福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

復活節第2主日 (2017/4/23 ヨハネ20章19-31節)  


教会暦と聖書の流れ


 復活の主日の福音は復活の朝の「空の墓」の物語でしたが、第2、第3主日には「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「目に見えないがイエスがともにいてくださるとはどういうことか」を示すヨハネ福音書の箇所が読まれていきます。
 復活節第2主日の福音は毎年同じ箇所で、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です(なお、この「福音のヒント」も毎年ほとんど同じです)。このような箇所は2000年程前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むことができるでしょう。


福音のヒント


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  (1) 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。先生であるイエスが逮捕され、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、街にはイエスの残党を探して捕らえようとしている人がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
 そこへイエスが来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ちます(26節もそうです)。復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これは普通のあいさつの言葉(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、21、26節で繰り返されるところを見ると、よほど印象的な言葉だったと言えるでしょう。
 弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけていても心は恐れと不安でいっぱいなのです。本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後で「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。

  (2) 復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れること(ルカ15章11-32節)、これがイエスの語るゆるしのもっとも明快なイメージです。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であることにおいて失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として受け入れ、新たに派遣していきます。

  (3) 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。これまで父である神に派遣された者としてイエスが地上で行なってきたことを、今度は弟子たちが行なっていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。弟子たちの使命の中心は「ゆるし」、あるいは「愛」と言ってもよいでしょう(ヨハネ13章34-35節、15章12節参照)。「ゆるし」は「愛」の典型だからです。23節の「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」は、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ、と受け取るべきでしょう。人からゆるされることをとおして神のゆるしを知った、あるいは、人から愛されることをとおして神の愛を実感することができたという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。

  (4) 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。ルカ24章のエマオの弟子たちも他の弟子たちから離れていきましたが、イエスの死という出来事は、弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でもあったようです。トマスは、最後までイエスに従うという覚悟(ヨハネ11章16節参照)を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエスが生きているという知らせが届きます。トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられないような言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」のではないでしょうか。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。
 トマスは弟子たちの集いの中で、弟子たちの集いの真ん中にいるイエスに出会いました。わたしたちはどこで復活のイエスに出会うことができるでしょうか。

  (5) 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)は、わたしたちへの祝福の言葉だと言えるのではないでしょうか。使徒たちの時代の後のキリスト信者は、皆「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じることは「愛を信じる」というのと似ています。「目に見えないものは信じない」と言い張ることも可能かもしれませんが、だから「愛など信じない」と言うのだとしたら・・・? 「信じる」とは、単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです(トマスにとってはまさにそうでした)。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(31節)の原文は「信じていない人が信じるようになるため」とも「信じている人が信じ続けるため」とも受け取ることができます。ヨハネ福音書はいつも、すでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへと導いてくれる書だと言えるでしょう。




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Posted on 2017/04/14 Fri. 08:45 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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復活の主日 復活徹夜祭(2017/4/16マタイ28章1-10節)  


教会暦と聖書の流れ


 復活の主日のミサには「復活徹夜祭」と「日中のミサ」、さらに「夕刻のミサ」があります。古代ユダヤでは日没と共に新しい1日が始めることになっていましたが、イエスは死んで三日目、今で言えば土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に復活したと考えられ、古代から「主の過越(すぎこし)=イエスが死からいのちへと移られたこと」の祝いは夜中に行われていました。光の祭儀や大人の洗礼・堅信を行って主の過越を祝う復活徹夜祭は、復活祭のメインのミサだと言えます。
 ここで取り上げるマタイ福音書の箇所は徹夜祭のミサの中で読まれる箇所で、日中のミサでも読むことができます。なお、日中のミサの固有の箇所は毎年同じヨハネ20章1-9節、夕刻のミサの福音としてはルカ24章13-35節が読まれることになっています。


福音のヒント


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(1) 前述のように古代ユダヤの一日の始まりは日没の時でしたから、「安息日」というのは今でいうと金曜日の日没から土曜日の日没までを指しています。土曜日の日没から始まる次の一日が「週の初めの日」でした。
マルコ福音書ではイエスの墓にいたのは「若者」ですが、マタイでは「地震」とともに「主の天使」が現れます。マタイはここに神の大きな働きがあり、ここで告げられる言葉はまさに神の言葉であることを明確に示そうとしています。
マルコでは女性たちが墓に着いたとき、すでに墓の入り口をふさいでいた石は取り除けてありましたから、その入り口を通って復活したイエスが墓から出て行ったかのような印象があります。しかし、マタイでは彼女たちが墓に行った瞬間に墓が開きます。マタイで墓の入り口が開かれるのは、イエスが墓を出て行くためではなく、女性の弟子たちに空の墓を見せるためだと言えるでしょう。イエスの「復活」とは、死んだ人が生き返ったというレベルの話ではなく、イエスが死に打ち勝ち、神の永遠のいのちを生きる方となったことを表す言葉です。復活のいのちとは、時間・空間の制約を越えたいのちなのです。その意味では、物理的に墓の入り口が開かれている必要も、イエスの遺体がなくなっている必要もないと言えます。これらの出来事は、復活そのものの証拠というよりも、イエスが復活したということを弟子たちに悟らせるためのしるしなのです。

  (2) 「マグダラのマリアともう一人のマリア」はマタイ27章61節にも登場し、そこではイエスの埋葬を見守っていた女性でした。さらにその前の27章56節では十字架上で死を迎えたイエスを見守っていた女性たちの名として「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」の名前が挙げられています。男の弟子たちが逮捕されたイエスを見捨てて逃げ去ったのと対照的に、最後までイエスについていった女性の弟子たちの姿がここにはあります。ヨハネ20章の空(から)の墓の場面ではマグダラのマリア一人だけが登場しますが、マタイ、マルコ、ルカはこれらの場面すべてに複数の女弟子が立ち合っていたことを伝えています。一人の証言よりも複数の証人による証言のほうが確かだと考えられていたからでしょうか。あるいはここで、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18章20節)というイエスの約束を思い出すこともできるかもしれません。
 さらに、きょうの箇所で「もう一人のマリア」と呼ばれているマリアをわたし自身のことだと考えてみると、福音の場面がもっと身近に感じられるようになるかもしれません。

  (3) 福音書が伝える、復活したイエスに出会った弟子たちの物語は、2000年前に起こった一回限りの出来事というだけでなく、今もわたしたちの中で起こっている、わたしたちとイエス(目に見えないが、今も生きているイエス)との出会いの物語として読むことができます。
 見張りをしていた人たちは地震と天使の出現に「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(4節)のですが、二人の女性も同様だったようです。天使は彼女たちに「恐れることはない」(5節)と語りかけますが、この命令形は現在していることを禁じる命令の形で、「恐れることをやめよ」という意味だからです。天使の言葉を聞いた女性たちは「恐れながらも大いに喜び」ました(8節)。この時点では「喜び」と「恐れ」が同居しています。彼女たちが本当に恐れから解放されるのはイエスに出会ったときです。イエスは「おはよう」と語りかけましたが、この言葉は直訳では「喜べ」です(一般的なあいさつの言葉でもあるので「おはよう」と訳されています)。さらにイエスは彼女たちに天使と同じ言葉で「恐れることはない」(10節)と言います。この出会いが、彼女たちを根本から変えるのです。
 わたしたちの中にもさまざまなことに対する恐れがあるでしょう。時としてわたしたちは恐れに囚われて身動きできなくなっているかもしれません。「恐れ」から解放されて「喜び」に満たされていく体験、そして凍り付いていたわたしたちの心が動き始める体験、そういう体験が復活(=過越、パスカ)の体験だと言えるのではないでしょうか。

  (4) きょうの箇所は確かに「出現(=死んで復活したイエスとの再会)」の物語を含んでいますが、天使もイエスご自身も、この後にもっと重要な出現が起こることを予告します。「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。マタイ福音書のクライマックスは16-20節のガリラヤの山での出現で、きょうの箇所はそこに向かう前段階に過ぎないとも言えます。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。マタイ福音書が伝えようとする復活のイエスは、復活の日の朝、女性の弟子たちに姿を現した方というよりも、目に見えないが永遠にわたしたちと共にいてくださるイエスなのです。
 ところでガリラヤの山と言えば、マタイ福音書の中では5~7章の「山上の説教」も思い出されるのではないでしょうか。復活のイエスはきょうもわたしたちに「幸い」の福音を語りかけ、み言葉をもってわたしたちを導いてくださる方なのです。




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Posted on 2017/04/07 Fri. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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受難の主日 (2017/4/9 マタイ27章11-54節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦では、きょうから始まる聖週間のうち、聖木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度、特別に3日間かけて、キリストの受難・死から復活のいのちへの移行、すなわち「過越(すぎこし)=パスカ」を記念します。この中の聖金曜日の典礼で、毎年ヨハネ福音書からの受難朗読が行われます。一方、主日のミサのサイクルでも、キリストの生涯の主な出来事を記念していくので、復活の主日の直前の日曜日に、イエスの受難を記念することになっています。これが受難の主日です。受難の主日には3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書からの受難朗読が行われます(今年はマタイで、長い形としてマタイ26章14節~27章66節を読むこともできます)。
 なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。


福音のヒント


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  (1) マタイ福音書の受難物語は、マルコ福音書の受難物語を基にしていて、それにいくつかの独自の伝承を加えています。この箇所で、マタイが付け加えた伝承は、19節のピラトの妻からの伝言、24-25節のピラトと民衆のやりとり、さらに51-53節で神殿の垂れ幕が裂けた後の出来事です。19、24-25節では、イエスが無罪であること、イエスの死の責任はローマ人であるピラトにではなく、むしろユダヤ人にあることが強調されているようです。そこには、マタイ福音書が書かれたころのキリスト教とユダヤ教との対立、ローマ帝国によるキリスト教への迫害などの事情が反映しているのかもしれません(ローマ帝国と敵対しない配慮が必要だったのでしょう)。なお、イエスの裁判はイエスの殺害を正当化するために行われたもので、裁判からは「イエスがなぜ死刑にならなければならなかったか」は見えてきません。イエスは裁判で自分を神の子であると言ったから死に定められたのではなく、イエスのこれまでの活動とメッセージ全体が当時のユダヤ人指導者たちの目に危険なものと映ったから死に追いやられていったのです(51-53節については後で述べます)。

  (2) 40-43節で十字架につけられたイエスをののしる人々の言葉「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」は、マルコ福音書よりもくわしくなっています。この言葉は、イエスの宣教活動に先立つ荒れ野での悪魔の誘惑を思い出させます。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(マタイ4章6節)。
 自分の身を守る(自分を救う)ことは一般的には悪いことではないはずです。しかし、ここで問題なのは、それがこの場合には人を神から引き離す誘惑であるからです。荒れ野でイエスは自分を神から引き離す誘惑を拒否しました。最後の苦しみの中でも同じようにしたのです。ただ「悪いことをするかしないか」という面だけで誘惑を考えるのではなく、「わたしたちを神から引き離そうとするものは何か」と考えると、自分の問題としての誘惑が見えてくるのではないでしょうか。

  (3) イエスをののしった人々のこの言葉はまた、詩編22編をも思い出させます。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」(詩編22編9節) マタイの受難物語の背景には、この詩編があります(マルコも同じですが)。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩編22の冒頭の言葉です。「くじを引いてその服を分け合い」(マタイ27章35節)は、詩編22編18-19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」を思い出させます。
 詩編22は苦しみのどん底からの祈りですが、単に苦しみの叫びでは終わりません。苦しみの中からの祈りは、次第に賛美と感謝に変わっていきます。それは「主は貧しい人の苦しみを/決して侮(あなど)らず、さげすまれません。御顔(みかお)を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)と確信しているからです。この詩編はイエスの時代まで、何世代にも渡って苦しみのどん底にいる人々によって歌い継がれ、イエスの後にも、多くの人がこの詩を自分の祈りとして歌い続けてきました。イエスもまたその人々の一員になったと言うことができるのでしょう。
 マタイは、イエスの十字架を神からも見捨てられたような悲惨な死であるというだけでなく、そこに、徹底して苦しむすべての人とのつながりを生き、同時に神に従って生きる姿を見ています。苦しみの中にあるときに、神から離れ、人からも孤立してしまうのか、それとも、苦しみの中で、神につながり、人とつながって生きるのか、それはわたしたちにとっても大切なテーマなのではないでしょうか。

  (4) 51節の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」はマルコ福音書も伝える出来事で、神と人との間を隔てているものが取り払われることを暗示しています。51節後半-53節「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」は、マタイ福音書だけが伝える不思議な話です。この出来事が指し示しているのは、イエスの復活がイエス個人だけに意味のあることではなかったということでしょう。イエスの受難だけでなく、イエスの復活にもすべての人との連帯性があるのです。復活とは、神とのきずなの完成であり、同時に人とのきずなの完成です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と約束されるイエスは、わたしたちが死に臨むときも、さらに死を超えても、常に共にいてくださる方です。ここにわたしたちの希望の根拠があります。




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Posted on 2017/04/01 Sat. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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四旬節第5主日 (2017/4/2 ヨハネ11章1-45節)  


教会暦と聖書の流れ


  四旬節第3~第5主日(A年)に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の3番目の箇所です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。きょうの箇所は、病人であったベタニアのラザロが「死からいのちへ」と移されていく話です(今回もまた『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。


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  (1) ラザロの「よみがえり」は、イエスの復活とは違います。ラザロは地上のいのちに戻されますが、それはいつかまた死ぬことになるいのちです。これに対して、イエス・キリストの復活のいのちは、神の永遠のいのちであり、決して滅びることなく、今もいつも生きているいのちです。このような違いはありますが、それでもこの物語の中に「死からいのちへ」という「過越(すぎこし)」のイメージがはっきりと示され、この中でイエスが「復活であり、いのちである」(25節)ことが宣言されます。
 なお、この出来事は、ヨハネ福音書の物語の展開の中で、イエスの受難と密接に結びついています。死者を生き返らせたことでイエスの評判が広まることに危機感を抱いた人々は、イエスをこのまま放っておけない、と考えてイエスを抹殺しようとするのです(ヨハネ11章45-53節、12章9-11,17-19節参照)。

  (2) ベタニアという町は、エルサレムの近くにあります(18節「15スタディオン」は3km弱)。ルカ福音書10章38-42節にも「マルタとマリア」という姉妹が登場しますが、彼女たちの村はガリラヤの近くのようです。それでも、ヨハネ11章の「マルタとマリア」とルカ10章に登場する姉妹の性格には、ある共通点があります。ルカでもヨハネでも、イエスを迎えるのはマルタですし、マルタのほうがマリアより行動的だという印象があります。
 2節では「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と紹介されています。ヨハネ福音書ではその話は後の12章にありますから、少しおかしな紹介の仕方でしょう。ヨハネ福音書は、誰もが知っているあまりにも有名な話だからこう言うのでしょうか。あるいはルカ7章36-50節でイエスの足に香油を塗り、その髪でぬぐった女性の話を周知のこととして前提にしているのでしょうか。

  (3) 3節の「愛する」はギリシア語では「フィレオーphileo」という動詞で、人間的な親愛の情(友としての愛)を表す言葉です。36節の「愛する」も「フィレオー」です。一方、5節の「愛する」は「アガパオーagapao」で「神の愛」というときに使われる言葉です。そのものを無条件に大切にする愛を表します。ヨハネ福音書はイエスの愛が、単なる人間的な愛着とは違うと言いたいのでしょうか。「栄光のため」「栄光を受ける」(4節)は先週の福音の「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)と似ています。「ため」は目的を表すというよりも、これから神がこの人に救いの働きをなさり、そのことを通して神とイエスの真の姿(素晴らしさ)が輝き出る、という確信を表している言葉でしょう。

  (4) 6節の「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」から16節の「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『私たちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」までの展開は少し不自然に感じられるかもしれません。7~10節と16節だけを取り出してみれば、ラザロの物語とは関係ない別の物語と考えることもできます(イエスは危険に満ちたユダヤに赴くが、トマスはそのイエスに従う決意を表す、という話)。ラザロの物語の中の空白の数日間を埋めるために、別の言い伝えが挿入されたのでしょうか。とにかくイエスが到着する前に、ラザロは死んでしまいました。

  (5) マルタの言葉「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」はイエスに向かって不平を言っているように聞こえます。しかし、おそらくだれでもそんなふうに言いたくなった経験があるのではないでしょうか。「主よ、もしあなたがいてくださったら、こんなにひどいことは起こらなかったでしょうに!」。ルカ10章40節のマルタの言葉「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」これも不平の言葉ですが、わたしたちも同じように「主よ、こんなにひどい現実があるのに、それを何ともお思いにならないのですか!」と叫びたくなることがあるかもしれません。マルタはただ不満を抱くのではなく、それをイエスにぶつけます。それはマルタなりの「祈り」だと言ってもいいかもしれません。そして、イエスとの対話の中で、マルタは本当に大切なイエスからの答えをいただくのです(ルカ10章でもそうでした)。自分の思いを率直にイエスにぶつけていくマルタの姿勢、ここにはわたしたちの祈りのためのヒントがあるかもしれません。

  (6) この物語の中で特に印象的なのは「イエスは涙を流された」(35節)という言葉です。福音書の中でイエスが泣いたと記されているのは、ルカ19章41節とこの箇所だけです。33節と38節で「心に憤りを覚え」と訳されている言葉も、大きな感情の動きを表す言葉です(新共同訳聖書がこれを「憤り」と訳すのは、「死と滅びの力に対する憤り」の意味でしょう)。さらに、死んで、聞く耳を持たないはずのラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と叫ぶ姿にも、イエスの激しい思いが感じられないでしょうか。
 ヨハネ福音書が伝える「神的な力を持ったイエス」と「人間的な弱さや感情を持ったイエス」(4章でもそうでした)、この2つの面は切り離せません。ラザロのよみがえりは、単なる超能力による奇跡ではなく、イエスの深いコンパッション(compassion 共感)から起こる出来事なのです。いや、むしろこのコンパッションの中にこそ、「死を超えるいのち」が輝くと言えるのかもしれません。・・・わたしたちも人の苦しみにどれくらい敏感であるかが問われています。




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Posted on 2017/03/24 Fri. 08:50 [edit]

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四旬節第4主日 (2017/3/26 ヨハネ9章1-41節)  


教会暦と聖書の流れ


  3年周期の主日のミサの朗読配分でA年にあたる今年の四旬節第3~第5主日には、洗礼志願者のための伝統的な朗読箇所として、ヨハネ福音書の4章、9章、11章が読まれます。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。きょうの箇所はその2番目で、生まれながら目の見えなかった人がイエスとの出会いによって「闇から光へ」と移される物語です(なお、今回も『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。


福音のヒント


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  (1) イエスが地上で活動していた時からヨハネ福音書が書かれるまでには長い年月がかかっています。ヨハネ福音書の物語を、実際に起こった出来事をそのまま伝える記録と読むには難しい面があります。たとえば、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(22節)というのはイエスの地上での活動中のことではなく、福音書が書かれた1世紀末の状況を反映した記述だと考えられています。ただし、この物語の核には、イエスと出会った人の真実の体験があると思って読むと良いでしょう。

  (2) 当時の社会には「病気や障害は罪の結果である」という考えがありました。それは普通、本人の罪の結果と考えられましたが、この人は「生まれつき目が見えない」ので「それでは両親の罪の結果なのだろうか」と弟子たちは考えたわけです。しかし、イエスは個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきり否定しています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(3節)。そして「神の業がこの人に現れるためである」と言われます。「ため」と言いますが、イエスは原因や目的を述べて目の前の現象を説明しようとするのではなく、これから起こる出来事のほうに人々の目を向けさせます。イエスの関心は「今、神はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところにあるのです。
 目の前の人が苦しんでいるとき、その苦しみについて自分が納得できる説明を見つけて傍観者のままでいるのか、それとも、この目の前の人にかかわり、その苦しみを共に担おうとするのか、わたしたちもイエスから問われているのではないでしょうか。
 「シロアム」は「遣わされた者」の意味だと、ヨハネ福音書は解説しています。イエスが神から「遣わされた者」としていやしを行うことを暗示しているのでしょうか(4節)。あるいは、いやされた人が「遣わされた者」になっていくことを暗示しているのでしょうか(この人は物語の展開の中で、次第に力強くイエスを証言する人になっていきます)。

  (3) ファリサイ派は熱心に神に仕えようとしていました。そのために律法を解釈し、事細かに守ろうと努力していました。イエスは安息日に泥をこねてこの視覚障害者をいやしましたが、ファリサイ派の考えでは、これが律法違反の労働にあたりました。そして、彼らの考えでは安息日の律法を守らないような人間は、間違いなく罪びとでした。しかし、罪びとがこのような「しるし」(奇跡)を行うことはできないとも考えられていました(16節)。頭で理解し、納得しようとしてもうまくいきません(それは生まれつき目が見えないのは本人のせいか、両親のせいか、と頭で考えて納得しようとした弟子たちの戸惑いとも似たところがあります)。自分たちが納得するために彼らがとった方法は、イエスによるいやしの事実を否定する、ということでした。この事実が否定されれば、イエスは罪びとだということが確定すると考えたわけです。
 宗教に熱心な人の落とし穴がここにあります。教えられたこと、信じていることに忠実であろうとするあまり、目の前の人間の生きている現実が見えなくなるのです。
 イエスはファリサイ派の罪を指摘します。39節の「見える」「見えない」には、肉体的な視力のことと、イエスを理解するか否かということの両方の意味が掛け合わされています。「自分たちは何もかも理解している、見えている、分かっている」そう思いこんでいることが彼らの罪だというのです。「罪」とは根本的に神から離れることです。彼らは自分たちの確信を守るために、目の前で起こっている神のわざを否定して、生きた神とのつながりを見失ってしまったのです。

  (4) 一方、いやされた人にとって、自分の身に起こった出来事だけは決して否定できないことでした。たとえ彼の両親がそのことを知らないと言っても、彼には否定できません。なぜならそれは彼自身の体験だったからです。彼は、自分の意見を述べているのではなく、自分が体験し、それによって自分が救われた、その事実を証言するのです。
 いやされた人はイエスに泥を塗られ、シロアムの池に行って見えるようになったのですから、実はイエスの姿を見ていませんでした。物語の最後に、この人はイエスに出会い、はっきりとイエスを見て、信じるようになります(38節)が、それまで、この人にはイエスについての「知識」がほとんどありませんでした。イエスがどこにいるかと問われて「知りません」(12節)と答えます。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」(25節)とも言います。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」これだけが彼の知っていることでした。「イエスを知る」とは、イエスについての知識の問題ではなく、自分が変えられた体験をとおして知ることなのです。
 「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(34節)と言われれば、わたしたちも「そのとおりです」と言うしかないでしょう。しかしイエスに出会って自分が変えられたのならば、そのことを証言せずにはいられないのです。イエスに出会ってわたしはどう変えられたのか。少しでも人を愛せるようになった? 解決できない問題を神にゆだねることができるようになった? 絶望的な状況の中でも、今自分にできる最善のことは何かと考えられるようになった? そういうことを分かち合えたらどんなに素晴らしいことでしょう。




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Posted on 2017/03/17 Fri. 08:50 [edit]

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