福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

待降節第4主日 (2017/12/24 ルカ1章26-38節)  


教会暦と聖書の流れ


 待降節第4主日はクリスマスの直前の日曜日で、この日のミサの福音では、イエスの誕生に直接関係する箇所が読まれます。今年(B年)は、ルカ福音書1-2章のイエスの誕生と幼年時代の物語から採られた、いわゆる「受胎告知」(あるいは「お告げ」)の場面です。イエスを身ごもったマリアという一人の女性の中に、神の救いの働きがもう始まっています。


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  (1) 28節は「アヴェ・マリアAve Maria」の祈りの冒頭に引用されている言葉です(「マリア」という固有名詞は聖書本文にはなく、後の時代に付け加えられました)。「アヴェ」はギリシア語「カイレchaire」のラテン語訳です。新共同訳が「おめでとう」と訳しているように、「カイレ」も「アヴェ」も祝福の意味を込めたあいさつの言葉として用いられていました。しかし、「カイレ」の本来の意味は「喜べ」です。旧約聖書のゼカリヤ9章9節やゼファニヤ3章14節のギリシア語訳(七十人訳)では、「カイレ」が「喜べ」という本来の意味で使われています。このゼカリヤ書の箇所は有名な箇所です(新共同訳では「喜べ」が分かりにくいのですが・・・)。
 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌(め)ろばの子であるろばに乗って」。
 これは救いの到来を預言した言葉で、イエスのエルサレム入城にあたって引用される箇所でもあります(マタイ21章5節など)。シオンはエルサレムの神殿のある丘の名前で、「娘シオン」「娘エルサレム」はエルサレムの町全体(あるいはその住民)を指しています。旧約の預言との関連を考えると、「カイレ」は単なるあいさつではなく、旧約の民が長く待ち望んでいた神の救いが、今、実現していることを感じさせる「喜べ」なのです。
 「主があなたと共におられる」は、ギデオンが士師として召し出されるときに天使から告げられた言葉です(士師記6章12節)。モーセや預言者たちの召命の場面では、神ご自身が「わたしはあなたと共にいる」と約束します(出エジプト記3章12節、エレミヤ1章8節など)。弱い人間が神の救いの道具として選ばれるときに与えられる神の力強い助けを表す言葉であり、ここでもマリアに特別な使命が与えられることが暗示されています。

  (2) 同じ28節の「恵まれた方」は、原文では「ケカリトーメネーkecharitomene」で、文法的には「完了形受動分詞」です。完了形には「以前からずっと恵まれていて今も恵まれている」というニュアンスがあるので、「聖マリアの無原罪の御宿り」の教義につなげて考えることもできます。また、この完了形にはただ単に「恵まれた方」以上の強い意味があるとも考えられ、ラテン語では「グラツィア・プレーナgratia plena」(「恵みに満ちている」という意味) と訳されています。日本語のアヴェ・マリアの「聖寵充ち満てる」(文語)、「恵みに満ちた」(口語)という表現は同じ解釈から来ています。

  (3) 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」は「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7章14節、マタイ1章23節)とよく似た表現です。この「おとめ」はヘブライ語では「アルマー」で、単に「若い女」を意味する言葉ですが、古代のギリシア語訳で、「処女」の意味がある「パルテノスparthenos」と訳されました。イエスを身ごもったマリアが処女であったことについてはさまざまな解釈がありますが、処女とは、単純に「子どもを産むことができない女」と考えてもよいでしょう。高齢のエリサベトが子どもを身ごもったのも神の働きですが、男を知らないマリアが身ごもることはまったく人間の力ではなく、完全に神の力によることです。救い主イエスの到来は人間の力によって実現するのではなく、「聖霊」=「いと高き方の力」(35節)によってもたらされる神の恵みの出来事なのです。
 
  (4) 「なりますように」と訳された言葉はギリシア語では「ゲノイトgenoito」です。ラテン語では「フィアットfiat」と訳され、ある英語訳では「Let it be」と訳されて、多くの人に親しまれてきた言葉です。これは信仰者の模範としてのマリアの姿をもっともよく表わす言葉だと言えるでしょう。
 マリアにとって、天使のお告げを受け入れることは決して簡単なことではありませんでした。この時点でマリアの妊娠を知ったヨセフがマリアを受け入れてくれるという保証はありません。常識的には婚約は破談になり、マリアはシングル・マザーにならなければならないところでしょう。それでもマリアは神の言葉を受け入れ、自分を神の言葉にゆだねました。マリアにとって、神の言葉は自分と関係ないどこかで実現するのではなく、「この身に(=わたしに)」実現するのです。主の祈りの「み心が行なわれますように」やゲツセマネの祈りの「わたしが願うことではなく、み心に適(かな)うことが行われますように」(マルコ14章36節)も思い出すことができます(ラテン語では「行われますように」はいずれもfiatです)。わたしたちも心から「フィアット」と祈ることがあるでしょう。
 神はマリアの受諾を必要としたのでしょうか。マリアに何も告げなくとも(あるいはマリアが断ったとしても)救い主をこの世に誕生させることはできたはずです。しかし、神は天使をとおしてマリアに語りかけ、マリアが自由に受諾することを求めました。神の救いを「握手」のイメージで考えると良いかもしれません。神の救いの手は人間に差し伸べられています。人間はそれを無視することも、はねのけることもできます。しかし、マリアは「はい」と応えて自分の手を差し出し、そこに初めて「握手」(本当の意味での救い)が成り立ちました。そういう意味で、このマリアの受諾から救いの時代が始まっていると言えます。わたしたちは神の差し出される手にどのように応えているでしょうか。




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Posted on 2017/12/15 Fri. 09:26 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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待降節第3主日(2017/12/17 ヨハネ1章6-8,19-28節)  


教会暦と聖書の流れ


 教皇庁から出されている『典礼暦年に関する一般原則』(39)の中で、待降節は「愛と喜びに包まれた待望の時」であると言われています。特にこの第三主日は伝統的に「喜びの主日」と呼ばれ、救い主が確かに来られる、もうそこまで来ておられるという喜びの雰囲気をもって祝われます。福音は、先週のマルコ1章1-8節と同様、イエスの先駆者であった洗礼者ヨハネのことが読まれますが、きょうの箇所はヨハネ福音書から採られています。


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  (1) ヨハネ1章1-18節はこの福音書の「序文」と言われますが、きょうの箇所=6-8節はその中から採られています。ヨハネ福音書のはじめは次のようになっています。
 「1初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」
 「言(ことば)」はギリシア語で「ホ・ロゴスho logos」(hoは冠詞)と言います。この「ホ・ロゴス」とは何でしょうか。昔からいろいろな人がいろいろな解釈をしてきましたが、やはり「光あれ」という言葉で創造のわざを始められた神の言葉のイメージが大切です(創世記1章参照)。「言」とは無からすべてのものをお造りになった「神の力強い働きかけ」そのものだということができるでしょう。そして、1章14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。「肉」は人間のことですが、「滅び行く、弱いものとしての人間」を指す言葉です。神の力強い働きかけが、一人の弱く、滅び行く生身の人間となったというのです(このヨハネ1章1-18節は「主の降誕・日中のミサ」で読まれる福音です)。きょうの箇所はその受肉のイエスを、「世に来てすべての人を照らす光」であるイエスを証しし、指し示す人として洗礼者ヨハネを伝えています。

  (2) 序文のあと、1章19節から福音書の物語が始まりますが、そこでの洗礼者ヨハネについての見方も同様です。ヨハネ福音書は他の福音書と違って洗礼者ヨハネの生活や活動についてまったく述べていませんし、イエスがヨハネから洗礼を受けたという出来事さえ伝えません。この福音書では、ヨハネは「わたしはメシアではない」と公言し、「わたしは・・・声である」と宣言します。他の福音書も「荒れ野に叫ぶ者の声」というイザヤ40章3節を引用してヨハネの登場の意味を語りますが、ヨハネ自身が「声」であると明言するのはヨハネ福音書だけです。ヨハネ福音書にとって、洗礼者ヨハネはあくまでも「イエスを指し示す人」なのです。先週に続き、きょうの福音でもイエスは「後から来られる方」として予告されているだけで、直接は登場していません。しかし、本当のテーマは「イエスご自身」です。待降節の福音の箇所は、洗礼者ヨハネを見つめるためではなく、ヨハネが指し示した、来るべきイエスに心を向けるために選ばれている箇所なのです。

  (3) 「証しする」という言葉は深く受け取りたい言葉です。日本語では「証言する、証人となる」と訳したほうが具体的なイメージが湧くかもしれません。それは単に言葉で自分の考えを述べる、ということではありません。ある事件の証人とはその出来事を確かに見たり経験したりした人を意味します。自分が「見たこと、経験したことを語る」のが「証言する」ということなのです。洗礼者ヨハネは何らかの仕方で神から「後から来られる方」を示されたからこそ、その方について証言したのでしょう。
 「証しする」のは言葉だけではないはずです。「キリストの証人となる」というとき、いくら言葉で語っても伝わらないと感じることは多いのです。もちろん、「わたしはこのような体験の中でイエスを知った、イエスの愛を感じた」というような言葉には力があります。しかし、もっとも力強いのは、イエスと出会って人が変えられた(救われた)、ということがその人の生き方の中に表れるときではないでしょうか。教会の「殉教者」という言葉の原語は、もともと「証しする人」の意味でした。殉教者とは、言葉よりもその生涯と死をとおして、キリストを証しした人々なのです。キリスト教は、難しい神学ではなく、言葉と生き方による「証し」によって受け継がれてきた、と言っても過言ではありません。わたしたちにとってイエスを証しするとはどういうことでしょうか?

  (4) ヨハネは「光について証しをするため」(1章7,8節)に来ました。そして「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(1章9節)と言われます。
 「闇の中に光が輝く」ということは、待降節~降誕節全体を貫くテーマです。待降節と降誕節は「苦しみの季節」と「喜びの季節」と言った別々のテーマではなく、この一つのテーマが別の面から取り上げられていると考えたらよいでしょう。待降節は「わたしたちの救われていない部分、闇に覆われている部分、救いを必要としている部分」から救い主を見つめていきます。これは誰の中にもある面でしょう。そして、降誕節は「その闇の中にもうすでに輝いている、小さな、しかし確かな光」である幼子イエスを見つめるのです。これもわたしたちがどこかで経験していることではないでしょうか。
 クリスマスが来ても、わたしたちの闇が、苦しみが、問題がなくなるわけではありません。それでも「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光に打ち勝たなかった」(1章5節。後半は新共同訳とは別の訳)。クリスマスが冬至の季節に祝われるのもこのことと関連があるようです。寒い冬は確かに続いている。しかし、もう光の時が闇の時よりも長くなり始めているのだ!古代の人々が感じたこの喜びをわたしたちも感じとることができるでしょうか。




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Posted on 2017/12/08 Fri. 09:32 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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待降節第2主日 (2017/12/10 マルコ1章1-8節)  


教会暦と聖書の流れ


 毎年、待降節第2、第3主日のミサの福音には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは救い主を待ち望んでいた旧約時代の人々の代表(その最後の人)だと言えるでしょう。大切なのは、洗礼者ヨハネを見つめることではなく、ヨハネが指し示した来(きた)るべき方=イエスを見つめることです。きょうの箇所にはまだイエスが登場しませんが、わたしたちにとって「イエスの到来」は2000年前にすでに起こったことです。教会の暦と聖書朗読配分は、毎年、待降節・降誕節全体をとおして、イエスの到来の意味を深く味わうよう、わたしたちを招いています。


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  (1) 「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1章1節)は、「神の子であり、キリストであるイエスの福音の初め」とも訳すことができます。新共同訳聖書は、ギリシア語の「クリストスchristos」が称号として用いられているときは「メシア」、イエスを指す固有名詞のように用いられているときは「キリスト」と訳し分けていますが、キリストもメシアも「油注がれた者」という意味の言葉で、「神から特別な使命を与えられて遣わされた方=救い主」を指します。1章1節はマルコ福音書の冒頭の言葉ですが、福音書全体のテーマを表す言葉だとも言えるでしょう。この福音書はイエスが「神の子」であり、「キリスト」であるということを伝えようとしています(8章29節、15章39節参照)。そして、マルコがそのことを伝えるためにとった方法は、ヨルダン川での洗礼に始まり、イエスがどのように歩まれたかを物語ることでした。十字架の死に至るイエスの歩みをていねいに見つめれば、イエスが「神の子、キリスト」であることが分かると言いたいかのようです。

  (2) 「イエスの福音の初め」と言いながら、マルコはまず初めに旧約聖書の2つの箇所を引用し、洗礼者ヨハネの活動を紹介します(なお、「預言者イザヤの書に」とありますが、実際には後半だけがイザヤ40章3節から採られた言葉で、前半はマラキ3章1節の引用です)。マルコは洗礼者ヨハネの活動を単なる人間の活動ではなく、洗礼者ヨハネの登場を神の計画(=神が昔から準備していたこと)と見ています。そして、ヨハネとイエスはこの同じ神の計画の中にいるのです。そういう意味では「イエスの福音」は洗礼者ヨハネとともに始まっていると言えるのでしょう。なおここで「イエスの福音」とは「イエスが告げ知らせた良い知らせ」(マルコ1章14節参照)という意味だけでなく、「イエスの到来、活動、生涯すべてをとおして告げられた神からの良い知らせ」という意味でもあります。

  (3) 洗礼者ヨハネは「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。「洗礼」(ギリシア語で「バプティスマbaptisma」)の元の意味は「水に沈めること」「水に浸すこと」です。実際、洗礼者ヨハネの洗礼も古代のキリスト教の洗礼も人の全身を水の中に沈めるものでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、神から離れている古い自分に死んで、神によって生きる新たないのちに生まれ変わることを意味していました。その意味で、洗礼者ヨハネにとって「洗礼」は「悔い改め(回心)」のしるしだったのです。
 ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め」ていたのは、列王記下1章8節に伝えられる預言者エリヤの姿と同じです。洗礼者ヨハネは「荒れ野」にいて、「いなごと野蜜を食べ」ていました。つまり、ほとんど断食の日々を送っていたことになります。彼は神の裁きに備えて、人々に回心することを呼びかける預言者だったのです。
 「聖霊で洗礼を」(8節)の「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」と言います。マタイやルカでは「聖霊と火による洗礼」となっていますが、これは本来、「風(プネウマ)に飛ばされ火で焼かれるもみ殻」のイメージだったようです(A年待降節第2主日の「福音のヒント」参照)。洗礼者ヨハネが予想していた「来るべき方」は神の裁きをもたらす方でした。しかしキリスト教は、実際に到来したイエスの姿に合わせて洗礼者ヨハネの言葉を解釈し直しました。キリスト教にとって、「聖霊で洗礼を授ける」は「聖霊に浸す」というイメージなのです。古代の人々は目に見えない大きな力を感じたときそれを「霊=プネウマ」と呼び、それが「神からの力」であれば「聖霊」と表現しました。聖霊の基本的な働きは、神と人とを結び合わせることです。キリスト教の洗礼とは単なる回心のしるしではなく、「人を神に結びつけ、神の子とし、神のいのちにあずからせる」ものです。

  (4) イエスが到来するまで、イスラエルには多くの苦難の歴史がありました。その中で、イスラエルの人々は神が遠くにいると感じざるをえなかったでしょう。そこには「自分たちの罪が神と自分たちの間を引き離している」という面と「神は苦しむ人々をほうっておかれているのではないか」という面の両面がありました。2000年前の「イエスの到来」はこの旧約時代の人々の救いへの飢え渇きを満たすものでした。2000年前にイエスが来て、確かに決定的な救いのわざを行ない、神と人とが1つに結ばれる道が開かれた、とわたしたちは信じています。しかし、わたしたちの中に神の救いが完全に実現しているとも言えません。だからこそ、いつか神との決定的な出会いの時がある、これがキリスト教の「終末(=キリストが再び来られる時)」についての確信です。
 それは裁きの時でしょうか、救いの完成の時でしょうか。新約聖書の中に両方の表現が見られます。確かなことは使徒パウロが述べた以下のことです。「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13章12-13節)。なぜなら「愛は決して滅びない」(同13章8節)からです。わたしたちにとって回心とは、この最終的な神との出会いに向けての回心なのです。




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Posted on 2017/12/01 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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待降節第1主日(2017/12/3マルコ13章33-37節)  


教会暦と聖書の流れ


 「待降節」と訳されたラテン語の「Adventusアドヴェントゥス」(英語ではAdvent)は、本来は「到来」を意味する言葉です。2000年前にイエスが世に来られたことを思い起こしながら、栄光のうちに再び来られることに思いを馳せます。この二重の意味での「到来」とそこに向かう人間の姿勢としての「待望」がこの季節のテーマです。第一主日には毎年、年間の終わり(終末主日)のテーマを受け継いで「目を覚ましていなさい」という、終末に向かう姿勢を指し示す言葉が読まれます。3年周期の主日のミサの聖書朗読配分はB年が始まりました。今年は主にマルコ福音書が読まれる年です。


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  (1) マルコ福音書13章5節から始まる終末についての説教の結びの部分です。この箇所の直前には「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(32節)という言葉があります。「その日、その時」とは「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(26節)ときのことです。これはダニエル書7章13節から採られた表現です。ダニエル書の物語の舞台は紀元前6世紀、捕囚時代のバビロンですが、実際に書かれたのは、紀元前2世紀のセレウコス王朝シリアの支配下で起こったユダヤ人に対する宗教的迫害の時代でした。ダニエル書7章は、「獣(けもの)」のようなヘレニズム帝国が猛威をふるうが、いつか「人の子のような者」が神から遣わされて、正しい裁きを成し遂げる、という救いと解放のメッセージです。この「時」は決定的な神の介入の時なのです。

  (2) 聖書の終末についてのメッセージには2つの面があります。
(a) 悪が栄えるこの時代はいつか終わり、神の正しい支配が訪れる、と語り、迫害の中にある信仰者を励ます希望のメッセージ、という面(上のダニエル書はその典型です)。
(b) 日々の出来事に追われて本当に大切なものを見失っているときに、神の最終的な判断の目から見て、何を大切にして生きるべきかを語る警告のメッセージ、という面。
 マルコ13章の説教にはこの両面があります。きょうの箇所の「目を覚ましていなさい」はもちろん、(b)の警告の面が強いメッセージだと言えるでしょう。
 「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。きょうの箇所の「門番には目を覚ましているようにと、言いつけておく」(34節)から考えると、とにかくその時がいつ来てもいいように警戒している、というように感じられるかもしれません。しかし、終末に向かう姿勢として求められているのが「いつ来るか、いつ来るか、とおびえてビクビクしている」ことであるとは考えにくいでしょう。「目を覚ましていなさい」というのは分かりやすいようでいて、意外に分かりにくい言葉なのです。

  (3) 「目を覚ましていなさい」という言葉のニュアンスは、マタイ、マルコ、ルカで少しずつ異なっています。先週までのA年の「終末主日」に読まれたマタイ福音書によれば、それは「主人に言われたとおりにしている」(24章46節)ことであり、結局のところ、助けを必要としている人に対する愛を持って生きること(25章31-46節参照)ということになります。ルカ福音書は「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(21章36節)と語り、「祈ること」すなわち「来(きた)るべき神とイエスに希望と信頼を置いて生きること」を「目を覚ましている」ことだと考えています。
 終末についての言葉は、今のわたしたちの現実を無視する教えではありません。むしろいつか来る終わり(そのもっとも分かりやすいイメージはわたしたち自身の死です)に向かって、今の現実をどう生きるかを問いかけるものです。それは日々の生活の中で信仰と愛をもって生きるように励ます教えなのです。

  (4) マルコではどうでしょうか。マルコ福音書の文脈をていねいに見てみましょう。マルコ11-12章はイエスのエルサレムでの活動を伝えています。イエスは神殿の境内で当時の有力者たちと対決しました。イエスは彼らの中に真実なものを見いだすことはできませんでした。神殿で見かけた人々の中で唯一イエスの心を打ったのは、レプトン銅貨2枚という自分にできる精一杯のものを神に差し出した貧しいやもめの姿だけでした。イエスはこれ以外にここには真実なものはない、と見極めたかのように神殿を後にします。
 しかし弟子たちは違いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と弟子の一人が叫びます(13章1節)。ガリラヤの田舎から出てきた弟子たちは、エルサレムの都にそびえる神殿の壮麗さに心を奪われていました。これに対するイエスの答えは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13章2節)というものでした。つまり、イエスはこの神殿もいつか滅びるもので、これが本当に頼りになるものではない、と言うのです。
 そしてオリーブ山の上からエルサレムとその神殿を見ながら語るのが、13章5-37節の長い説教です。イエスは目に見えるものではなく、目に見えないもっと確かなものに弟子たちの目を向けさせます。この説教の中には「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31節)という言葉もあります。このように見てくると、マルコ福音書で「目を覚ましている」とは、目に見える、滅びゆくものではなく、目に見えない、本当に確かなもの、決して滅びないものに心を向けていることだと言えるのではないでしょうか。今、わたしたちが生きている現実をどう見ているか、その中で何を真実なもの、何を本当に信頼すべきものだと思っているか、そう問いかけていると言っていいのかもしれません。
 今年もまた待降節を迎えました。「目を覚ましていなさい」という呼びかけはわたしたちにとって、今年、特にどのように響くでしょうか。




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Posted on 2017/11/25 Sat. 17:16 [edit]

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王であるキリスト(2017/11/26 マタイ25章31-46節)  


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 この福音の箇所はマタイ24章4節から始まった、終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語になっていきます)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。「王であるキリスト」という祭日の名称よりも、この福音そのものを深く受け取ることが大切だと言えるでしょう。


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  (1) 31節では「人の子」が主語ですが、34節でそれが突然「王」に変わっているので、31-33節と34節以降は、本来別の話だったものをマタイが結びつけたとも考えられます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」(31節)は、申命記33章2節(のギリシア語訳)やゼカリヤ14章5節から採られた表現であり、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(32-33節)の背景にはエゼキエル34章17節があります。神の現れと裁きに関する伝統的な表現であり、この31-33節は世の終わりのあり様そのものを伝えようとしているというよりも、裁きの中身(神によって決定的に問われることは何か、ということ)を語るための舞台装置のような役割を果たしていると考えたらよいでしょう。

  (2) 神の判断(裁き)で何が決定的に問われるか、ということについて、この箇所は疑問の余地のないほど明快な基準を示しています。ただし、この箇所をめぐって以下のような考えもありますので一応、紹介しておきましょう。
 一つは「誰がここで裁かれているか」ということについてです。実はわたしたちは「主よ、いつわたしたちは、・・・したでしょうか」と言うことはできません。この箇所を読んでいるわたしたちは、このように裁かれることを知っているので、わたしたちにとってイエスの言葉は意外であるはずはないのです。だとするとこの箇所は、「聖書やキリストを知らない人々がどのような基準で裁かれるか」を語る話だと考えるべきではないか、という解釈があります。
 また、これと関連して「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは誰のことか、という問題もあります。マタイ10章40,42節にこういう言葉があります。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」確かによく似ているので、ここでも「この最も小さい者」は一般的に助けを必要としている人ではなく、イエスの弟子(特に迫害されている弟子)のことだ、という考えもあります。
 このように考えると、「キリスト信者でない人は、迫害されているキリスト信者に対してどのようにふるまったか、によって裁かれる」という話だということになります。

  (3) このような考えは確かに言葉の解釈上は成り立つかもしれませんが、根本的に何か違うと感じられないでしょうか。この箇所全体は、世の終わりの裁きのあり様やその客観的基準を教えるための話ではなく、最終的な神の判断という点から見てわたしたち自身の今の生き方を問いかけている話であるはずで、自分たちとは別の人々がどう裁かれるかということを知識として知って、頭で納得するための話ではないのです。わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われるのです。

  (4)  実はこの箇所で、イエスはそれ以上のことを言っています。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言うのです。このことは一つの疑問を生むかもしれません。「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためであり、さらに言えば、結局自分が最後の裁きで有利になるためなのではないか? それが本当の愛と言えるか?」このことを考えるとき、「主よ、いつ・・・」という言葉は大切になるでしょう。この人々は本当に目の前の人を助けることに夢中だったのです。決して、神への愛のための手段として隣人を愛したのではないのです。

  (5) それにしても、なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。イエスご自身が、生涯の終わりにこの人々と同じようになっていった、ということを考えずにそれを理解するのは難しいでしょう。エルサレムの町に入られたとき、イエスは「飢え」ていました(マルコ11章12節参照)。「渇く」はヨハネ福音書が伝える十字架のイエスの言葉です(ヨハネ19章28節)。イエスの受難はエルサレムに「旅をしていた」ときに起こりました。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「」に入れられました。十字架にかけられるとき、イエスは「」にされました。「病気」以上にイエスは十字架刑で苦しめられ、弱り果て、命まで奪われます。イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と1つになる道だったと言えます。だからこそ、イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。
 わたしたちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためなのです。




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Posted on 2017/11/17 Fri. 08:30 [edit]

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