福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第20主日 (2017/8/20 マタイ15章21-28節)  


教会暦と聖書の流れ


 この話の直前の箇所で、イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことをきっかけに、ファリサイ派・律法学者とイエスの間で「清め」に関する議論が起こっています(15章1-20節)。ファリサイ派・律法学者は神の律法を熱心に守ろうとしたユダヤ人でしたが、細かい清めの律法を守ることを重んじ、もっとも大切な神の望み・み心を見失っていました。イエスはそのことを指摘しています。次に登場するのが、この人々の正反対とも言える人、ファリサイ派や律法学者から見れば「神を知らないはずの」異邦人の女性です。


福音のヒント


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  (1) 「ティルス」「シドン」はガリラヤの北、シリア・フェニキア地方に位置する異邦人の町、「カナン人」はパレスチナの古くからの住人です。同じ話はマルコ7章24-30節にもありますが、そこでは「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と紹介されています。とにかくユダヤ人から見たら明らかに異邦人(外国人)でした。
 22節で彼女は「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と呼びかけます。「ダビデの子」はイスラエルの王(メシア=油注がれた者)を表す言葉です。マタイ20章30-31節でもイエスに助けを願った盲人がこう呼びかけていますが、これは彼ら自身の考えというよりも、当時の人々のイエスについての評判がそういうものであったということなのでしょう。なお、当時は「悪霊」が肉体的な病気をも引き起こすと考えられていましたが、この女性の娘がどんな病気であるかはもちろん分かりません。

  (2) 実は22-25節のやりとりはマルコ福音書の平行箇所にありません。マタイはこのイエスの拒絶というテーマを強調しているようで、12人の弟子を派遣した箇所にも似た言葉がありました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10章5-6節)。このような言葉はマタイ福音書だけが伝えていますので、ここにはマタイのいた教会特有の問題意識があると考えられます。ユダヤ人キリスト者の共同体だったマタイの教会の中には異邦人排除の考え方があり、マタイはそのような考えをここで紹介しながら、イエスご自身がその枠を乗り越えていったのだ、と言いたいのかもしれません。

  (3) もしイエスご自身が第一にイスラエルの人々のことを考えていたのだとすれば、それはなぜでしょうか。一つの可能性は、イエスがまず身近な人々を優先すべきだと考えたということでしょう(A年年間第12主日の「福音のヒント」参照)。自分が変わることによって、少しずつ自分の周囲が変わり始める、そしていつかそれが社会や世界の大きな変化につながっていく。イエスのやり方もある意味でそうだったと言えるかもしれません。
 もう一つ考えられることは、イスラエルの民が神のことばと神の約束を受けていた民だからという理由です。イエスが目にしていたイスラエルの人々の現実はそこから程遠いものでした。神殿での祭儀を重んじたり、律法を事細かに守ろうとしたりする当時のユダヤ宗教のあり方は、多くの貧しい人を「失われた羊」(24節)にしてしまっていました。その人々を神の群れに連れ戻すこと、もう一度、その人々と神とのつながりを取り戻し、人と人とのつながりを取り戻すこと、それがイエスにとって最優先の使命と感じられたと考えてもよいでしょう(この「失われた羊」のイメージはエゼキエル34章のイメージです)。

  (4) 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)も同じような拒絶の意味を持った言葉です。「子供」はイスラエル民族を指し、「小犬」は異邦人を指します。犬は今ではペットとして愛されていますが、聖書の中では忌(い)み嫌われる動物でした。このイエスの言葉は、今から見れば差別発言だと言わざるをえないかもしれません。しかし、ここでカナンの女は、このイエスの言葉を逆手(さかて)にとって、自分たちも救いを受けることができるはずだ、と主張します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。ここには彼女の必死の思いとイエスへのゆるぎない信頼が感じられるでしょう。イエスはこの女性の姿に接して態度を変えます。

  (5) 今日の箇所のポイントは、イエスがイスラエル民族を優先し、異邦人を排除していた、ということではありません。ポイントはイエスにイスラエル優先の考え方があったとしても、この異邦人との出会いの中で、イエスのほうが変えられ、結局は彼女を受け入れたということです。イエスの弟子や最初のキリスト者は皆ユダヤ人でした。初代教会にとって異邦人をどのように受け入れるかは、大きな問題でした。彼らは、抽象的に「異邦人も救いにあずかれるか」と議論して、そこから異邦人への働きかけを始めたのではありません。むしろ、異邦人がイエスを信じるようになったという現実が先にあり、それがユダヤ人から始まった教会のあり方を変えていったのです。使徒言行録8章のサマリア人やエチオピアの宦官(かんがん)の物語、10章のローマ人コルネリウスの物語がその例です。

  (6) イエスにとってもそうだったのでしょう。「信仰はまずユダヤ人のものである」という考えがあったとしても、現実にユダヤ人でない人が信仰を示したのに出会ってしまったのです。この人間との出会いによってイエスの心は揺さぶられます。イエスにとってほんとうに大切なのは、自分の宣教計画ではなく、目の前の人間だったと言えるでしょうか。現実との出会い、人との出会いによって変えられていくイエスはステキです。わたしたちにも、もちろん自分なりの考えや計画があります。もしかするとそれが人と出会うことを妨げてはいないでしょうか。「この人はこういう人に決まっている」「あの国の人はああいう人たちだ」そう決め付けてしまい、出会うことをやめてしまっていることがあるかもしれません。国籍や民族の異なる人とどのように出会い、どのように理解し合い、信頼関係を築いていけるかは、今のわたしたちの大きな課題です。きょうの福音の箇所はすべての人との平和を願うわたしたちにとって大きな光を与えてくれるはずです。




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Posted on 2017/08/11 Fri. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第19主日 (2017/8/13 マタイ14章22-33節)  


教会暦と聖書の流れ


 この箇所の前には、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人の飢えを満たしたという話が伝えられています(マタイ14章14-21節)。きょうはそれに続くもう一つの不思議な出来事です。弟子たちはこのような体験をとおして、次第にイエスを特別な方、神からの力に満ち溢れた方と見るようになっていきます。


福音のヒント


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  (1)  ほんとうにイエスは湖の上を歩いたのでしょうか。聖書に書いてあるのだからそのとおりに違いない、という人もいるでしょうし、どうしてもそうとは信じられないという人もいるでしょう。事実はどうだったのか、と議論してもあまり実りはなさそうです。
 この出来事はマルコとヨハネも伝えていますが、ルカは省略しています。なお、マルコやヨハネではイエスが水の上を歩いたということだけで、ペトロが水の上を歩こうとした話はありません。さらにマルコ、マタイ、ルカに共通する「嵐を静める」出来事(マタイ8章23-27節など)とも似ている面があります。これらの話は誰かが頭の中で考え出したフィクションではありません。何かしら弟子たちにとって不思議な体験がガリラヤ湖であり、それが伝えられていくうちに今の福音書のような物語になったと考えたらよいでしょう。

  (2)  彼らが向かった「向こう岸」は、34節によれば「ゲネサレトという土地」です。異邦人の土地ではありませんが、見知らぬ土地のイメージなのかもしれません。
 ある人はこの出来事についてこう考えました。「弟子たちはイエスを残してガリラヤ湖に船出した。自分たちだけで見知らぬ土地に行く不安がある。案の定、逆風にあい、いつの間にか舟は岸に押し戻されていた。イエスは近くの岸辺を歩いてきたが、弟子たちは自分たちが湖の真ん中にいると思い込んでいたので、イエスが湖の上を歩いているのだと思った。」もちろんこんな考えは単なる想像であって、何の根拠もありません。ただ、そうだとしても本質的な意味に変わりはないのかもしれません。大切なのは実際の出来事そのものよりも、弟子たちにとってそれがどういう体験だったのか、ということだからです。この体験は弟子たちがイエスは特別な方であると気づく体験だったのです。マタイではこの物語の結びに「本当に、あなたは神の子です」という告白があります。

  (3) この物語の中で大切にしたいのは「恐れと疑いから信頼へ」というイメージです。「信じる」はギリシア語で「ピステウオーpisteuo」、名詞の形は「ピスティスpistis」です。「ピスティス」は普通「信仰」と訳されますが、「信頼」と訳すこともできます。
 「信仰」と言うと「神の存在を信じる」ことだと考えがちですが、福音書の中で問題になっているのは、「神が存在するか否か」というようなことではありません。問題は「神に信頼を置くかどうか」です。「疑い」とは神に信頼しないこと。神に信頼せず、自分の力だけで危険に立ち向かおうとするとき「恐れ」に陥るのです。
 イエスは恐怖のどん底にいる弟子に向かって「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と呼びかけます。「わたしだ」と訳されたことばは日本語訳だけ見ていると、「幽霊などではなく、わたしである」と言っているだけのように聞こえるかもしれません。この「わたしだ」は、ギリシア語では「エゴー・エイミego eimi」で、英語で言えば「I am」という言い方です。この「エゴー・エイミ」は「わたしがいる」とも訳すことができるのです。「わたしがいる」は、「わたしはあなたとともにいる」という意味でもあります。「安心しなさい。わたしがともにいる。だから、恐れることはない」イエスは今もさまざまな恐れに囚われているわたしたち一人一人にそう呼びかけているのではないでしょうか。
 また、この「エゴー・エイミ」は、旧約聖書では神がご自身を表すときに用いられた表現(「わたしはある」出エジプト記3章14節)ですから、ここでもイエスが神としての威厳と力を持っていることを宣言している、と受け取ることもできます。

  (4) 28-31節はマタイがマルコの伝承に書き加えた部分と考えられますが、マタイだけが知っていた別の伝承があったのでしょうか。このような物語は、イエスの地上での活動中にガリラヤ湖で起こった一回の出来事というよりも、むしろ、復活して今も生きているイエスと弟子の出会い、そしてキリストを信じて歩もうとするわたしたちすべての歩みを表していると考えたらよいでしょう。わたしたちもペトロのように水の上を(あるいは、水の上でなくともイエスに従う道を)歩みたいのです。しかし「強い風」(さまざまな困難)のために「怖くなり」、「主よ、助けてください」と叫びたくなることがあります。イエスはそんな弟子に対して、「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださるというのです。そのようなイエスの助けをわたしたちも感じることがあるかもしれません。また、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉も、「もっと大きな信頼を持つように」という励ましとして受け取ることができるでしょう。
 福音書を読むときに大切なのは、2000年前の出来事として読むだけでなく、今のわたしたちと神(あるいは、復活して今も生きているキリスト)との出会いの物語として読むことです。

  (5) 日本のカトリック教会では、8月6日から15日までの10日間を「平和旬間」としています。過去の戦争や広島・長崎の原爆の惨禍を思い起こし、平和のために祈る季節を迎えています。この世界では今もなお戦争やテロが繰り返されています。災害や事故も起こり続けています。身近なところでもわたしたちは暴力や犯罪に脅かされています。本当に平和な世界を実現するのは「水の上を歩く」のと同じぐらい難しいことでしょうか。
 「平和」と訳されるヘブライ語の「シャローム」は、「欠けたもののない状態」を表すそうです。神が共にいてくださり、すべての人が神の愛に満たされ、神の恵みがすべての人に等しく行き渡るところに本当の平和があります。その平和はまずわたしたち一人一人の中から始まると言えるのかもしれません。




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Posted on 2017/08/04 Fri. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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主の変容 (2017/8/6 マタイ17章1-9節)  


教会暦と聖書の流れ


  わたしたちは主日のミサの聖書朗読配分に基づいて福音書を読んでいますが、今日は年間主日の流れを離れて、8月6日の主の変容の祝日の福音を読みます。キリストの出来事を祝う祝日(主の祝日)が年間の主日に重なった場合、主の祝日のほうを優先して祝うことになっているからです。
 実は、この日の福音の箇所は、今年(A年)の四旬節第二主日とまったく同じです。主の変容の出来事は、受難の道を歩むイエスに従うよう弟子たちを励ますものとして、伝統的に四旬節に読まれてきた箇所でもあるのです。この「福音のヒント」もほとんどそのまま使っていますが、四旬節中に読むのと広島の原爆記念日に読むのとでは、受け取る側にとってやはり違いがあるのではないでしょうか?


福音のヒント


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(1) きょうの箇所のはじめ、マタイ17章1節には「六日の後」という言葉があります。朗読聖書では省かれていますが、この言葉は、直前の出来事との関連を感じさせる言葉です。この箇所の直前にあるのは、ペトロの信仰告白と最初の受難予告です。マタイ16章21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。変容の出来事は、この受難予告と密接につながっているのです。きょうの箇所の結びの「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」(マタイ17章9節)という言葉もそのことを暗示しています。上の16章21節が「言葉による受難予告」だとしたら、17章は「出来事による受難予告」と言ってもよいほどです。この出来事は、イエスが受難と死をとおって受ける栄光の姿を弟子たちに垣間(かいま)見させ、そのイエスに従うように弟子たちを励ますための出来事だったと言ったらよいでしょう。
 モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の主要な部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとモーセ、エリヤが話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9章31節)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきをいっそう明確にしています。

  (2) ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょうか。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだほんとうの栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。
雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう(宮崎アニメの『天空の城ラピュタ』のように)。聖書の中では、「雲」は目に見えない神がそこにいてくださるというしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40章34-38節参照)。

  (3) 雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マタイ3章17節)。この言葉の背景にはイザヤ42章1節の「主の僕(しもべ)」についての言葉があると考えられます。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難の道を歩み始めますが、そのときに再び同じ声が聞こえます。つまり、この受難の道もまた、「神の子、主の僕」としての道であることが示されるのです。
 そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、「聞き従うこと」を意味します(申命記18章15節など参照)。これは、受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16章24節)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。

  (4) 受難の道を行くイエスに従っていくこと、これが今日の福音の呼びかけです。しかし、実際には、弟子たちはこれほど輝かしいイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。弟子たちがこの出来事の意味を本当に理解できるようになったのは、復活後のことでした。ところで、今のわたしたちにとっては、イエスの受難も死も復活の栄光も、もうすでに知っていることです。苦しみの先に栄光が待っていると知っているから、わたしたちは今の苦しみに耐えていくことができるのでしょうか。
 イエスは今日の箇所で、将来ご自分が受ける栄光を感じる以上に、モーセとエリヤが代表する神の救いの計画の中に、今自分がいることを強く感じ、また、天からの声に示される父である神とのつながり・親しさを深く感じていたのでしょう。だからこそイエスの道は揺るがないのです。わたしたちも同じかもしれません。どんな苦しみの中にあっても、神とのつながり・イエスとのつながりをどこかでしっかりと感じていれば、イエスと共に「神の愛する子」としての道を歩むことができる、と言えるのでしょう。

  (5) 8月6日・広島原爆の日から、8月9日・長崎原爆の日を経て、8月15日・終戦の日までの10日間を、日本のカトリック教会は、平和について学び、平和のために祈り、行動する「平和旬間」としています。かつての戦争の悲惨な出来事を思い起こし、平和を願いますが、今この世界の平和を脅かすさまざまな事態の前でどう生きるべきか、迷うことがあるかもしれません。そんな時こそわたしたちは、今日の福音の「神の愛する子であるイエスに聞け」という呼びかけを深く、真剣に受け取るよう招かれているのです。




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Posted on 2017/07/28 Fri. 11:58 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第17主日 (2017/7/30 マタイ13章44-52節)  


教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所は、マタイ13章1節から始まった天の国(神の国)についてのたとえ話集の結びの部分で、ここに3つのたとえ話があります。これら3つのたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるものです。
 イエスのたとえ話を読むとき、解釈の可能性はいろいろあります。メッセージの意味が確定できない一つの理由は、イエスの言葉だけが伝えられてきて福音書に載せられているので、たとえ話の語られた本来の状況がよく分からなくなっているからだと考えられます。ですから、唯一の正しい解釈は何かと考えるよりも、イメージをふくらませ、いろいろな読み方をしてみるとよいかもしれません。


福音のヒント


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  (1) 「畑に隠されていた宝」と「真珠」のたとえ話はよく似ています。古代では真珠は養殖されるものではなく、自然にできたものを発見するだけだったので非常に高価でした。この2つのたとえ話は、天の国は人間にとって最高の宝だから、何にもまして天の国を求めなければならない、と教えているという解釈が一般的でしょう。「天の国」は「神の国」と同じで、「神が王となる状態=神の愛がすべてにおいてすべてとなる状態」と考えればよいでしょう。あるいは「本当の意味でわたしたちが神と共にいる状態」と言ってもいいかもしれません。このたとえの場合、「畑に隠された宝」「高価な真珠」が「天の国=神の国」だということになります。わたしたちにとって本当の宝とは? すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか?
 最初のたとえでは、なぜただの宝ではなく、「畑に隠された宝」なのでしょうか。「見つけた人」は小作人で、たまたま主人の畑で働いているときに宝を発見したということなのでしょう。畑を買わなくとも宝だけを持ち去ればよいのかもしれませんが、彼は畑そのものを手に入れます。そこに何か意味があるのでしょうか。次のようなことを考えてみてもよいかもしれません――彼が見つけたのは自分自身のうちに隠されていた宝だったのではないか。それを発見したときに、彼は自分の人生を手に入れたことになるのだ(もはや小作人ではなく自立した農民になる)、と。

  (2) 別の解釈があるとすれば、それは「畑に隠された宝」や「真珠」をわたしたち人間のことだと受け取ることです。ちなみに、47節以下の漁のたとえ話では、明らかに神が漁師で、人間は神が獲得する魚です。人間が神を求めるよりも、神のほうがわたしたちを探し求めている、そう考えてみるとまったく別の面が見えてきます。
 このように考えた場合、「持ち物をすべて売り払って」も特別なニュアンスを持つことになるでしょう。神が人間を獲得するためにすべてを犠牲にした、それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)、「イエスはわたしたちのために命をささげてくださった」ということを連想させないでしょうか。そう受け取るならば、これはもう、ただひたすら感謝する以外にないことです。
 福音書のたとえ話は1つの教えというよりも、1つのイメージなのです。好き勝手なイメージでどんなに曲解してもよいというわけではありませんが、イエスの生き方とメッセージ全体とつながるイメージであればよいのです。また、またそのイメージがわたしたちの現実とつながるイメージであれば、そこには大きな力があります。

  (3) 漁のたとえは、明らかに前半(47-48節)と後半(49-50節)に分けられ、後半は前半の説明のようになっています。内容は、先週の毒麦のたとえ(24-30,36-43節)とよく似ています。福音記者マタイの頭の中には「救いの歴史」というものが明確にあったようです。「旧約時代の律法や預言→イエスによるその実現→教会の時代→世の終わりの裁き」。マタイ福音書では、こういう考えに基づいて、そこからイエスのたとえ話を理解しようとする傾向が強いと言えるでしょう(先週の「福音のヒント」参照)。
 毒麦のたとえのように、マタイ的な解釈の部分を取り去ると、本来は「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚(良いものも悪いものも)を集める」というだけのたとえだったのかもしれません。そうだとすれば神がどんな人をも招いている、というところにたとえのポイントがあることになります。
 今のわたしたちにとっての意味はどうでしょうか? 終末の裁きというのはへたをすると人に恐怖心を植え付け、それによって人をコントロールするメッセージに聞こえてしまうかもしれません。しかし、本来の終末についてのメッセージは人に恐怖心を与えるためのメッセージではありません。神の判断で何が「良し」とされるかを明確に示し、その神の判断にかなう生き方をするように決断を迫るメッセージなのです。今はすべての人が招かれている、と同時に、その招きにふさわしく応えるかどうかが問われる(この点でもっとも明快なメッセージはマタイ25章31-46節です)。イエスの福音にはこの2つの面があります。どちらか一方だけではダメなのです。
  
  (4) 「天の国のことを学んだ学者」とは、この文脈では弟子たちのことです。「無学で普通の人」(使徒言行録4章13節)であった弟子たちがここでは「学者」と言われるのです。マタイ23章34節によれば、マタイの時代の教会には、実際に「預言者、知者、学者」と呼ばれていた人がいたようですが、ここでは特別な教師職にある人というよりも、すべての弟子のあるべき姿が語られていると考えるべきでしょう。イエスの天の国の教えをよく理解することが弟子のあるべき姿なのです。
 「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」はもちろん、イエスご自身のことでしょう(マタイ10章25節参照)。古いものとは旧約時代に神が示されたこと、新しいものとはイエスによってもたらされた天の国の福音と考えることができます。わたしたちはこのイエスに「似ている」というのです。もしも本気で受け取ることができるとすれば、これはどれほど大きな恵みの言葉でしょうか!




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Posted on 2017/07/21 Fri. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第16主日 (2017/7/23 マタイ13章24-43節)  


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 マタイ福音書13章には天の国(=神の国)のたとえが集められています。きょうの箇所は、先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所ですが、ここでもイエスは、終末(=世の終わり)における神の国の完成よりも、今すでに始まっている神の国の現実に目を向けさせていると考えてよいのではないでしょうか。


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  (1) 「毒麦」のたとえはマタイ福音書だけが伝えるものです。先週の「種を蒔く人」のたとえ(3-9,18-23節)同様、「毒麦」のたとえにも、たとえ話自体(24-30節)とたとえ話の説明部分(36-43節)があります。説明部分では終末の裁きのありさまが語られています。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国(みくに)の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」(37-40節)。この説明によれば、このたとえ話は、最終的に神が毒麦(=罪びと)を裁くということを教える話だということになります。それがこのたとえ話の本来のメッセージでしょうか。むしろ、「種を蒔く人」のたとえ同様、この説明の部分は後の時代の解釈と考えたほうがよいのではないでしょうか。

  (2) たとえ話だけを見ると、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(30節)という主人の言葉が中心だと考える可能性もありそうです。つまり、「世の終わりに裁きがある」ということよりも「今は裁かない」ということがポイントかもしれないのです。「説明部分」が整っていくうちに、それが「たとえ話本体」に影響を与え、敵の存在などの要素が後から加わっていったとも考えられます。そういう部分を差し引くと、本来は「良い麦と毒麦が混じって生えてきたが、主人は『両方とも育つままにしておきなさい』と言った」という単純なたとえ話だったのかもしれません。
 だとすると、このたとえ話もイエスへの批判に答えるものだったと言えそうです(先週の『福音のヒント』参照)。その批判とは「なぜあなたは罪びと(=毒麦のような人)を神の国の共同体に招いているのか(あるいは、弟子にしておくのか)」というような批判です。イエスはそのことを良しとしたからです。なぜ毒麦を抜かないのか、その理由は「本当に毒麦か良い麦か、今は分からない」ということです。また、最終的な裁きのときにそれが明らかになるということには、「人間の目から毒麦と見えても、神の見方は違う」ということも含まれているでしょう。さらに、植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、「毒麦」が「罪びとのレッテルを貼られていた人」の意味ならば、「毒麦が良い麦に変わる可能性」だってありえます。単なる寛容の教えではなく、ここに、誰をも切り捨てることのない神の国のあり方、イエスご自身の生きた姿を感じたらよいでしょう。

  (3) わたしたちの周りには確かに多くの悪が存在します。「悪(=毒麦)は排除すればよい。犯罪は厳しく取り締まり、悪人を社会から抹殺すればよい社会が来るはずだ」という考えがあります。教会の中でも「罪びとをすべて排除すれば聖なる教会ができるはずだ」という誘惑があるかもしれません。しかし、本当はそうではないし、そうであってはならないことを「毒麦」のたとえは語っているのではないでしょうか。どうしたら人間や人間の集団が本当の意味でよくなることができるのか、その答えをいつもイエスの生き方とメッセージの中に探していきたいものです。

  (4) 「からし種」のたとえはマルコ3章30-32節、ルカ13章18-19節と共通していますが、「パン種」のたとえはマルコにはなく、ルカ13章20-21節だけと共通しています。
 「からし種」は直径1~2ミリの小さな種で、明らかに小さなもののたとえです。この植物は成長すると高さが3~4メートルになると言われています。このたとえ話は、神の国が初めは小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものになる、ということを表しています。ここにもイエスに対する批判や疑問を想定してみるとよいかもしれません。当時の人々にとって、天の国(神の国)というメッセージは、神が王となり、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれるというようなメッセージに聞こえました。そういう政治的・軍事的な勝利を期待していた人々から見れば、イエスの周りに集まった人々の集団はみすぼらしく、神の国からは程遠いと感じられたのではないでしょうか。しかし、イエスは、この小さな現実の中に神の国の確かな芽生えを見ているのです。
 「パン種」についても同じようなことが言えるでしょう。しかし、ここでは「パン種」自体が大きくなるのではなく、パン種によって「全体」が大きくなるのですから、「この小さな、弱々しく見える人々の集いが社会全体を神の国に変えていく」という意味に受け取ることもできるでしょう。神の国の成長は人間の力で実現するものではありません。イエスは、人間的な目で見れば「ちっぽけな、取るに足らない現実」でしかないものを「神の国の芽生え」と見て、それを成長させてくださる神への信頼を求めているのです。

  (5) イエスのたとえ話は、わたしたちが目の前の現実を見る見方を変えます。自然災害や大事故の前では、人間の無力さばかりを感じることがあるかもしれません。戦争やテロの現実の前では、平和を願う祈りはあまりにも弱々しく感じられるかもしれません。人と人との関係を引き裂いていく大きな力や不気味な暴力の前では、それでも愛し続けようというわたしたちの努力がむなしく感じられてしまうかもしれません。しかし、その善意と努力を「からし種」や「パン種」と見たときに、この現実も決して捨てたものじゃない、と受け取ることができるのではないでしょうか。
 今の時代、人間の力に頼ろうとする傾向は特に強いかもしれません。科学技術、経済力、軍事力、そういったもので物事を解決しようとする考えが確かにあります。しかし、人間の力ではなく、神の力で神の国は成長していく、そこに信頼と希望をおくときに、わたしたちの日々の小さな努力が支えられているのを感じることができるのではないでしょうか。




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Posted on 2017/07/14 Fri. 07:51 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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