福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

四旬節第1主日 (2018/2/18 マルコ1章12-15節)  


教会暦と聖書の流れ


 「四旬節」は復活祭の準備の季節です。「四旬節」という言葉は「40日間」を意味します。復活祭までの日曜日を除く40日間が断食の期間とされたので、灰の水曜日が四旬節の始まりの日になりました。そもそもは復活祭に入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体)を受ける人の準備期間であり、今もこの四旬節第1主日に洗礼志願式が行われます。また、教会全体が主の過越(死と復活)にふさわしくあずかるための準備期間とも考えられるようになりました。


福音のヒント


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  (1)  きょうの箇所は2つの部分からなっています。イエスの活動開始に先立つ荒れ野での誘惑(12-13節)と、イエスの活動開始の部分(14-15節)です。四旬節第1主日には四旬節の原型となった40日の荒れ野の誘惑の場面が、3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書から読まれます。マタイやルカは誘惑の内容を伝えますがマルコはもっと簡潔です。
 イエスを荒れ野に送り出すのは、"霊"です。新共同訳聖書は、以前の口語訳聖書で特別に「聖霊」の意味で「御霊(みたま)」と訳されていた箇所を「"霊"」と表記しています。この霊は1章10節で「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降(くだ)って来るのを、御覧になった」と描かれています。洗礼のとき以来、一貫してイエスの行動を導くのは神の霊なのです。

  (2)  「荒れ野」についてはA年四旬節第1主日の「福音のヒント」を参照してください。「サタン」はヘブライ語で「告発する者」「敵」を意味する言葉です。人を神から引き離す力の元締めがサタンだと考えればよいでしょう。「誘惑」と訳された言葉には「誘う」と「試す」の両方の意味がありますが、ここでは「神から離れるように誘うこと」です。
 主の祈りの文語訳は「われらを試みに引きたまわざれ」となっていましたし、新共同訳のマタイ6章13節では「わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず」と訳されています。しかし、誘惑や試練は必ずあるものなので、「誘惑や試練にあわせないでください」と祈ることは考えにくいでしょう。今、カトリック教会で唱えられている主の祈りでは「わたしたちを誘惑に陥らせず」となっていて、「誘惑があってもそこに陥ることのないように守ってください」と理解しています。このほうが、きょうの箇所のイメージにもつながるでしょう。

  (3) マルコは「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と述べています。これは何を意味しているのでしょうか。この箇所の背景に旧約聖書のイメージがあるとすると、思い浮かぶ箇所の一つはイザヤ書11章です。
 「6 狼は小羊と共に宿り/豹(ひょう)は子山羊(こやぎ)と共に伏す。子牛は若獅子(わかじし)と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8 乳(ち)飲み子は毒蛇(どくじゃ)の穴に戯れ/幼子は蝮(まむし)の巣に手を入れる。9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」
 ここで、野獣はもはや人を害するものではなくなっています。神の救いが実現する終末的な平和の状態が描かれているのです。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」をこのような終末の時がもう始まっている描写と見るのが一つの可能性です。
 
  (4) 別の箇所ですが、詩編91では野獣と天使が同時に現れます。
「3 神はあなたを救い出してくださる/仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。4 神は羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばってくださる。・・・(中略)・・・11 主はあなたのために、御(み)使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。13 あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇(だいじゃ)を踏んで行く。14 『彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。15 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。』」
 ここでは危険がまだ続いています。しかし、その中でも天使(御使い)に象徴される神の確かな保護がある、というのです(ちなみにこの詩編の11-12節は、マタイ4章6節とルカ4章10-11節でイエスを誘惑するために悪魔が引用する箇所です)。もしかすると、このほうがこれから始まるイエスの歩み全体には合っているかもしれません。十字架に至るまでイエスは神に従い、悪と戦い、神によって復活させられたからです。このイメージはまた、困難や危険に満ちたわたしたちの現実にもあてはまるのではないでしょうか。

  (5) 活動開始の箇所が読まれるのは「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉のためで、回心の季節としての四旬節の性格を明らかにします。「悔い改め」はギリシャ語(名詞形)で「メタノイアmetanoia」と言います。「メタ」は「変える」、「ノイア(ヌース)」は「心」の意味です。元来は「心を変えること」を意味しましたが、新約聖書では「全身全霊で主に立ち帰る」ことを意味しています。「メタノイア」とはただ単に過去の過ちを後悔し、自分の罪深さを思うだけではありません。むしろ、神に心を向け直すことです。それは「心と生き方の方向転換」と言ってもよいでしょう。それを表すのが「回心」という漢字の表記です。わたしたちの心と生き方がどこを向いているかを問われています。




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Posted on 2018/02/09 Fri. 08:30 [edit]

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年間第6主日 (2018/2/11 マルコ1章40-45節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ福音書は1章39節でイエスの活動を簡潔にまとめて、「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」と表現しています。「悪霊を追い出す」ことは「病人をいやす」ことと密接に結びついていました(先週の「福音のヒント」参照)。きょうの箇所も一人の病人とイエスとの出会いを伝えています。


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(1) 「重い皮膚病」は新約聖書・新共同訳の中で、以前は「らい(病)」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に「重い皮膚病」と訳されることになりました。差別的なニュアンスのある「らい(病)」という言葉を避けるためであり、また、聖書の中のこの病気が現代医学の「ハンセン病」と同じだとは言い切れないからです。しかし「重い皮膚病」と言ってしまうと、あまりに漠然としていて、古代から続くハンセン病の患者たちの大きな苦しみを感じることができなくなってしまうかもしれません。聖書の世界で「重い皮膚病」の人々が負わされていた苦しみはレビ記の規定から想像できます。
 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13章45-46節) 。
 「伝染病」という考えはなくても、「汚れがうつる」という考えはありました。「汚れている」とは「聖である神と対極にいる、神からもっとも遠い人間だ」ということです。また、この病は「神に撃たれたもの」とも考えられました。「宿営の外」は共同体から追放されることを意味しています。神との関係も人との関係も完全に絶たれてしまうのです。肉体的な苦しみだけでない、大きな苦しみがこの人にはありました。このような苦しみのことを考えずに、きょうの箇所を理解することはできません。

  (2) 「御心(みこころ)ならば、わたしを清くすることがおできになります」「よろしい。清くなれ」(40-41節)は、直訳では「あなたが望むなら、あなたはわたしを清めることができます」「わたしは望む清められよ」です。単純で力強いイエスの言葉です。イエスは彼に触れました。触れることは相手の苦しみを共に担おうとする動作だとも言えますし、「あなたは神からも、人からも断ち切られた人間ではない」という宣言だったとも言えるでしょう。病気や苦しみに対するイエスの態度はどのようなものだったのでしょうか。確かにイエスは人々を苦しみから解放しようとされました。しかし、最後にはご自分の身に降りかかってくる苦しみを受け入れました。病気や苦しみについて考えるとき、この両面を考えないわけにはいきません。どちらの場合も、イエスにとって大切なことは神とのつながり、人とのつながりを生き抜くことでした

  (3) 「深く憐れんで」は、元のギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai(=はらわたを揺さぶられる)」という言葉(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)ですが、ここには写本上の問題があります。現存する古代の多くの写本を比べてみると、それぞれ微妙な違いのある箇所があります。この箇所では「深く憐れんで」が「怒って」となっている写本があるのです。「深く憐れんで」のほうが分かりやすいことは確かです。しかし、書き写す際にわざわざ難しく書き換えることは考えにくいので、本来は「怒って」だった可能性もあります。もし「怒って」だとすれば、その怒りは何に対するものでしょうか。もちろん、目の前の病人に対してではないはずです。この人を苦しめている何ものかに対する怒りだと言ったらよいでしょう。いずれにせよ、イエスは目の前の苦しむ人との出会いの中で激しく心を揺さぶられ、その人を助けます。イエスは「神の国の到来」を証明しようとして「いやし」を行なったわけではないのです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)という言葉にも、このようないやしの奇跡によって自分を理解されることを望まないイエスの思いを感じ取ることができます。

  (4) 「祭司に体を見せ」ることは社会復帰のための条件でした。当時、人を重い皮膚病であると判定するのも、それが清められたことを判定するのも祭司の役割でした。肉体的にいやされても、祭司によって清いと宣言されなければ、もといた村や家族のところに帰ることはできないのです。イエスはただ単に彼の肉体的な病をいやすだけでなく、彼と人々との絆(きずな)を取り戻そうとしていると言うこともできるでしょう。

  (5) イエスによるいやしについて、アルバート・ノーランという南アフリカのドミニコ会司祭は次のように書いています。「イエスのいやしの活動が成功したことは、宿命論に対する信仰と希望の勝利として見られねばならない。病気を自分の定めとして諦めていた病人が、自分たちは治ることができるし、そうなると信じるよう勇気づけられたのだ。イエス自身の信仰、そのゆるぎない確信が病人のうちにこの信仰を呼び覚ました。信仰は、人々がイエスとの接触をとおして彼から獲得したある態度であった」(『キリスト教以前のイエス』篠崎榮訳。新世社)。わたしたちの時代にもある種の宿命論(=あきらめ)があります。「どうせ世界は変わりっこない」「あんな人はダメに決まっている」「自分はどうにもダメな人間だ」などなど。もちろん、イエスが受難の道を受け入れたように、人間には受け入れなければならないこともあります。しかしあきらめてはいけないこともあるはずです。イエスの信仰(確信)は、神はすべての人のアッバ(父)であり、どんな人をも決して見捨てることなく、ご自分の子として愛してくださる、ということでした。イエスのこの確信は現代のさまざまな形の宿命論(=あきらめ)にも挑戦してきます。




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Posted on 2018/02/02 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第5主日 (2018/2/4 マルコ1章29-39節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週の箇所で、イエスは安息日に会堂で教え、悪霊に取りつかれていた人をいやしました(マルコ1章21-28節)。今日の箇所はその続きで、同じ1日の間の出来事です。29節「すぐに」、32節「夕方になって日が沈むと」、35節「朝早くまだ暗いうちに」と時間を追って、カファルナウムでのイエスの活動の様子が伝えられています。


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  (1) 30-31節にシモンのしゅうとめについての短い話があります。「手を取って起こされる」というイエスの動作は印象的です。イエスは病気の人に触れて、その人をいやしました。イエスに触れられることは、病人にとってどれほど大きな励ましだったでしょう。
 「病気をいやす」ということと「悪霊を追い出す」ということは現代人にとっては別のことと感じられますが、イエスの時代には明確に区別されていませんでした。悪霊は先週の「福音のヒント」でも述べたように「人を神から引き離す力、人と人との間を引き裂いていく力」と考えたらよいでしょう。当時の人々は「悪霊」という、目に見えない、人間の力を超えた悪の力が、病気を引き起こすと考えました。ここでの「熱は去り」も「悪霊が去った」と同じように考えられたのかもしれません。その人を苦しめている悪の力が追放され、その人が神とのつながり、人とのつながりを取り戻すこと、それがイエスの行なっていたことだと言えるでしょう。

  (2) 「もてなす」はギリシア語で「ディアコネオーdiakoneo」です。「仕える、奉仕する」と訳されることが多い言葉です。この言葉はマルコ福音書の中で、イエスご自身の生き方を表す言葉として、また弟子たちの生き方を指し示す言葉として重要です。マルコ10章43-45節にこうあります。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げるために来たのである」。つまり、「もてなす人=仕える人」となったシモンのしゅうとめは、イエスの弟子になっていった、とも言えますし、イエスと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていった、と言ってもいいでしょう。ただ単に肉体的ないやしが問題なのではなく、イエスのいやしを体験することによって、その人の生き方が変わる、ということが大切なのです。わたしたちの中にもそのような体験があるはずです。

  (3) 34節「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」は現代人には不思議に感じられる言葉かもしれません。1章24節でも汚れた霊に取りつかれていた人はイエスに向かって「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と言いました。なぜ、悪霊はイエスの正体を知っていたのでしょうか。それは「人間の力を超えた霊的な力によって」と言うしかないでしょう。しかし、イエスが誰であるかを知っていても悪霊はイエスとの関わりを拒否するので、悪霊にとってイエスを知っていることは救いにならないのです。当たり前のことですが、これはわたしたちにも問われることかもしれません。わたしたちもイエスが「神の子、キリスト」であることを知っています。しかし、ただ単に頭で理解していてもそれだけでは何の役にも立ちません。問われているのは、わたしたちが、そのイエスという方とどのような関わりを持っているか、なのです。
 「ものを言う」は原文では普通の「話す」という言葉が使われていますが、面白い訳です。「肩書きがものを言う」という表現が日本語にはありますが、「悪霊がものを言う」は「悪霊が力をふるう」ことと同じだったとも言えます。イエスはそれを許さないのです。

  (4) マルコ福音書によれば、イエスの活動は「宣教し、悪霊を追い出す(=病人をいやす)」というものでした。「宣教する」と訳されたギリシア語の「ケリュッソーkerysso」は、「告げる、のべ伝える」という意味です。何をのべ伝えるかといえば、1章14-15節にあった「神の福音」、すなわち「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。イエスが告げたのは「神の国の到来」でした。イエスの周りに集まった人々は、悪霊に取りつかれていた人が正気になり、病人が立ち上がるのを見て、確かにここに「神の国」が始まっていると感じたことでしょう。今のわたしたちにとって、神の国の到来はどのような形で実現していると言えるでしょうか?

  (5) 35節のイエスの祈りはどのようなものだったのでしょうか。イエスは何を祈っていたのでしょうか。マルコは祈りの内容を伝えませんが、祈りの後でイエスは「近くのほかの町や村へ行こう」と弟子たちに呼びかけます。これはイエスが祈りの中で受け取った「神の望み」だったのではないでしょうか。人間的な見方をすれば、イエスの活動はカファルナウムで成功しています。悪霊の力は打ち破られ、病人は立ち上がり、イエスは多くの人からの賞賛を受けています。カファルナウムに留(とど)まることに何の問題もなかった。しかし、イエスは祈りの中で、人間の思いとは違う「神の望み」を見いだしていったようです。ゲツセマネの祈りもまさにそういう祈りでした(マルコ14章36節参照)。
 神が一般的に何を望んでおられるか、ということは聖書に書いてあります。しかし、今、この状況の中で、このわたしに神が何を望んでおられるかということは聖書に書いてありません。それは一人一人が祈りの中で、沈黙のうちに語りかける神の言葉として受け取るしかないのです。イエスの祈りも多くの場合、そういうものだったのではないでしょうか。




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Posted on 2018/01/26 Fri. 14:16 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第4主日 (2018/1/28 マルコ1章21-28節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週の箇所でイエスは神の国の福音を告げる活動を始め、まずガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしました(1章14-20節)。それに続く箇所がきょうの箇所ですが、38節までは時間を追って出来事が進行していき、全部が丸一日の間に起こっています。マルコは、イエスのガリラヤでの活動の様子を、カファルナウムでの典型的な一日を語ることによって伝えようとしているのでしょう


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(1) カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町です。「安息日」は今で言うと、金曜日の日没から土曜日の日没までにあたり、労働を休み、礼拝を行うための日でした。エルサレムのユダヤ人は神殿で礼拝しましたが、地方には町ごとに会堂があり、ユダヤ人はそこに集まって礼拝をしていました。写真は紀元200年ごろに建てられたカファルナウムの会堂跡ですが、土台部分はイエス時代のものと言われています。
 会堂で説教するために、特別な資格はいらなかったようです。イエスは教え始めます。「律法学者のようにではなく、権威ある者として」とはどういうことでしょうか。律法学者は、律法と口伝(くでん)律法をもって民衆を指導していました。口伝律法とは、昔の律法を今の生活の中でどのように実行するか、についての何世代にもわたる律法学者たちの解釈を集めたものです。「神はかつてモーセにこう命じられた、だからこうしなければならない」というのが律法学者の教えでした。一方、イエスのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)でした。これは昔の聖書の言葉の解釈ではなく、神が今まさに何かをなさろうとしている、というメッセージでした。そこに人々は神から来たまったく新しいもの(=権威)を感じ、驚いたのでしょう。
 
  (2) 「汚(けが)れた霊」とは何でしょうか。「霊」はヘブライ語で「ルーアッハ」、ギリシア語で「プネウマpneuma」と言いますが、これは元来「」や「」を意味する言葉です。古代の人々は人間の力を超えた、目に見えない大きな力を感じたときに、それを「ルーアッハ、プネウマ」と呼んだのです。その力が神から来るものであれば「聖霊」ということになり、神に反する悪い力であれば「汚れた霊=悪霊」ということになります。
 この悪霊が人のさまざまな病気を引き起こすと考えられましたが、特に精神疾患のような、他の人とのコミュニケーションができなくなるような状態が「悪霊に取りつかれている」と考えられました。聖霊が「神と人、人と人とを結びつける力」だとすれば、悪霊は「神と人、人と人との関係を断ち切る力」だと言うこともできるでしょう。
 事実、この箇所で悪霊はイエスとの関係を拒否します。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)は、直訳では、「ナザレのイエス、我々とあなたの間に何(の関係があるのか)?我々を滅ぼしに来たのか?あなたが誰かは分かっている、神の聖なる者だ」となります。神から来たイエスとの関係を拒否することが、悪霊の悪霊たる所以(ゆえん)なのです。
 イエスは悪霊を沈黙させます。神との関係を拒否しているのは、目の前の人の本当の部分ではなく、何かしらその人を神と人から引き離そうとしている力だとすれば、その力を自由にさせておくわけにはいかないのです。イエスは悪霊を問題にしているのではなく、「悪霊に取りつかれている」と考えられていたその人自身を見ているのではないでしょうか。結果として起こったことは、その人が人との普通の交わりを取り戻し、神とのつながりを取り戻したということだったはずです。

  (3) このような見方は、あまりに現代的な解釈だと思われるかもしれません。イエスが悪霊を追い出したということをもっと素直に、そのまま受け取ってもいいのかもしれません。しかし、イエスが「悪霊」という実体のあるものを退治したように受け取ると、科学文明に生きる現代人には、『エクソシスト』の映画のような、特異な超常現象の世界としか感じられない恐れがあります。古代の人にとって「汚れた霊=悪霊」はもっと身近なものでした。現代人は、人間がほとんどの現象を理解し、コントロールできると考えますが、古代の人にとって、人間の理解や力を超えたものは周囲にたくさんあったのです。
 現代のわたしたちにとって、悪霊とはなんでしょうか? わたしたちの周りにも「神と人、人と人との関係を引き裂いていく、目に見えない大きな力」が働いていると感じることはないでしょうか。神への信頼を見失い、人と人とが支え合って生きるよりも一人一人の人間が孤立し、競争に駆り立てられ、大きなストレスが人に襲いかかり、それが最終的に暴力となって爆発してしまう・・・そんな、一人の人間ではどうすることもできないような得体(えたい)の知れない「力」が悪霊だと言ってもいいのではないでしょうか?

  (4) 27節の「権威ある新しい教えだ」という人々の驚きの言葉は、22節とよく似ています。人々はイエスの教えの内容に驚いただけでなく、この出来事をとおして、イエスの言葉が現実を変える力を持っていることに驚くのです。「神の国は近づいた」というメッセージは、イエスが悪霊に苦しめられ、神や人との交わりを喪失していた人を、神や人との交わりに連れ戻すことによって、もうすでに実現し始めたのだと言ってもよいでしょう。何かの現象を「悪霊の仕業だ」と言ったり、誰かのことを「あの人は悪霊に取りつかれている」と非難しても何も始まりません。むしろ、悪霊に覆われてしまっているような現象や人間の、もっと深い部分にどのように触れ、どうしたらつながりを取り戻していくことができるか。そのことがわたしたち一人一人に問われています。




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Posted on 2018/01/18 Thu. 08:45 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第3主日 (2018/1/21 マルコ1章14-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 今年の年間主日のミサの福音では、主にマルコ福音書を用いてイエスの活動の歩みを思い起こしていきます。イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊に満たされ、神の「愛する子」と宣言されました(マルコ1章9-11節)。そして荒れ野で悪魔の誘惑を退けた(1章12-13節)のち、きょうの箇所から神の子としての活動を始めるのです。


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  (1) マタイ福音書4章12節では「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」とあり、ヨハネの逮捕がイエスのガリラヤ行きの理由だったような印象がありますが、マルコは「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き」と言うだけです。マルコはヨハネの活動の時期とイエスの活動の時期をはっきり区別しようとしているのでしょう。準備の時は終わり、いよいよ神の救いが実現する時が来たのです。ヨハネはユダヤの荒れ野で活動していました。そこからエルサレムの都の人々に回心のメッセージを告げました。一方、イエスが活動の場として選んだのは、エルサレムの都からは遠いガリラヤと地方でした。そこはイエスの故郷であり、人々の生活の場でした。
 
  (2) 「福音」はギリシア語で「エウアンゲリオンeuangelion」で「良い知らせ」を意味します。「神の福音」はここでは「神からの良い知らせ」の意味で受け取ればよいでしょう。「時は満ち」は神の計画の中での決定的な時が来たことを表しています。「神の国」の「国」は「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウスbasileus)」から来ています。「王であること」「王となること」「王としての支配」「王が治める土地(=王国)」の意味で用いられます。「近づいた」は文法的には完了形になっていて、「近づいたがまだ来ていない」の意味ではなく、「近づいてもうここに来ている、ある意味で実現し始めている」という意味があります。
 ローマ帝国がユダヤ人を支配し、貧しい人が苦しんでいても、神は遠くにいて沈黙していると感じていた当時の人々に対して、イエスは「神が王となられる」と語りました。神は遠くから人間を眺めているような方ではない。神は近づいてきて、今まさに救いのわざを行おうとしておられる。それはまさに救いのメッセージ=「福音」でした。

  (3) これに対して人間に求められることは「悔い改めて、福音を信じ」ることです。「悔い改め」はギリシア語で「メタノエオーmetanoeo」で、もとの意味は「心を変える」ですが、単に道徳的な反省を意味する以上に、聖書の中では全身全霊で「主に立ち帰る」ことを表す言葉です。「福音を信じなさい」の「福音」の内容は「神の国の到来」そのものを指しています。「信じる」はただ「本当だと思う」だけでなく、そこに「信頼を置いて自分をゆだねる」ことを意味しています。
 15節の言葉は、マルコがイエスのメッセージをまとめたものです。マルコ福音書は、他の福音書よりもイエスの説教を少ししか伝えていませんが、イエスが「教えた」と言うとき、いつもこのメッセージが語られているのだと考えればよいでしょう。

  (4)  マルコはイエスの活動の最初のこととして、4人の漁師を弟子にする話を伝えています。漁師は特に貧しく、身分の低い人ではありませんでした。使徒言行録4章13節でペトロとヨハネは「無学な普通の人である」と言われています。特別な教養(律法についての知識)があるわけでもない普通の人をイエスは弟子にします。
 ところで考えてみると、いきなり見知らぬ人に声を掛けられてついていくというのは不自然ではないでしょうか。ルカはそう考えたらしく、まず、イエスの言葉を聞き、イエスのなさったこと(不思議な大漁の出来事)を見てから、ペトロたちがイエスに従ったという話を伝えています(ルカ5章1-11節)。マルコはこの話を実際に起こった話というよりも、「イエスに従うとはこういうことなのだ」ということを示す典型的な物語として伝えている、と考えたほうがよいかもしれません。
 普通に考えれば、弟子のほうが師事したい先生を見つけて、弟子入りを願うのではないでしょうか。それなのにここではイエスのほうが弟子を選ぶことになっていることも特徴的です。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちのほうがイエスの素晴らしさを知って、イエスに従っていこうと思ったという面もあるでしょう。しかし同時に、それよりも前にイエスのほうが自分を呼んでくれていたと感じることもあるのではないでしょうか。
 「神の選び」は、その人が優れているからその人を選ぶというのではありません。選びの根拠は人間にではなく、神にみ心あります。神はすべての人を救うために、もっとも弱く貧しい人々を選ばれるのです(申命記7章6-8節、Ⅰコリント1章26-31節参照)。

  (5) 最初の弟子になったこの4人は、15節のイエスの神の国への招きに最初に応えた人だとも言えるしょう。イエスのメッセージは自分と関係ないところで、自分に関係なく、神の国が実現していくというメッセージではありませんでした。それは一人一人に「悔い改めて、福音を信じる」ことを求めるメッセージなのです。自分のすべてを神に向け直し、この神の国の到来のメッセージに信頼を置き、そこに自分をゆだねていく、その時、神の国はある意味でもう始まっていると言ってもよいでしょう。おそらくわたしたちにとっても事情は同じです。自分の周囲の世界を見渡しても(いくらテレビを見ていても)、神の国の始まりは見えてこないでしょう。しかし、自分がイエスのメッセージに応えて生きようとしたときに、自分の周りで何かが変わり始めるのです。




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Posted on 2018/01/12 Fri. 09:29 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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