわさは、6章14-15節にも伝えられていました。「洗礼者ヨハネ」は6章でヘロデ・アンティパス(ガリラヤの領主)によって殺されています。「エリヤ」は北イスラエルの有名な預言者で、紀元前9世紀の人です。列王記下2章によれば、生涯の終わりに生きたまま天に上げられたと伝えられています。そこでエリヤは決定的な神の介入のときに、再び天から遣わされると信じられるようになりました(マラキ3章23-24節参照)。もちろん、マルコにとってこのようなうわさはイエスを正しく理解しているとは言えないものです。
 イエスは次に弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけます。ずっとイエスと共に歩み、イエスのなさることを見てきた弟子たち自身の判断を迫るのです。その時、「あの人はこう言っています」とか「この人にこう教えられました」ではなく、自分の判断として、自分とイエスのかかわりの中で、自分にとってイエスという方はどういう方なのかを答えなければならないのです。これは、わたしたち一人一人への問いかけでもあると言えるでしょう。

  (3) 「あなたはメシアです」の「メシア」はギリシア語原文では「クリストスchristos(=キリスト)」です。「メシア」はアラム語ですが、どちらも「油注がれた者」を意味する言葉です。本来はイスラエルの王が即位するときに油を注がれました(祭司や預言者の場合もあります)。油を注ぐことは神からの特別な使命が与えられ、その使命を果たすための力(=神の霊)が与えられることのシンボルでした。「油注がれた者」は、神から遣わされる決定的な「救い主」を意味するようになっていきました。新共同訳の新約聖書は「クリストス」という言葉が救い主の称号として使われている箇所は「メシア」、イエスの固有名詞のように使われている箇所は「キリスト」と訳し分けています。
 ペトロはイエスのこれまでの活動を見てきて、イエスをキリスト(救い主)であると宣言しました。もちろん、これは正解です。しかし、イエスはここでそのことを口止めしています。それは、ペトロの思い描いていたキリストの姿が「栄光に満ち、この世で勝利を収める王」であり、受難のイエスの後に従う姿勢が欠けていたからでしょう。

  (4) 31節は「受難予告」と呼ばれるものの最初のものです。「必ず・・・なっている」はギリシア語では「デイdei」という非人称動詞が使われていて、「・・・ねばならない」とも訳されます。単なる必然を表すというよりも、神が定めたことを表す表現です。
 この受難予告を特別な未来予知能力によるものと考える必要はないでしょう。イエスの活動は多くの人々に信頼と希望を呼び覚ましましたが、一方ではユダヤの指導者層からの反発と敵意も高まっていたからです。また、神は従う者を決して死の中に見捨てない、という復活への確信と希望をイエスの時代の人が持つことも自然でした。なお「三日」は正確な日付を表すのではなく、「短い期間」を表す一つの表現だと考えることができます。
 31節の「人の子」という言葉は本来、人間一般を指す言葉でしたが、ダニエル7章13-14節「夜の幻をなお見ていると、/見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた」という箇所のため、特別な意味を持つようになりました。それは最終的に「神から遣わされる栄光に満ちた審判者・救済者」という意味です。もちろん、旧約聖書には「受難の人の子」という考えはありませんが、マルコはイエスの受難と「人の子」を結び付けます。そこには人間としてすべての人と連帯しているイエスの姿、人間としての苦しみをとことん味わわれた(だからこそすべての人の救いとなる)イエスの姿を見ることもできるでしょう。

  (5) ペトロは、自分の考えるキリスト像に合わないことを言うイエスをたしなめます。もちろんイエスの無事を願ってのことでもあります。それに対するイエスの言葉、「サタン、引き下がれ」は厳しい言葉です。「サタン」とは人間を神から引き離す力のシンボルです。神に従う道としての受難の道からイエスを引き離そうとすることはサタンの働きなのです。続いて、イエスはご自分の十字架への道に弟子たちを招きます。十字架刑に処せられる人は処刑場まで自分の十字架を担いで行きました。「十字架を背負う」は死そのものというよりも、死に至る苦しみと辱(はずかし)めを意味しているようです。わたしたちにとって「自分の十字架を背負ってイエスに従う」とはどういうことでしょうか?
 なお、「命を救う」「命を失う」というときの「命」は、この世の命と永遠の命の両方の意味で用いられています。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/09/07 Fri. 09:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

年間第23主日 (2018/9/9 マルコ7章31-37節)  


教会暦と聖書の流れ


 ファリサイ派・律法学者と「汚(けが)れ」について論じ合った先週の福音(マルコ7章1節以下)の後、イエスはティルスという異邦人の地に行きます。そこで異邦人の女性と出会い、彼女の娘をいやしますが、同じ話はA年にマタイ福音書から読まれる(マタイ15章21-28節)ので、ここでは省略されているようです。イエスに対して批判的なファリサイ派・律法学者の姿と、イエスに出会い、イエスによって信頼と希望を取り戻していく異邦人・障害者・貧しい人々の姿が対比されていく中で、マルコ福音書は前半の頂点とも言えるペトロの信仰告白(8章29節)へと向かっていきます。


福音のヒント


20180909.jpg
  (1) 「ティルス」はガリラヤ地方より北の地中海に面した町で、「シドン」はそれよりもさらに北にあります。「デカポリス地方」はガリラヤの南東に位置していますから、マルコの描くイエスの行程には少し無理があります。挙げられている地名はいずれも異邦人の土地ですから、マルコはガリラヤを中心にしたイエスの広い活動地域を示そうとしているだけかもしれません。ただし、マルコ7章24節には「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」とありますから、積極的に神の国の福音を告げるために異邦人の地に向かった、とは考えにくいでしょう。とにかく、ここでイエスは再びガリラヤ湖に戻ってきました。これはガリラヤ湖東岸のデカポリス地方(異邦人の土地)のことでしょうか。それとも北西岸のガリラヤ地方(ユダヤ人の土地)のことでしょうか。どちらとも取れますが、きょうの話は特に異邦人の間で起こった話だと考える必要もなさそうです。

  (2) この箇所でイエスは自ら病人を見つけ出していやすのではなく、人々が病人をイエスのもとに連れてきていやしを願います。これは多くのいやしの物語に共通していることです。またここで「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」(33節)とあります。さらに「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた」(36節)とも言われています。イエスは治癒の奇跡を人に見せびらかして評判を得ようとはせず、むしろこのような奇跡によって自分を理解されたくないと考えていたようです。
 34節の「深く息をつき」はイエスの心の激しい動きを表していますが、ローマ8章23,24節では「うめく」と訳されている言葉です。これは苦しみの中で救いを求めて叫ぶことです。だとすると、イエスが目の前の人の苦しみに深く共感し、その人のうめきと一つになって自分もうめくところからいやしが起こるのだと言えるかもしれません。イエスが行なった数々の「いやし」はすべてこのような共感から起こったことだと考えてもよいのではないでしょうか。

  (3) 33節「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」は民間に伝わるいやしの物語によく見られる動作だったそうです。ここで特徴的なのは「エッファタ」というイエスの言葉でしょう。イエスの言葉がアラム語のまま伝えられている箇所は他にもありました。たとえば、マルコ5章41節の「タリタ・クム(少女よ、起きなさい)」です。おそらく聞いていた人々の耳に強烈に残る声であり、響きであったので、これらの言葉はアラム語のまま伝えられたのでしょう。マルコはこれらの言葉を、現実に働きかけて現実を変える、神の子の力ある言葉として伝えています。
 イエスは聞こえない耳に向かって「エッファタ」と呼びかけました。他の人々は「この人の耳はどうせ聞こえない」と思っていたのでしょうが、イエスは、自分の語りかけが必ずこの人に届くという信頼と希望をもって語りかけるのです。このイエスの信頼と希望がこの人に伝わり、この人は変えられていったとも言えるのではないでしょうか。わたしたちは、このようなイエスの力強い呼びかけを聞くことができるでしょうか。
 
  (4) 37節「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という群集の反応は、創世記1章31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」を思い出させるかもしれません。これは神の天地創造のわざの結びにある言葉です。「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」は、イザヤ35章5-6節「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」が背景にあるようです。こちらは神の救いが実現する時のありさまを語る預言者の言葉です。マルコは群集の口をとおして、神の創造と救いのわざが、神の子であるイエスの上に実現しているということを伝えようとしているのでしょう。

  (5) きょうの話と8章の盲人のいやしの話はマルコ福音書だけが伝える話です。マタイやルカはこのような素朴ないやしの物語に興味を示さなかったのかもしれませんが、マルコはこれらの話を大切に伝えようとします。マルコの文脈をよく見ると、これらの話は特別な意味があるようにも思えます。次のようなつながりを見てみましょう。
 7章31-37節 耳の聞こえない人のいやしの物語
 8章18節  「目があっても見えないのか耳があっても聞こえないのか」という言葉
 8章22-26節 目の見えない人のいやしの物語
そしてこの直後に、8章27-29節のペトロの信仰告白「あなたはメシア(キリスト)です」があります(次週の福音)。このように見ると、2つのいやしの物語は単に肉体的ないやしがテーマであるというよりも、イエスについての理解・悟りを表す象徴的な意味を持っているのではないかと考えられます。弟子たちもこの人々のようにイエスに触れて心の目と耳が開かれていかなければ、イエスのことを本当に理解することはできない、とも言えますし、これらの箇所でいやされた人の中に、イエスを知るという、弟子のあるべき姿が示されている、とも言えるでしょう。わたしたちはどうでしょうか?




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/08/31 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

年間第22主日(2018/9/2 マルコ7章1-8,14-15,21-23節)  


教会暦と聖書の流れ


 年間第17~21主日までの5週間にわたってヨハネ福音書6章が読まれてきましたが、きょうから再びマルコ福音書の朗読に戻ります。年間第16主日の箇所は、マルコ6章30-34節でしたが、その後、マルコ福音書は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与え、湖の上を歩いて舟をこぎ悩んでいた弟子たちに近づき、さらに、多くの病人をいやしたイエスの姿を伝えています。そして、きょうの箇所になります。直前に出てくる地名は「ゲネサレト」で、これはガリラヤ湖の北東岸の町の名です。


福音のヒント


20180902.png
  (1) マルコ福音書では、イエスの活動はずっとガリラヤ地方を中心に行なわれていて、生涯の最後に一度だけイエスはエルサレムに行き、そこで十字架にかかって死ぬことになります。ヨハネ福音書ではイエスは活動中に何度かエルサレムとガリラヤを行き来していますし、エルサレムでの活動も伝えられています。マルコは、神の国を告げるイエスの活動の場であった「ガリラヤ」とイエスを十字架につけた町である「エルサレム」を対比させているのかもしれません。ここでも「エルサレムから来た」という言葉に、その人々がイエスに敵対的な人々であるという意味が込められているようです。

  (2) ファリサイ派は律法を熱心に学び、厳格に守ろうとしていたユダヤ教の一派でした。彼らは、律法学者たちが何世代もかけて作り上げてきた律法解釈を大切にしていました。それがこの箇所では「昔の人の言い伝え」(3節)と言われているものです。イエスの時代には文字に書かれることなく、律法学者たちが口伝えで受け継いできたので「口伝(くでん)律法」とも呼ばれています。なお、これが後の時代に「ミシュナ」や「タルムード」という膨大なユダヤ教文書になって現代まで伝えられていくことになりました。
 「ファリサイ」という言葉の本来の意味は確かではありませんが、一説によると「分離する」という言葉から来ていて、「律法を知らない汚(けが)れた民衆から分離した者」あるいは「罪や汚れから分離した者」の意味ではないかと考えられます。ファリサイ派は「清さと汚れ」に敏感でした。ここでいう「手を洗わない」は現代の衛生観念の問題ではありません。手を洗うのは、宗教的な清めのためです。なお、4節に「市場(いちば)から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」とあります。「市場」は異邦人と接触する場であり、特に汚れを移されやすい場であると考えられていました。
 「汚れた」と訳されている言葉は、ギリシア語で「コイノスkoinos」です。この言葉は本来は「共通の」という意味でした。「交わり」とか「一致」と訳される「コイノニアkoinonia」という言葉はここから来ています。ファリサイ派にとって、特別に清められていないもの=「共通のもの」は皆汚れていたのです。

  (3) ファリサイ派の人々のイエスに対する批判は、イエスご自身の行動だけでなく、むしろイエスの弟子やイエスが関わっていた人々についてのことが多かったようです。ここでの「手を洗わない」という問題もそうですが、他にも「なぜ断食しないのか?」(マルコ2章18節)、「なぜ安息日に麦の穂を摘むのか?」(2章23-24節)といったイエスの弟子たちについての非難が伝えられています。イエスの弟子たちは「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)であり、ファリサイ派的な敬虔さから程遠かったのでしょう。当時の宗教者の基準からは評価されないような弟子たちを、イエスはいつも弁護してくれました。
 しかしここには、ただ単に弟子たちへの思いやりというだけでなく、もっと根本的なイエスの生き方が表れていると言えます。イエスは「分離」ではなく「交わり(コイノニア)」を重んじました。イエスにとってすべての人は「アッバ(父)である神の子」であり、その人間を「清いか、汚れているか」「正しい人か、罪びとか」で分けることよりも、すべての人を神の子として、この神との交わりの中に招き、人と人との兄弟姉妹としての交わりの中に招くこと、これがイエスの使命であり、メッセージだったのです。

  (4) 6-7節にはイザヤ29章13節が引用されています。14-15節は、宗教的な清めにこだわっていた当時のファリサイ派に対する一般的な反論でしょう。イエスが問題にしているのは、さまざまな清めの儀式ではなく、人間の心のあり方です。21-22節では、心の中から出て人を汚すものとして、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」が挙げられています。もちろん、どれも大きな問題ですが、特に「悪口、傲慢」というところに注目してもよいかもしれません。それはまさにきょうの箇所でのファリサイ派や律法学者の問題だからです。「自分たちは宗教的な清めのためにいつも努力している、それなのにイエスの弟子は手を洗わない!」そう言って、彼らは自分たちの優越感から他者を見くだし、非難したのです。
 わたしたちの中にも同じ問題がないとは言えないでしょう。自分は真面目で熱心だと思えば思うほど、その基準を人に押し付けて、他人を「汚れた人間」「ダメなやつ」として裁いてしまう危険があります。そのような態度はイエスの心からどれほど遠いことでしょうか?

  (5) 省略されている箇所には次のような言葉があります。18-19節「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。下線の部分は分かりにくい箇所ですが、「彼はすべての食べ物は清いと言われた」と訳すこともできます。そうだとすれば、これはイエスの言葉ではなく、福音記者マルコの解説でしょう。旧約聖書の律法には食べてよいものと食べてはいけないものについてのさまざまな規定(食物規定)がありました。しかし、初代キリスト教会はユダヤ教の食物規定を捨ててしまいます。それは異邦人をキリスト信者として受け入れるために必要なことだったからです。すべての食べ物を清いとする考えは、イエス自身の教えにさかのぼることなのだ、とマルコは言いたいのではないでしょうか。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/08/24 Fri. 09:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

年間第21主日 (2018/8/26 ヨハネ6章60-69節)  


教会暦と聖書の流れ


 年間第17主日から始まったヨハネ福音書6章の朗読の結びです。ヨハネ6章は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えた出来事から始まって、パンをめぐるイエスと人々との対話が続いてきました。最終的に今日の箇所で、イエスの話を聞いた人々は、「実にひどい話だ」と言いますが、それは「わたしは天から降(くだ)ってきたパンである」(33-40節)、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)というようなイエスの言葉を理解できなかったからだと言えるでしょう。


福音のヒント


名称未設定1
  (1) ヨハネ福音書は1世紀末か2世紀初めに書かれたと考えられています。紀元80年にユダヤ教のラビたちは、キリスト信者をユダヤ教の会堂から追放するという決定を下しました。もはやキリスト教とユダヤ教徒の対立が決定的になってしまった時代にヨハネ福音書は書かれたのです。この箇所の背景には、このような厳しいユダヤ教との対立、そしてその結果、キリスト者の中にユダヤ教に戻ろうとした人がいたことがあるのではないかと考えられます。福音書のイエスの言葉は録音機器に記録されていたようなものではありません。ヨハネ福音書は長い年月をかけて、イエスを信じないユダヤ人たちとの論争の中で、イエスの言葉を思い起こし、拡大していったと考えたらよいのではないでしょうか。

  (2) 62節「人の子がもといた所に上(のぼ)る」はもちろん「天に上る、神のもとに上る」ことを意味しています。6章では「天から降(くだ)ってきたパン」という言葉が何度も繰り返されてきましたが、この言葉と対応しています。ヨハネ福音書において、イエスは「神のもとから来て、神のもとに帰る」(ヨハネ3章13節、13章3節、20章17節参照)方なのです。またヨハネ福音書の「上る」は「天に上る」だけでなく、「十字架の木の上に上げられる」ということとも結びついています(3章14節参照)。十字架の時は、イエスが愛である神の姿を完全に現し、愛である神と一つになる時だからです(ヨハネ13章1節参照)。
 
  (3) 63節では「霊」と「肉」が対比されています。「霊肉二元論」という言葉がありますが、これは人間の中に「霊」と「肉」があってその2つが対立する原理である、というような考えです。聖書の中で「霊」「肉」は人間を構成している2つの部分ではなく、人間の二通りのあり方を表す言葉だと言えるでしょう。「肉」は神とのつながりのない人間のあり方を指し、「霊」とは神とのつながりの原理を指すのです。根本にはいつも、創世記2章7節の「主なる神は、土の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という生命観があります。人は神によって生かされたものであって、この、人を生かす神とのつながりの原理が「霊(=命の息)」なのです。
 イエスの生涯と言葉のすべては、この神とのつながりこそが人を生かすものであることをはっきりと示していました。これを見失い、人間が自分の力に頼って生きようとすること(これが「肉」です)の中に本当のいのちはないのです。
 現代のわたしたちは人間の力・知恵・努力が非常に重視される世界に生きています。だから人間の弱さや限界というものをなかなか認められなくなっているのかもしれません。しかし根本的に、「人間には弱さや限界があり、それでも大きな力が自分を生かしてくださっている」というところにこそ信仰の世界は成り立っているのです。

  (4) 「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである」(64節)とか「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」(65節)という言葉は、信じる人と信じない人を神が前もって決めている、という意味ではないでしょう。これらの言葉は、イエスを信じることは人間の力によるのではなく、神の恵みによるということを強調しているのです。「信じるか信じないかは人間の決断の問題だ」ということと「信仰は神の恵みだ」ということは人間の頭で考えると矛盾しているように思えます。しかし、その両方が真実であることをわたしたちは体験的に知っているのではないでしょうか?
また、このような言葉は、神の計画に対する信頼の表れでもあります。すべては神の計画の中にあり、人間的に見て不条理なことや理解に苦しむことも実は神の大きな救いの計画の中にあり、人間が拒否しても裏切っても神の救いの計画は確実に実現に向かっているという信頼を表す言葉なのです。そして、イエスはこの神の計画全体に決定的な意味で参与している方なので、「最初から・・・知っておられた」ということになるのです。

  (5) 「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)。ここでいう「このため」は「これまでのイエスの説教全体を聞いてつまずいたため」という意味でしょう。このように多くの弟子が離れて行ったという記録は他の福音書にはありません。ここにも(1)で述べたような、ヨハネの時代の厳しい状況が反映しているのかもしれません。ともかく、これはショッキングな言葉です。わたしたちがショックを受けるのは、この言葉が他人事ではなく、自分たちの現実にもあてはまるかもしれないと感じるからではないでしょうか。わたしたちが「イエスから離れ、イエスと共に歩まなくなる」危険を感じるとしたら、それはどんなときでしょうか?
 68-69節「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。このペトロの答えは模範的です。もちろんわたしたちもそのように答えたいのです。しかし、こう答えれば○で、こう答えなければ×というふうに自分や他人を裁いても意味はありません。「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)。わたしたちはいつもこの問いの前に立たされているのです。「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」とイエスが言われるとおり、この問いにペトロのように答えることができるとすれば、それは神の恵みによる以外にないことです。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/08/17 Fri. 08:00 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

年間第20主日 (2018/8/19 ヨハネ6章51-58節)  


教会暦と聖書の流れ


 年間17主日の福音で、イエスが5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えた話(ヨハネ6章1-15節)が読まれ、そこからパンについてのイエスとユダヤ人との間の長い対話が始まりました。きょうの箇所はその頂点とも言える箇所です。ヨハネ福音書は最後の晩さんの席での聖体制定を伝えていませんが、この箇所で聖体の豊かな意味を語ろうとしています。


福音のヒント


20180819.jpg
  (1) 51節は先週の箇所の結びでもありました。ここには「わたしが・・・パンである」と「わたしが与えるパン」という、似ていて少し違う表現が使われています。「わたしがパンである」はこれまでずっと語られてきたことですが、そのまとめとして、イエスを信じることの中にこそ永遠の命があるということが再度語られています。「わたしが与えるパン」のほうは「聖体」という新しいテーマの始まりと考えることができるでしょう。
 最後の晩さんでの聖体制定を伝えるマタイ、マルコ、ルカ、Ⅰコリントは「これはわたしの体である」というイエスの言葉を伝えていますが、ここでは「わたしが与えるパンとは、・・・わたしの肉のことである」と言われています。「体」ではなく「肉」という言葉が使われているのは「血」との対比を鮮明にするためでしょう。「肉を食べ」の「食べる」はギリシア語では「トラゴーtrago」という動詞が使われていますが、これは普通に食事をするというよりも、もっと生々しい表現です。「血」は6章のこれまでの対話にはない言葉で、ここで突然のように語られ始めます。もちろん、これはイエスの血である聖体のぶどう酒のことを意識しているからです。

  (2) 「血」については、レビ記17章に次のような規定があります。
 「10 イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。11 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖(あがな)いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。12 それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。13 イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。14 すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。」
 「血の中に命がある、だから決して食べてはならない」というのが律法の教えでした。ですから「わたしの血を飲む」というイエスの言葉は人々に衝撃を与えたようです(60節参照)。この言葉は、十字架で流されたイエスの血によって、人々が罪から解放され、永遠の命がもたらされた、という確信抜きには理解できない言葉です。イエスにとっては「血は自分の命であるからこそ、この血を飲ませ、命を与える」ということになります。

  (3) 56節の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」にはヨハネ福音書に特徴的な表現が見られます。「わたしの内におり」はギリシア語原文では「エン・エモイ・メネイen emoi menei」ですが、ここで使われている動詞「メノーmeno」は「とどまる、つながっている」と訳されることもあります。ヨハネ15章でぶどうの枝がぶどうの木につながっているというときもこれと同様の表現が使われていて、15章1-9節には繰り返しこの表現があります。次の箇所も典型的です。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(14章20節。ここでは動詞は省略)。これは「相互内在」とも言われるほど深い、互いの結びつきを表す表現です。
 57節の「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」にも、ヨハネ福音書の中で非常に特徴的な表現が見られます。「~ように~も」はギリシア語では「カトースkathos~カイkai~」と言いますが、次のような箇所に使われています。「父がわたしを愛されたように、わたしあなたがたを愛してきた」(15章9節)、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしあなたがたを遣わす」(20章21節)。父とイエスの関係が、イエスと弟子たちの関係に波及し、弟子たちの生き方を根本から新たにしていくのです。

  (4) このように見てくるとヨハネ福音書は、聖体のパンとぶどう酒をいただくことに超自然的な効果があるというよりも、聖体をいただくことはイエスと結ばれ、イエスによって生きることそのものを意味している、ということを強調していると言えるでしょう。この背景にはどんな現実があったのでしょうか? ヨハネの時代の教会の中に、聖体をいただくことを単なる儀式として軽んじる傾向があったのでしょうか? あるいは、実際に聖体のパンとぶどう酒をいただきながら、それが単なる形式になってしまっていて、心からイエスに結ばれて生きていない人々がいたのでしょうか?
 結びの58節で「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」というときの「これ」「このパン」は、「わたしはパンである」というイエスご自身のことであり、同時に「わたしが与えるパン」すなわち「聖体」でもある、という両方の意味があるようです。イエスを信じることと聖体をいただくこと、この2つのことは別のことではなく、結局は1つのことなのだ、と言うのがヨハネの結論だと言えそうです。
 教会は聖体をいただくために信仰と罪のない状態が必要であると言ってきました。しかしそれはただ単に洗礼とゆるしの秘跡を受けているかいないか、という外面的な規則の問題ではありません。わたしたちは聖体をいただくとき、信仰と愛によってイエスに結ばれて生きようとしているかどうか、をいつも問われているのです。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


-- 続きを読む<聖書朗読箇所> --

Posted on 2018/08/10 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

tb: 0   cm: --

プロフィール

最新記事

カテゴリ

福音のヒントQRコード

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク


▲Page top